誰そ彼ラブレター

犀川みい

第1話


 人生で一度だけ、ラブレターを書いたことがある。顔も名前も知らない相手に。

 誰が聞いても変な話だと思う。


 私は彼の奏でるピアノの音色しか知らない。

 彼のピアノは、泣きたくなるくらい優しい。


 本当にそれ以外、私は彼のことを何も知らない。あれを恋と言っていいのか、ラブレターと呼んでいいのかすら、今となっては自信がないけれど。


 それでも、高校生の私は確かにラブレターのつもりで言葉を連ねた。


 思い出はいつも夕焼けに染まる学び舎の中にある。水曜日の放課後、音楽室から漏れ聞こえるピアノの音色にただ耳を傾けているだけの青春だった。結局、彼が私の手紙を読んだのかすら知らないし、彼のことは何も分からないまま。


 臆病な私は、手紙に自分の名前を書けなかった。



 ***


「……地元に帰りたくない」



 時は流れて、大学四年生の春。冴えない美大生の私、澤村香さわむらかおりは大荷物を抱えて、大学の学食で友人相手にくだを巻いていた。手元の珈琲はすでに冷めきっている。



「えー?良いところじゃん。香の地元って金沢でしょ?京都っぽいし、食べ物おいしそうだし」


「京都っぽいのは茶屋街の一部だけ。ずっと天気悪いし、大体雨だし、遠いし、交通費高いし、実家苦手だし、親に卒業後のこととかねちねち言われるだろうし、雨降るし、降らなくても曇るし、基本天気悪いし!」


「半分以上、天気の愚痴じゃん」


「弁当忘れても傘忘れるなって言葉あるくらい天気悪いからね」


「あんたの地元、スコールでも降るわけ?」



 はあ、と大きなため息が漏れる。私は学食の一面ガラス張りの大きな窓からこれぞ関東ぞと言わんばかりの雲一つない青空を羨望の眼差しで見上げた。



「でもさ、地元に行けば会えるかもしれないんじゃない?あのラブレターの相手に」



 醒めた珈琲をちびちび飲んでいた私はむせて咳き込んでしまう。窓に反射した私の顔は形容し難いくらい不細工な表情になっていた。


 友人の七緒なおは動揺する私を見てクククと笑って、ピンク色の髪を揺らした。彼女の髪は月単位で色が変わる。今は春なので桜を意識しているらしい。


「ちょっ……素面の時にそんな恥ずかしい話しないでよ!それは三次会でべろんべろんの時だったから話したのに!」


「かわいい話じゃん、高校生って感じでさ」


「もう……からかわないでよ。七緒だから話したのに!ああもう、話すんじゃなかった!」



 七緒とは大学で知り合って、卒業旅行も二人で行こうと約束する仲だ。二人とも無事に卒業できれば、の話だが。特にこのところ制作が難航している私は、卒業できるのか今から不安でいっぱいだ。



「でも、顔も名前も分からないんじゃ、万が一会えてもラブレターの相手か分からないよね。なんで顔を見に行かなかったの?実は先生かもしれないし、女かもしれないし、好みの顔じゃないかもよ?」


「い、行ったよ!でも、勇気無くて声かけられなくて……しかも放課後で陽が落ちてて、教室が暗くて顔がよく見えなかったの!でもね、学ラン来てたし、シルエットだってシュッとしてたし!」


「そこまで行ったなら声かければよかったのに。せめて、ラブレターに名前書いて渡せばよかったのにね」


「いやいや、馬鹿言わないで……名前を書かなかったことだけが救いだよ。だって怖くない?隠れて演奏だけこっそり聞いてる奴いたら」


「ストーカーかなって思う」


「ですよね……」



 もう四年も経つというのに、思い出すたび、未だにその気恥ずかしさは薄れない。


 私は両手を顔で覆ってうなだれると、七緒とは対照的なダメージ知らずの長い黒髪がさらりと机から垂れた。人見知りで陰気な性格のおかげで、美容院で髪を染めることなど不可能。生まれてこの方カラーもせず、結果として美髪を保っている。



「じゃあ、純粋にピアノを聞いただけで好きになったんだ。そんなすごい演奏だったの?天才ピアニストみたいな?」


「いや……どうだろう。普通にうまかったけど、音楽詳しくないし分からない。なんかうまく言えないけど、あの時の私にとっては……すごくいい音楽だったんだよ」


「ふーん?」



 七緒は納得していない顔で、相槌を打ちながら頬杖をつく。



「弾いてた曲も聞いたことない曲でさ。まあ、元から知ってる曲なんかそんなにないけど。なんて曲か気になって調べたりしたんだけど、全然わからないんだよね。素敵な曲だったから、今でも曲名だけは知りたいのに」


「へえ、どんな曲?クラシック?」


「クラシックっていうよりもっと現代的な感じかな?フフフン、フフーン、フンフンフーンってメロディなんだけど」


「いや、音痴過ぎて分かんない」


「ド直球の悪口を躊躇わずに言うね」


「そう言えばグループ展示の打ち上げの後でカラオケに行ったとき、香の歌声でみんな耳塞いでたよね。ジャイアン以外であんな対応される人、初めて見たわ」



 全て事実だったので何も言い返せなかった。

 そっと腕時計に目を落とした。まだ少し時間がある。



「あ、来た!」



 不意に机に置いていた七緒の携帯電話が振動し、画面にメールの通知が表示される。七緒はぱっと携帯を手に取る。しかしすぐに顔を歪めて毒づいた。



「うえー、またお祈りメール。祈らなくていいから内定くれ!」


「ああ……残念だったね」


「あーあ、あたしも実家が金持ちか香くらい天才的な絵の才能があったら就活しなくてよかったのに」


「何言ってんの。別に天才じゃないし、私だってまだ就活するか迷ってるよ……」


「え、香、就活するの⁉無理でしょ、あんたみたいな絵しか描けない人間には!」



 清々しいくらいの失礼な物言いに思わず笑ってしまった。


 実際、就職しないという美大生は少なくない。特に油絵や日本画、彫刻などの学科はその傾向が強い。


卒業後はプロの作家になったり、もともと実家が裕福で働く必要がなかったりと理由はまちまちだが。対して七緒のようなデザイン系の学科は商業的なものにつながる美術なので、きちんと就職する人が多いイメージだ。



「そういや面接の時、髪色どうしてるの?」


「髪色自由のところしか受けてないからこのままだよ」


「強いなあ」


「そう?うちみたいな大学じゃ珍しくもないでしょ、あたしみたいなのは。逆に香は地味すぎると思うけど」


「確かに派手な人多いなあ……」



 学食の窓の外、構内を行き交う学生に目を移した。ぱっと目に入るだけで茶髪や金髪だけでなく、赤、青、黄の三原色、他にもオレンジやら緑やら、賑やかな髪色がしばしば目に入る。派手なのは髪色だけではなく、その服装もだ。


ファッション誌から出てきたようなお洒落な人もいれば、どこで買ったのだろうという派手な飾りのついた服、ロリータファッションやらコスプレのような恰好の人まで様々。あとは絵具やら粘土やら薄汚れたつなぎ姿でうろついている連中も多い。


 四年ですっかり慣れてしまったけれど、入学した時はこの異様な光景に圧倒されたものだった。


 私たちの通う学校は普通の大学ではなく所謂、美大という少しだけ特殊な場所だった。絵に自信がある人たちが集まって、運よく入学できてもさらなる化け物に出会って打ちのめされ続ける場所でもある。


 絵を描いている時だけ無心になれた。窮屈な子供時代から逃げるようにここへ流れついて、気が付いたら四年も経っていた。


 母子家庭で決して裕福ではない家庭環境の私は、長期休みには作品制作に加え、生活費や画材費を稼ぐためにバイト三昧でこの四年、実家にはまともに帰っていなかった。それもあって地元に行くのがより一層、気が重いのだ。



「地元、どのくらい帰るんだっけ?」


「一カ月くらい」


「長っ!てかよくやるねぇ、就職しないなら無理して免許取る必要もなかろうに……ま、あんたはあたしと違って就活してないもんね」


「就職しないっていうか、進路を決めかねているというか……」


「は?今更、迷ってるの?香が迷ってるのって本当理解できないよ。もう四年だっていうのに悠長だなあ。腹括ってないから、一カ月も地元行くことになるんじゃない?」


「うう……ぐうの音も出ない。でも、せっかく単位集めたしさ。あとは地元で一カ月苦行するだけで免許ゲットできるんだよ」


「それは普通に尊敬するわ。あたしも保険として免許欲しかったけど、一年の序盤で必要単位多すぎて諦めたもん。ま、せいぜい楽しんできなよ。金沢で海鮮丼とか食べてさ」


「だから遊びに行くんじゃないんだよ……」



 うんざりしながら腕時計に目を落とすと、針はそろそろ駅に向かう時刻を指していた。重い腰をあげて、私は大荷物を抱えて立ち上がる。頑張れ、と七緒はピンクの髪色に負けないくらい明るい笑顔をくれた。



「あ、お土産忘れないでね。蟹でよろしく」


「蟹の時期は終わってるよ。ていうか、遊びに行くんじゃないってば!」



 という捨て台詞を吐いて、私は大学を出ると足早に駅へ向かった。駅のホームに上がると、私を東京に引き留めるように快晴の空が広がっていた。故郷ではあまり見られない雲一つない青空。


 しばらくの間、このカラッとした青空とはお別れだ。向かう先はきっと曇天に違いない。ちょっとばかし親に顔を見せるだけの帰省ならまだよかったのに、とホームに入って来る電車を見つめながら今日何度目かのため息を吐いた。


 これから長い一カ月が始まる。



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