第51話 鈴木杏里

 夜更けまで研究に没頭していたアキナはリンクボールに入った。眠っている間に、東京に行ったNRデバイスとデータのリンクを行い、それが取得した膨大な知識が自分のものになる、……はずだった。その日はそれまでと違った。


 リンクボールのネットワークの中は、暴れまくるオーヴァル、引き裂かれた人間の遺体、弾丸の嵐、ミサイルが放出した灼熱、……そして恐怖や怒り、絶望といった誰のものかもわからない感情のデータが嵐のように荒れ狂っていた。


 どうしたの、何があったの?……膨大なデータの海にアキナは溺れそうだった。それらが脳内に落ち着いて、時間と空間を持った体系的な記憶を形成するまで、とても長い時間がかかった。


「やられた?……朱雀も青龍も白虎も……」


 アキナの記憶には、ナパーム弾に焼かれた大東西製薬ビルの嫌な臭いまで刻まれた。


 アキナはNRデバイスを通常モードに戻し、トレーラーの運転席から飛び出した。後部のコンテナに乗り込むと、最初に向日葵のリンクボールを覗いた。内部の向日葵は眠っているように見えた。いや、壁面のパネルのデータを見ると、実際に眠っている。


「向日葵さん。起きてください」


 アキナは向日葵の肩をゆすって起こした。どれだけ疲れているというのだろう。簡単には目覚めない。


 アキナは隣のリンクボールを覗く。本来ならそこに杏里がいるはずだが、空っぽだった。


「ン、ゥンー……」


 向日葵は小さく声を上げると、「いやぁー!」と叫んだ。


「向日葵さん。夢ですよ」


「えっ? 夢……」


 一度は納得したようだが、顔をしかめて頭を振った。


「そんなはずない。私たち、ミサイルで全滅したんだ」


 彼女の顔面は蒼く表情はこわばり、どっと涙があふれた。


「全滅……」


 ネットワークで得た映像や感情は紛れもない事実だった。アキナは隣のコンテナに走り、気を失っていた千紘と小夜子を起こした。


「どうなったの?」


 小夜子が焦点の合わない瞳で尋ねた。


「えっ?」


「オクトマンよ。それにオーヴァル」


 アキナは、改めてインターネット内の情報を洗い出す。


 身なりを整えた小夜子がウエラブル端末を装着して杏里の端末を呼び出した。すると、アキナのポケットの中でそれが鳴った。


「あっ、杏里さんが連絡用にと置いて行ったのです。ビルを上り下りするのが大変だからと」


「なるほど」


 小夜子はSETの社長室を呼び出す。


『はい、社長室、姫川です』


「嶋です。姫川さん、社長は、そこにいる?」


『いいえ。10分ほど前にオクトマンという方から電話があって席を外したままですが……』


「オクトマン!……行先は? 建物内にいるならわかるでしょ?」


『少し待ってください。社員証の電子タグを追跡します』


 ウエラブル端末の音声が消える。


「千紘君、近くにオクトマンがいるかもしれない。おそらく社長も一緒よ。探して」


「ハイッ、……って、どこを探せばいいんだい。ビルは大きいだろ」


 千紘が顔を曇らせた。


『お待たせしました。社長は地下4階駐車場です』


 小夜子のウエラブル端末から声がした。


「ありがとう」


 小夜子が走り出す。アキナは、千紘と共に彼女を追った。


 エレベーターに乗ってから「向日葵は?」と千紘が訊いた。


「彼女は精神的ダメージが強すぎたようです。泣いていました」


「そうか……」千紘が唇を結んだ。


 地下4階でエレベーターを降りたアキナのセンサーが、ツンとする酸の臭いを補足した。生臭い血の臭いも交じっている。


「向こうです」


 臭う方へ向かった。そして血だまりと、倒れている杏里を発見した。オクトマンの姿は影も形もない。


「社長!」


 目の当たりにした惨状にアキナの思考も止まるほどだった。杏里の両腕は肘から先がなく、足も大腿部から先が溶けて消えていた。顔の一部も酸で焼けただれている。呼吸も心拍も止っていた。


 3人はシャツを引き裂いて杏里の手足を縛って止血し、すぐさま救命措置を始めた。


「オクトマンがやったのか!」


 千紘の目は血走っていた。


「酸の臭いがします。オクトマンは溶けたのです。杏里社長は……」


 アキナは懸命に心臓マッサージを続けた。


 小夜子の脳裏を、ファントムに襲われて傷ついた本宮晋一郎を抱きかかえた杏里の姿が過った。


「助けようとして抱きしめたのでしょう」


「抱きしめた?……父さんの時のように……」


「おそらくそうでしょう。クールなようで情に厚いから……」


 小夜子が近くに転がっていた小箱を拾った。中には小瓶と冊子が一つ。


 アキナは心臓マッサージを続けながら、小夜子が開いた冊子を覗いた。複雑な化学式が並んでいた。


§   §   §


 病院に担ぎ込まれた杏里は生死の境をさまよった。酸の影響は肺にも及んでいて、何度か再生手術が行われた。意識が戻ったのは、ひと月ほどしてからだった。


「私……」


 目覚めて初めて見た天井はひどく遠いところにあった。手足がヒリヒリ傷む。


「お姉さん……」


 ずっと付き添っていた向日葵が喜び、そして泣いた。


「オクトマンは?」


 杏里の頭の中は霧がかかったように不透明で、記憶が混濁していた。そこでは、まだオクトマンが生きていた。


「……死んで溶けたのよ」


「いつ?」


「もう、1カ月前のことよ」


「ひと月……。オクトマンの家族は?」


「それが、行方不明なの」


 向日葵が、ナパーム弾の攻撃で聖獣戦隊が全滅したことや、ビルの倒壊でインフェルヌスの研究所にも火が回り、レディー・ミラとその子供が行方知れずになったことを説明した。


「なんてこと……」


 涙があふれた。


「探さなくちゃ……」


 身体を起こそうとした。ところが身体が思うように動かない。


「エッ?……私の手が、……足が」


 自分の手足がないことに初めて気付いた。


「覚えていないの?」


 向日葵の声が耳に届かない。


「オクトマンが死んだ時、お姉さん、抱いていたでしょ? それで……」


 説明されて思い出した。


 杏里は呆然と天井を見つめた。これから、どうやって生きていけばいいのだろう?


「向日葵……」


「何かしてほしいことでもある?」


「学校は?」


「ちゃんと行っているわよ。朱雀がね」


「相変わらずね」


 杏里は、白虎になれば以前の生活も取り戻せることに気づいた。


「私なら大丈夫。リンクボールに入れば、手足のある身体が作れる」


「うん」


「ねえ……」


「涙を拭いて」


 言うと、向日葵が自分の頬を拭いた。


「私の涙よ。手がないのだもの」


「あっ……」


 向日葵が杏里の頬をハンカチで拭きながら謝った。


 妹に涙を拭いてもらいながら、何か、大切なことを忘れているような気がした。それは、すぐに思い出すことができた。


「……オーヴァルはどうなったの?」


「それが……」


「私なら大丈夫。正直に話して」


「日本のオーヴァルとファントムは影をひそめたけど……」外国では相変わらず暴れている、と話した。


 日本のオーヴァルが絶滅したのは朗報だったが、オクトマンに託された家族を守れなかったことに胸が痛んだ。


「国連はどうしているの?」


「アフリカと南米で空爆を続けているわ。アフリカでは戦術核を使った」


 向日葵が顔を歪めた。


 感情豊かな彼女にとって、たとえオーヴァルとはいえ、焼き殺されるのは耐えられないのだろう。……杏里は決断した。


「私、トアルヒト共和国に行かなくちゃ」


「トアルヒト共和国……、ユリアナ・トトの国ね。どうしてそこに?」


「エルビスに会うのよ。彼が世界平和の鍵になる」


「エルビス・プレスリー?」


「エルビス・スミスよ。たぶん……」頭を傾げて記憶をまさぐる。「……荷物、なかった?」


「荷物?」


「オクトマンにもらったのよ。薬瓶の入った小箱とか……」


 その箱と一緒にメモがあるはずだ。


「それなら……」


 向日葵がロッカーから小箱を出した。間違いなくオクトマンから預かったものだった。


「開けてちょうだい」


 向日葵が箱を開ける。小瓶と冊子があった。


「エルビスの名を書いたメモはない?」


「ないけど……」


 向日葵は、杏里が発見された時、そこに自分はいなかったのだと説明した。


「小夜子さんを呼んで」


 小夜子が、正確には玄武がやってきて、杏里を発見した時のことを教えてくれた。やはり、エルビスの名を記したメモはなかったという。


「溶けたのかもしれないわね」


 鼻にツンとくる臭いと、手足に強烈な痛みを感じた。熱傷の跡が残る顔が引きつった。


「どうしたのですか?」


「手足が痛い。もう、ないのに……」


 後に杏里は義手と義足をつくり、顔の形成手術を受け、リハビリを行いながら以前のように働いた。

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