第22話 時代の変遷

「その馬の名はオルフェーヴル。日本とフランスを行き来しながら、凱旋門賞2着2回。国内GⅠ6勝したディープと並び評される怪物だ」


 ディープインパクトの後に誕生した史上7頭目の3冠馬――金色の暴君の軌跡を、航は初めて知らされる。


「ディープ引退からわずか4年で、そんな馬が現れるだなんて……」


 第85回凱旋門賞レース直後。

 ディープでダメならもう勝つのは無理だと失意に暮れたあの時から、勝利目前までいった日本調教馬がこんな短期間に出てくるとは。時代の変遷に驚くほかない。


「ディープがストライドの長さを伸ばして走るストライド走法の完成形なら、オルフェはピッチを増加させて走るピッチ走法の完成形と言える」


 着地した手前後肢と反手前前肢間の距離を長くして、ハードルを跳び越えるように低く滑らかに走るディープインパクトと、後肢間の着地距離を短くし、推進力を高めて速いピッチを作り出す走り方のオルフェーヴル。

 八肋はどちらが強いのか明言しなかったが、両馬の走り方には、重心が低く、体の上下動が少ないと共通点を述べた。


「着地。蹴り出し。浮遊期。いずれの状態でも、重心を一定に維持して走っているというのが、速く走る馬に見られる特徴だが、オルフェーヴルにはもう一つ、馬場の硬さや芝の深さよって走法を変えられる大変奇異な特徴がある」


 コーナー区間、坂区間が終わると、一瞬にしてストライドを伸ばして加速。パンパンの府中良馬場を問題にしなかった。


「通常、不良馬場では芝が滑りやすいため、どうしてもストライドが短くなるというのに、オルフェは馬場が渋っていてもストライドの長さを保って走ることができたんだ」


 これこそがどんな馬場状態でも能力を発揮できた最大の理由。

 卓越した運動神経と道悪をものともしないボディバランスを持ち合わせた、神に選ばれた馬のみ可能な離れ技と言えるだろう。

 蹄鉄ていてつがほとんど減らなかったディープインパクトの走りと同様に、真似しようと思って真似できる代物では決してない。


「遠征ノウハウの蓄積と輸送技術の進歩で、今や毎年のように海外遠征する時代だ。国内では有力馬不在、現地で日本馬同士が激突するなんてケースもままある」


 ホースマンたちが失敗してもめげずに海を渡り、トライアンドエラーを繰り返した結果――

 遠征先では調整が難しいため、滞在期間は短ければ短い方が良い。

 日本でほぼ仕上げてから短期決戦で挑む形が近年増えてきている。

 ここ10年の間に、ヴィクトワールピサがドバイワールドカップ制覇の快挙を成し遂げ、ジェンティルドンナもハーツクライ以来となるドバイシーマクラシックを勝利。ドバイデューティフリーを制したジャスタウェイは130ポンドのレーティングを与えられ年間世界ランク1位に。

 香港ではモーリスの他に、香港スプリントを連覇したロードカナロアと、世界屈指のレースでも現地の馬と互角にやれるようになった。


「しかしそれでも欧州競馬の最高峰競走では、ドバイや香港のような整備されたトラックコースで行われるレースのようにはいかないのが現状だ」

「向こうはこっちと違って、自然にあったものをそのままコースに利用してますもんね」


 日本より芝が深く、地面が柔らかい欧州馬場。

 慣れない馬場をどう克服するかが焦点になる。


「日本馬でも欧州に長期間滞在すれば、欧州の馬場に適性を示すようになるのは、エルコンドルパサーやディアドラで実証済みだが、体つきから何まで完全に変わっちまうため、日本に戻ってきても、今度は逆にエクイターフに対応できないという問題が発生する」


 不慣れな馬場に慣れさせようと長期滞在を選択した場合、日本でのキャリアを事実上捨てる形になる。凱旋門賞で結果を出すには長期滞在がベストだと言われても、簡単には踏み切れないのはそのためだ。


「なら、短期滞在はどうかというと、こっちはこっちで、直前輸送か現地で前哨戦を使って臨むかで意見が分かれてる始末だ」

「普通は本番前に一叩きすると思うんですけど」

「ロンシャンの特殊なコースを一度経験させたいというのは当然ある。だがそうなると、使えるレースはフォワ賞、ニエル賞、ヴェルメイユ賞くらいしかねえんだ」


 ステップレースを使えば、中2週かそこらで凱旋門賞に向かう過密日程になる。


「だから日本で十分に乗り込んでから凱旋門に直行してしまおうと。ぶっつけで不安があっても、万全の状態で本番を迎えるために」

「さっきも話したが、海外での調整は難しいんだ。2016年に凱旋門賞に挑戦したマカヒキは前哨戦のニエル賞こそシャープな体つきで日本馬らしいキレを見せていたんだが、フランス滞在の影響で肉づきが良くなってしまい、本番では日本で走っていたような走りができず14着。以降、別馬のようになってしまった」


 フランスにやってきた当初は。

 エルコンドルパサーも深い芝に脚を取られ、軽い調教でも息が上がっていた。

 それを考えれば、日本にいた時と同じように走るオルフェーヴルがいかに異質な存在かわかるというものだ。


「短期滞在か長期滞在か。関係者の間で結論が出ていなくても、これだけは言える。凱旋門賞で日本馬が勝つとしたらオルフェーヴルのような馬だろう」

「オルフェーヴルのような馬……」


 凱旋門賞は欧州調教馬以外が一度たりとも勝ったことがない純然たる事実。

 1969年スピードシンボリの初挑戦から50年、名だたる馬達が跳ね返され続けてきた歴史がある。10年に一頭クラスの馬でなく、二度と出てこないような馬を挙げてるあたり、凱旋門賞制覇はやはり無理筋なのであろうか。


「欧州平地シーズン終盤にある2400mの欧州最強馬決定戦だ。凱旋門賞は」


 欧州の芝への適性がある馬を送り続けていれば、凱旋門を勝つ日はいずれ訪れる。

 そんな楽観的論調に八肋は苦言を呈した。


「期待されてなかったナカヤマフェスタが接戦を演じたんで、適性さえあればと勘違いされてるけどな、あの馬はピークこそえれえ短かったが、正攻法でブエナビスタをねじ伏せたんだ。全盛期は間違いなく当時の日本最強と呼ぶにふさわしい強さだった」


 欧州競馬で勝つために交配を繰り返し、育成調教された欧州馬が集結する大舞台では、歴代最強クラス以外はまるで通用していない。

 日本の一線級も出走するドバイシーマクラシックの過去の勝ち馬を見ると、欧州馬は日本馬以上の好成績を残しており、平坦で比較的走りやすい条件が揃っている中立地であっても、芝2400m戦では日本勢は劣勢に立たされている。

 重い馬場だの斤量だのどうこう言う以前に、単純に力が足りないと見るべきだ。


「ディープの後を追ってパリロンシャンを目指す気なら、現役最強馬だと言われるくらいになれ」


 日本で一番になって初めて凱旋門賞挑戦の資格を得ると。

 八肋が厳しい注文をつける。


「日本一……」

「おめーがやらなきゃ他に誰がやるってんだ?」


 ディープインパクトの血を受け継いだ競走馬は数多くいる。

 だが、ディープが人々に残したものを真正面から背負って走れるのは、ディープの雄姿を知る航しかいない。


「――やってやりますよ」


 航は下っ腹に力を入れて決意を固めた。


「な~~にをやってやるって?!」


 突然至近距離から声がして。

 嫌な予感とともに顔を向けると、ヴィエリがすぐ横まで来ていた。


「くっちゃべりながら走るとは。舐められたものだなあ、おい」

「……」


 ヴィエリから死刑宣告にも似たメッセージが届き、航は心臓が止まりそうになる。

 どう弁明しようかあたふたしていたところに、ヴィエリが容赦なく体をぶつけてきた。


(いっつううう。なんつーパワーしてやがんだよ……っ)


 涙目になりながら痛みを堪える航。

 しかしこれだけでは終わらず、ヴィエリは追撃とばかりに航めがけて幅寄せを開始する。

 筋肉が詰まった体高ある馬体がすごい勢いで近づいてきて――


「ちょっちょおおお!!!」


 静止の声もむなしく、体同士がぶつかり、そのまま端へ端へガンガン押し込んでくる。


「おおおおおおいいいいいっ! 死ぬっ、死ぬううう!!」


 このままではコンクリートの壁へ一直線。

 死に直面した航は懸命に押し返そうとするが、垢抜けた黒い馬体はびくともしない。


(もうだめだーー)


 壁に激突すると思った瞬間、ヴィエリはさっと離れると。


「次はねえぞ」


 航の恐怖心を煽るように舌なめずりした。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ」


 もうどこにも逃げ場がない航は気が狂ったように走り出した。


「じょ、冗談じゃない!」


 ヴィエリから逃げ切れなければ、デビューどころか、下手をすれば予後不良だ。

 航は死にたくない一心で坂路を駆け上がる。


「はっ。最初からそれをやれってんだ」


 間を置かずギアを上げて。

 本気モードになったヴィエリがぴたり併走する。

 スタートからぶっぱなす両馬。

 ペース配分などこれっぽっちも考えないアメリカ競馬並の潰し合いが始まった。

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