第3章 メイクデビュー編
第26話 HBAトレーニングセール
時は流れ。
2020年5月11日。
札幌競馬場ダートコースにおいて、セリ上場予定馬計139頭の公開調教が始まった。
「第1クルー14組目。内側をとおりました20番は2ハロンが11秒7、11秒7。1ハロンが11秒1、11秒1でございます。外をとおりました68番は――」
売り先が決まっていない馬にとっては、事実上のラストチャンスとなる北海道市場トレーニングセール。
渾身の勝負仕上げで臨む生き残りをかけた場らしく、大半がラスト1ハロン11秒台をマークし、仕上がりの良さをアピールしていた。
「1クルー終了時点での最高記録は上がり2ハロン21秒9、1ハロン10秒7だそうだ」
「さっき始まったばかりなのに、もうそんな時計が……」
好時計が出ていると聞かされ。
厩舎エリアで軽い運動をしていた航は脚を止め、八肋に詳しく訊いてみる。
「売れ残りの馬以外にも、安く仕入れた幼駒を2歳時にセールに出して利ざやを稼ぐピンフッカーの下で育成された馬も参加してるから侮れねえぜ」
1歳市場最後に開催されるオータムセールが終わった1歳秋から2歳5月までの間の育成費用は、少なく見積もっても120万円~200万円程度かかる。
どこもそれだけの育成費用を負担して、トレーニングセールに向けて仕上げてきた。
生半可な気持ちで馬を送り出した人間など一人としていない。
「タイムが速けりゃ、化石みたいな血統だろうが高値で売れちまう特殊なセールだ。この日のために鍛えてきた連中を押しのけるのは、そう容易いもんじゃない。いくら天下のサウザー育成だと言っても」
血統や見栄えよりも即戦力になるかどうかだと。
八肋がこれまでのセールとの違いを説明した。
「いやでも、六畝厩舎長は、『余裕残しの内容で2ハロン合計22秒台で回ってくればいいから』なんて言ってましたけど」
時計が速ければ注目度は俄然高くなる。
売るための戦略としては間違っていない。しかし――
「メイチの仕上げで一番時計を狙えば、後で絶対反動が来るからな」
2013年北海道トレーニングセールの公開調教で、69kgの斤量を背負い、2ハロン最速タイムを出したことが評価されて、サウザーファームに落札されたモーリスだが。
トレーニングセールに出るために無理をさせた結果、背中と腰に慢性的な痛みを抱えるようになった。
デビュー戦をコースレコードで勝利し、早くからポテンシャルの高さを見せていたにもかかわらず、
「走破タイムが一番見られるのは違いねえが、突出した時計じゃなくても、まだ脚色に余裕があったのなら、受け取り方も変わってくる」
「ああだから馬なりで合格ラインの時計を出せば十分と言ったのか」
モーリス産駒の実力をアピールするという名目で、トレーニングセールに向け調教を進めてきたというのに。
なぜ一杯に追ってハロン10秒台を目指さないのか、ようやく疑問が解けた。
「そうは言っても、手抜きで出せるタイムじゃねえぞ。あくまで走った後、疲労困ぱいでクタクタになるのを避けるための措置であって、ある程度は追い込まなきゃなんねえ」
セリ参加者、競馬関係者はもとより、見学に来ている正巳にも、レース本番ではさらに上積みが見込めると思わせなければならない。
(どっちみち厳しい状況には変わりないってことか)
午前11時にスタートした公開調教も、時刻はすでに正午をまわり、第3クルー2組目に入った航の出番が刻一刻と近づいてきた。
「ああーーー緊張するーーーっ!」
航はいても立ってもいられず、その場でぐるぐる回っていると、
「リラックスリラックス。こんな時だからこそリラックスしなきゃ」
何気なく声のした方に視線を向ける。
すると、気立てがよさそうな顔の栃栗毛馬と目が合う。
どうも自分に向けられた言葉らしかった。
「さあ息を大きく吸ってー、吐いてー」
「? ??」
「ほらほら。大きく吸ってーー、吐いてー」
見るからにお人好しっぽい感じがするやつだから、邪険にはしづらい。
害はないと判断して、言われるがままに、航は二度三度深呼吸を繰り返す。
「どう? 少しは落ち着いた?」
「……まあそうだな」
「それならよかったよ」
ハヤテと名乗る登録馬が実に自然な所作で破顔した。
「まったく。敵に塩を送るようなもんだぞ」
一瞬きょとんとするハヤテ見て。
航はハヤテに心を許しながらも、その天然っぷりに呆れて笑ってしまう。
「それはそうと喉乾いてない?」
「喉? そりゃ乾いてるが、順番的にもうそろそろだし」
「――なら、ちょっと待ってて」
航が止める間もなく、ハヤテはどこかへ走って行ったと思ったら。
数分もしないうちに水を汲んだバケツをくわえて戻って来た。
「ハヤテ……これどこで……」
「洗い場だよ。ボクもさっきこっそり飲んだんだ」
「もしかしなくても、どこかの担当が汲んでたのを掻っ攫ったのか?」
「そう! よくわかったね!」
「……ああ」
ニコニコの顔で言うハヤテに、苦笑いを浮かべる航。
「でもせっかくだ――」
と、勧められた水を遠慮なくすべて飲み干した。
☆ ☆
午後1時前。
吉野正巳がスタンドに足を運ぶと、親交のある馬主たちの顔を見つけ、彼らに軽く会釈する。
「来たね。元気そうでなりよりだ」
と、第一声。
生産者として40年以上正巳としのぎを削ってきた太田信之は、一歳違いの戦友を笑顔で出迎えた。
「お目当てはメタスの2018ですか? 吉野さん」
続いて声をかけたのはフォースヒルズ前川浩司代表。
今年、同牧場から4戦無敗の皐月賞馬が誕生し、現在飛ぶ鳥を落とす勢いの前川氏の表情は自信に溢れている。
「いやいや。あれを私が競り落としてしまっては色々とまずい」
あくまで今日は見学ですからと。
正巳は苦笑いを浮かべながら控えめに答えた。
「いかないの?」
「いかないよ」
それでも疑わしげな様子の信之に、正巳はないと断言した。
2020年度トレーニングセール最大の注目馬は、サンリヨンの2018――ではなく、華台ファーム生産のメタスの2018(牡、栃栗、父:ドゥラメンテ)。
大口の得意先以外には買うことができない馬が出てきたとあって、セリ参加者の注目が一点に集中していた。
(所有していたオーナーの死去にともない、馬主業を引き継ぐ気がない遺族が業者に委任したそうですが、実にもったいない。輝明さんは今頃歯ぎしりしてることでしょうね)
競馬大国アイルランドで産まれたМethussは、日本でも馴染みのあるレインボウクエストの血を引く重賞ホースで。
現役引退後は繁殖牝馬として同国で繋養されていたが、7年にわたる繁殖生活で産まれてきた子供はわずかに1頭。
採算が取れず、売却もやむなしと考えていたところを、根っからのオーナーブリーダーでロマン派の吉野輝明が、豊富なスタミナを内包した血統に惚れ込み、利益度外視で華台ファームに連れて来た経緯がある。
華台グループの看板を背負っていなければ、正巳も諸手を挙げてセリに参戦していただろう。
(しかし、何の因果か。サンリヨンの2018と同組になるとは……)
公開調教クルー表には。
周囲の異様な盛り上がりとは反して、3クルー2組(内)サンリヨンの2018(外)メタスの2018と無機質な字で素っ気なく表記されていた。
自身と関係の深いモーリスとドゥラメンテ。その子供たちがこんな形で相見えることになり、正巳は複雑な心境だった。
第2クルーすべての組のタイム計測が終わると、第3クルーの番がやってくる。
航は同じグループの馬たちとともに、地下馬道から内馬場に出て、発走地点となる向こう正面に向かう。
本馬場に入り。
テンションが高くなっている馬が多く見受けられる中、
その場で砂厚を確かめるように、小刻みにステップを踏んでから、ハッキングに移行したサンリヨンの2018と、
ただ一頭、集団から離れ、さっさと返し馬に入ったメタスの2018。
まるで歴戦の古馬のような返し馬を見せる二頭に、関係者たちは驚き感心していた。
「報告は受けていましたが。これは六畝厩舎長が入れ込むわけだ」
セレクトセールを始めた正巳だろうと、産まれたばかりの当歳馬を見て、どの仔が将来のGⅠ馬か当てるのはほとんど不可能に近い。
だが、二歳になりデビューに向け調教を進める段階になれば、どのクラスまでいけそうか、調教データや経験則などで、だいたい判別できるようになる。
将来大物になるかはさておき。雰囲気は十分。
過去に、のちにGⅠ馬となる育成馬を何頭も受け持ってきた哲弥の言葉を信じるならば、サンリヨンの2018はクラシックに出て満足するような器じゃない。
「さあ見せてもらいましょう。サウザーファームが落札するに値する走りを――」
メジロフランシスの2011の再来を予感して。
正巳はスタンド席最前列からサンリヨンの2018の走る姿を追いかけた。
トレーニングセール公開調教は、札幌競馬場ダートコースの向こう正面よりスタート。
二頭が併走したまま、6ハロン標識を過ぎた辺りから徐々に加速していき、2ハロン400mのタイムを競うことになる。
3クルー1組目の計測が終わったのを見届けると、航は鞍上に指示されるより先に、スタート地点へ進んでいく。
二頭一組となって行われる公開調教。
自分の競争相手はどの馬なのだろうと視線を向けた先には、4番のゼッケンをつけた栃栗毛馬がいた。
「ハヤテ……なのか……!?」
驚いたように目を瞬かせる航。
ついうれしくなって、傍へと駆け寄り話しかけた。
「なんだハヤテじゃないか! お互いがんばそうぜ、なあ!」
「……」
航が呼びかけても返事はなく、ハヤテは無表情。
馬場入り前、緊張をほぐそうと世話を焼いていた馬とは思えない冷然とした態度に、航は困惑してしまう。
(直前だし、まあしょうがないか)
引っかかる所はあったけども、そう自分を納得させる。
両馬、位置につき――相手と息を合わせてスタートを切った。
その直後に。
航の下腹部の辺りがキュッとなる。
「っん、この大事なときに……」
航は常歩でテクテクと走りながら。
お腹の調子がおかしくないか経過観察する。
幸いお腹が締まるような感覚はすぐに引いて、走りに支障をきたすような反応はない。
どうしてこのタイミングでと。
釈然とせず、首をひねる航の隣から、
「くくくく」
と、噛み殺したような笑い声が聞こえてきた。
「ハヤテ?」
ハヤテの豹変っぷりに。
何か悪い物でも食べたのかと、航は心配になってくる。
するとハヤテはこちらを見やり、顔を歪め高笑いをした。
「はーはっはっはっは! こいつあ、とんでもねえ大バカ野郎がいたもんだ!」
「……何を言っている……?」
ますます不可解な言動をするハヤテに問いただそうとしたら、航のお腹が急にごろごろと鳴り出した。
お腹に波打つような動きと痛みが同時にやってきて。
航はここでようやく原因に思い当たった。
「ハヤテ! お前――まさか……!?」
「……」
ハヤテは答えない代わりに、とてつもなく邪悪な笑みを返した。
「勝負はとっくの昔に始まってんだよ!」
ハヤテからきつい一言が飛んでくる。
猛烈な便意に襲われ涙目になっている航を尻目に、常歩からキャンターへシフトアップしていく。
3コーナー手前に差し掛かると。
スピードを上げるよう、鞍上からGOサインが出る。
乗り手と阿吽の呼吸でメタスの2018が一気に加速していく一方で、
「どうした! どんべえ! なにやってんだ!!」
馬上からいくら促しても、まったくスピードが上がらないサンリヨンの2018。
それどころか、スローダウンしていき、ゆったりとキャンターしているのと変わらない速度になる。
「んーーーーっ、んんーーーーーーーーっ」
全身汗だくで、必死に便意に耐える航だったが。
馬場を踏みしめるたびに、お尻の圧迫感が増していき、肛門括約筋は今にも決壊する寸前だ。
「お゛っ、ぉ゛ぉ゛っ、お゛ぉ゛お゛~~っ!」
肛門の奥から黄土色の塊が顔を出し、航の意志とは無関係に、一つまた一つと地面に落ちる。
腹痛と便意に苛まれながら、最終コーナーまでたどり着いたところで、我慢の限界を迎え、そしてついに脚が止まった。
故障発生かと騒然となる場内。
不測の事態に、正巳も沈痛な面持ちでサンリヨンの2018を見守る。
命だけは助かってくれと。
無事を祈っている皆の前で航は――
「あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああああああああ」
ぶりゅっ、ぶりゅりゅうううううううううう!!!!
盛大にまき散らされる馬糞。
誰もが呆気に取られて、開いた口がふさがらない中、
気まずそうにアナウンスが流れた。
「え~、ゼッケン131番、サンリヨンの2018は脱糞により競争中止。サンリヨンの2018は脱糞により競争中止でございます」
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