第43話 第68回毎日杯

 小雨まじりの雲天模様となった阪神競馬場。

 11Rの本馬場では。

 ヴァイスの返し馬を阻むように、ドングラスが勢いよく前に立ち、


「まさかこんなところでお前に会えるとはな」


 航は目角を立て怒りに声を震わせる。


「なんとか言ったらどうだ!」

「……ちっ。返し馬の邪魔だ。そこをどいてくれないか?」


 気だるげに舌打ちし、うんざりした様子のハヤテ。航の神経を逆撫でするように悪態をつく。


「だいたいな、あんな自分の生死に関わる重大なとこで、隙を見せるやつが悪いんだろうが」

「言うに事欠いて――」

「どんべえ、やめとけ。気に入らねえならレースで白黒つけろ。ここはそういう世界だ」


 八肋に言われて。

 ここでハヤテとやりあっても無意味なことに、航は気づかされた。


「じゃあな糞漏らし。今度はせいぜい完走くらいはしてくれよ」


 ハヤテは鼻先でふんと笑うと、自信満々の態度でキャンターに入っていった。


(決めた決めたぞ。このレース、もう皐月賞出走がどうとか関係なく、あいつにだけは何が何でも勝つ! あの野郎を徹底マークしてやる!)


 標的は鼻持ちならない栃栗毛馬、ただ一頭。

 両耳をピンと立てて前方へと向け、戦闘モードになった航は、打倒ハヤテの思いを胸にたぎらせる。



 皐月賞の挑戦権をかけた東上最終便、毎日杯。

 皐月賞に出走したい馬、日本ダービーを最大目標に定めた馬、どちらにとってもステップレースに相当する中距離重賞は3歳牡馬10頭によって争われる。

 断然の一番人気は④ヴァイス。

 きさらぎ賞をソエで回避した影響が気になるところではあるが、東スポ杯を除いた2戦すべてで、ラスト3ハロンを11秒台前半でまとめ上がり最速をマーク。スピードとスタミナの豊富さを裏付けるレース内容で、力通りなら勝ち負け必至だ。

 まだ底を見せていないドゥラメンテ産駒勝利の見方が大勢を占めるなか、⑤ドングラスは8番人気の低評価。馬体重は490kgを切ったといえど、太め残りなことは否めず、前走一番人気で見せ場なく終わったことも尾を引いていた。


「人気なんざ気にするこたあねえ。ここを叩き仕様で勝てないようなら、クラシック勝利なんざ夢のまた夢。春3つ走ることを考えりゃ、このくらいでちょうどいいんだ」


 レース直前。

 緊張と不安を和らげようと、八肋が航を鼓舞する。

 余裕残しなのはハヤテも同じ。条件は五分と五分。

 持てる能力が高い馬ほど全力仕上げでは来ない。ボヤンスが予見したとおりだった。


「さあいっしょに皐月賞の切符を取りにいこう、ドングラス」


 裕一は馬の気持ちに寄り添い、ささやくように言った。

 するとどうだろう、不思議なことに航の体から余計な力みがスッと抜ける。

 騎手とともに――いろんな人の思いを背負って走る。

 イシノサンデーの声が聞こえたような気がした。

 そして――

 皐月賞を目指す航にとって事実上最後のチャンスとなる毎日杯の戦いの火蓋は切られた。



 まずは無難なスタートを決めた⑤ドングラス。

 隣馬の⑥ラピッドダッシュが好ダッシュを見せ先行したのとは対照的に、裕一は周りの馬たちの動きを確認するだけにとどめておき、位置取りはドングラスの行きたいように任せた。


(ドングラスを他の若駒と同じように扱っていたんじゃ、人馬一体の走りはできない。競馬を教えるのではなく、同じ視点に立っていっしょに考える。ドングラス――これが俺のお前に対する信頼の証だ)


 裕一は航の考えを尊重し。

 ああしろ、こうしろと、頭ごなしに命令したりはせず、これまでとはまったく別のアプローチを取る。

 序盤の主導権争いを制したのは木田村友一きだむらゆういち騎乗の⑦ゲイトゲネディーズ。

 2番枠から②レヴィビショップが飛び出すが、スタートから手綱をしごいて先手を奪うと、折り合い重視で徐々にペースを落としにかかる。

 ④ヴァイスの位置はちょうど中団。それを見るようにして⑤ドングラスは中団馬群のやや後方に控えた。


(このコースは直線が長くても、後ろに構えすぎると上がり最速でも届かないことがままあるから、そこだけは注意しないと)


 ヴァイスをマークする気だと理解した裕一は、後ろの位置になりすぎないように、ドングラスの位置を微調整する。


「いい判断だぜユウイチ」


 自然と八肋の口元が緩む。

 過去3戦、ちぐはぐだったコンビネーションが、ようやく息が合い出してきた。


「鈍足モーリスがこの俺を後ろから抜くつもりとは笑わせてくれる」


 モーリス産駒の多くが持続力があってもキレないワンペース型なことは、すでに研究済みだ。

 前に行って押し切る先行策ならいざしらず。

 末脚自慢の自分を差し切る気でいる航を、ハヤテは嘲笑するしかない。

 スタートして2ハロンを24秒6(12.9‐11.7)で通過。

 最初のコーナーまで600m以上距離があるということで、忙しくポジション争いが起こることもなく、全体は6馬身差の圏内に一塊で道中ゆっくりと進む。

 稍重発表で時計のかかる馬場ということを考慮しても、想定より遅いラップが続いていた。


(ダービーを見据えたレースだってのに、こんなにペースが緩かったら意味ねーよ)


 ハヤテは極端なスローペースで進行していることに不満を抱いていた。

 本番は18頭フルゲートでペースも前哨戦のそれとは違う。

 たとえ前半ゆったりした流れであっても、残り1000mを切ったあたりからペースが一気に上がり厳しい流れになる。

 ただでさえ中盤緩むことの多い毎日杯。

 このまま直線まで同じペースで走っていては、本番にはまったく繋がらない。そこで一芝居打つことにした。


「オイオイ! いつまで折り合い合戦してるつもりだ雑魚ども! 本番でもこんな楽なペースになると思ってんのか? 条件戦やってんじゃねーんだぞ!」


 罵声を浴びせながらも、周囲に目を走らせるハヤテ。

 集団のペースに変化がないとわかるとじわじわ前に進出。自ら積極的にレースを動かしにいく。


「サウザーの二軍馬どもに日高の糞漏らし、よく聞け! ここを勝つことしか頭にないお前らと違って、俺にとっちゃあ毎日杯はただの通過点でしかない!」


 目指すレースが皐月賞であれ日本ダービーであれ。

 速い流れのレースを経験していない馬は今後GⅠレースを戦う上で不利となる。

 前哨戦特有の小頭数でスローのヨーイドンのレースはクラシックには直結しない。

 誰も彼もが緩い流れを良しとしたことをハヤテは暗に非難する。


「レースレベルを意識できないお前らはしょせんその程度だ!! 雑魚は雑魚らしく着拾いに徹して小銭稼ぎでもしてるんだな!」


 単なる挑発でないことを証明するように。

 2番手をうかがう勢いで好位に上がり、③レガッツォー、⑦ゲイトゲネディーズと交わし、800m地点手前で④ヴァイスが先頭に立つ。

 果敢にハナに立つ構えを見せた④ヴァイスの動きに対し、⑤ドングラスがすかさず反応。中団から好位列まで押し上げて一馬身半差の3番手を追走する。

 ④ヴァイスは先頭を奪った後もペースを落ち着かせたりせず、縦に伸びはじめた後続馬群を引き連れ、第3コーナーに向かう。

 11.7‐11.9と刻み、1000mの通過タイムが60秒2。

 ゴールまで残り800。

 ここでハヤテはスタミナを温存するために一息入れるが――


「ヴァイス! お前の思い通りにさせてたまるかァー!」


 一度は先頭を奪われた⑦ゲイトゲネディーズが強引に競りかけてきた。


(ったく、ようやくか。余計な手間かけさせやがって……)


 ペースを狂わせようと絡んでこられても、先に行かせて番手に控える④ヴァイス。

 中盤そこそこ流れたことで淀みない流れが生まれ、スタミナ、底力、パワーが試されるタフな展開になる。

 終盤にさしかかり。

 ⑦ゲイトゲネディーズが二馬身ほどリードを広げて3~4コーナー中間坂を下っていく。

 ラスト600を切ったというのに、④ヴァイスはまだ脚をためている。③レガッツォーさらには②レヴィビショップにまで交わされ、4番手まで順位を落としてしまう。


(先に動いた前のやつらは最後の坂で失速するからいいとして。残る問題は――)


 ハヤテはレースが始まってから自分の後ろを背後霊のようにピッタリついてくる航の存在を最大限警戒する。

 道悪で上がりのかかる消耗戦はロベルト系が台頭する展開だ。万が一ということもある。


「なあ糞漏らし。モーリスってのは歴代最強格のマイラーらしいが。まさか自分も同じようになれると、本気で思ってるわけないよな?」


 ハヤテは続ける。


「とかく種牡馬が注目されるが、牧場主にとってはサイアーラインなんかよりファミリーナンバーの方が重要な意味を持っている」


 ラムタラは売ってくれても、牧場の根幹となる牝馬は、どれだけ金を出しても普通売ってはくれない。

 華台系と非華台系の基礎繁殖牝馬の差。

 それがそのまま現在の結果としてあらわれている。これは否定しようがない。


「基礎繁殖のレベルが低い日高のゴミから産まれたやつが夢見てんじゃねーよ!!」

「……」


 以前までの航ならカーッとなってハヤテを負かしに動いてしまっていただろう。

 だが今の航は違う。

 無事にこの日のレースを迎えるために、どれだけ多くの人達の手を経ているのかはっきり自覚している。

 自分は彼らの思いを、願いを背負っている。マルシェやイシノサンデー、ボヤンスの期待に応える義務がある。こんなつまらない挑発に耳を貸したりはしない。

 極限まで高まる集中力。

 ハヤテだけを見据えて――

 航は不気味なほど静かに、その後ろ姿を追いかける。


(乗ってこないか。まあいい。仕掛けを待ったぶん脚はたまった。後ろからブチ抜けるもんならやってみやがれ!)


 最終コーナーを回って残り400mの標識を通過。

 直線に入ると、最内から馬場の3~4分どころに持ち出し、④ヴァイスが仕掛けた。


(動いたっ!?)


 その瞬間――

 自らハミを取ってスパート態勢に入った航。

 裕一は④ヴァイスが通った進路をなぞるように進み、右手にステッキを持ち替える。

 ギアを上げて力強く加速したドングラスに対して、敢えて右鞭を二度三度と連続して振るう。

 逃げる⑦ゲイトゲネディーズ。

 だが、無理をしてヴァイスに鈴をつけに行ったことがたたり、残り300mを過ぎて急激に脚色が鈍る。

 前が止まったところを後ろで我慢していた後続が一斉に脚を伸ばしてくる一方。

 ペースが上がった後半、11秒台を4回も刻む速い流れの中で、早めに動いた馬たちの手応えが軒並み怪しくなり始めた。


「思い描いた通りだ」


 先頭を争っていた好位勢は、ラスト1ハロン急坂区間でガクッとペースが落ちる。

 道中競りかけられても、自分のリズムを守ることを貫き通したハヤテは見るからに余力が残っていた。

 坂下ではまだ三馬身はあったであろう差を一気に詰め、ふたたび先頭に立つ。

 今はもうドングラスからのプレッシャーは感じられない。案の定、直線残り400mからの加速についてこられなかったのだろう。

 きっちり前を捕らえ、後ろからも他馬が並びかけてくる気配はない。


(これでダービー出走は確定。本番にお釣を残しておかないとな)


 100m近く急勾配の坂を駆け上がり、さしものハヤテも疲労の色がうかがえる。

 勝利を確信したハヤテは、レース後の反動が出ないように、最後は流しながらゴールに向かう。

 これで勝負は決まったかと思われた刹那――


「グラス! グラスだ!」


 誰がが叫んだ。

 大外も大外。外ラチ沿いから栗毛の馬体が、④ヴァイスを追い抜く勢いで飛んできて、場内が大きくざわめく。

 首をググッと沈めた重心の低いフォームから、力強く四肢を地面に叩きつけ、怒涛の追い上げを見せる⑤ドングラスに。

 かつて『マルゼンスキーの再来』と呼ばれた栗毛の怪物の姿が重なる。


「バカな……!! どうしてやつがあんなところを走っていやがるッ?!」


 勝利目前というところでドングラスの奇襲を受け、常に余裕を見せていたハヤテの顔に初めて焦りが浮かぶ。


(ハヤテと体を併せなかったのはユウイチのファインプレーだ)


 勝負の世界では勝利以外、価値はない。

 しかし――失敗を通じてしか学べないこともある。

 サウジアラビアRCの敗戦がここで活きた。

 裕一はフルパワーで走ろうとすると左に向かう斜行癖を逆手にとって、直線外ラチに向かってドングラスを追い出し、馬場の真ん中から外に斜行しながらヴァイスを追いかけた。


「冗談じゃねえ! こんなやつ! こんなやつに俺がっ!!」


 まんまと出し抜けをくらってしまったハヤテ。

 焦れば焦るほど走行フォームが乱れ、思うように再加速できない。

 ⑤ドングラスは一番きつい頂上付近でさらにもうひと伸びし、ゴール寸前、先に抜け出した④ヴァイスをついに捕らえた。


「グラス最強! グラス最強!」


 劇的勝利に大歓声が巻き起こる。

 第68回毎日杯は8番人気ドングラスが宿敵ヴァイスをクビ差で退け重賞初制覇。

 文字通り人馬一体となって皐月賞への最終切符を掴み取った。

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