第4話 総帥登場
9月のある日。千場スタッドに一人のホースマンが力強く降り立つ。動きやすいラフな格好をした男は、出迎えにきたスタッフに笑顔で一言二言言葉を交わす。
「これはこれは太田様。ようこそいらっしゃいました」
牧場の責任者であるおやっさんが直々に対応。普段では考えられないような丁重な態度で来訪者を迎え入れる。
「それで今日はどういったご用件で?」
「今年、千場スタッドさんで生まれた産駒を見せてもらおうと思ってね」
庭先取引もあると思わせる回答に、おやっさんの顔つきがより一層引き締まった。
見た
「ありゃあ、ビッググリーンファームの
老人の顔に見覚えがある八肋が驚いたように目を開く。
「有名な人なんです?」
「
「ありますあります。へ~あの人がそうなんだ~」
コスモバルクやマイネルラヴはリアルタイムで知っている馬だ。
馴染みがある冠名に、なんとなく親しみを覚えてしまう。
「しかしこれは面倒なことになったな……」
ミーハー気分の航とは違い八肋の表情は渋い。
「早田、メジロ、トウショウといった名門牧場が閉鎖する中で、規模を拡大していってるんだからてえしたもんだ。経営手腕は確かなものがある。だが、このオーナーは早いうちから使いたがる傾向があるんで、合わねえやつにはとことん合わねえんだわ」
鍛えて強くするがモットーの太田信之。
仕上がりが早く丈夫な馬にはうってつけでも、その逆の場合、才能が開花する前に潰されてしまう可能性が高い。
「モーリスも背腰を痛めて、ろくに走れない時期があったくらいだ。サウザー以外の手に渡っていたら今頃どうなっていたか」
「……」
強豪マイラーが集結する香港マイルを勝つような馬が繁殖入りも危うかったと聞かされ、航は他人事ながらぞっとする。
「グラスワンダーって故障を繰り返してましたよね。万全な状態でレースに出れなくて、怪我する前の2歳時が一番強かったと言われるくらいに」
「体質の強弱ってのは遺伝しやすいんだ。グラスから2世代経ているとはいえ、用心するに越したことはねえ」
父モーリス、父父スクリーンヒーロー、共に古馬になってから活躍した晩成タイプ。
早めに仕上げて稼げるうちに稼ぐビッググリーンのスタイルとはまさに水と油。
血統的に長い目で見たほうがいいと考えている八肋があのような顔をしたのも納得だ。
「いいか。もしお前のことを見に来たら、買う気が起きないよう逆アピールしとけよ」
「逆アピール……逆アピールと言われても。具体的になにをどうすれば……」
と、そうこうしている間に、おやっさんが信之を連れてやってきてしまう。
「この仔がそうかね?」
「はい。うちで一番期待の持てる当歳馬です」
「ふむ……どれどれ」
良血馬に外国人騎手という一切隙のないサウザーファームに、しがない日高の馬で立ち向かう太田信之――人呼んでマイネル軍団太田総帥。半世紀近く馬を見てきた双眸で航の競走馬としての資質を確かめる。
(うわっ。見てる。めっちゃ見てるよ)
総帥の視線が舐めまわすように馬体のすみずみまで行き来する。
「バランスよく筋肉がついているな。ツメの角度と大きさも理想的といえる。脚も真っ直ぐで、たいへん丈夫そうだ」
「身体的なことはもちろんですが、この仔は他と違って、だいたい一度か二度教えるだけでいい。怖いくらいに手のかからない。まるで人間の言葉がわかってるんじゃないかと、スタッフの口から出るほどなんです」
手ごたえありと見るや、ここぞとばかり、セールストークを開始するおやっさん。
航がどれだけ頭のいい馬なのかを雄弁に語った。
「気性面でも問題ない……か。今日初対面の相手がいても動じる様子がない。ここまで図太い神経なら輸送も苦にしないだろう」
日高の新冠町から訪れた男性は魅力的な馬の前にすっかりその気だ。
「おいどんべえ! 買われちまうぞ!? 暴れろ! 睨め! 気性が激しいとこみせろ!」
たまらず背中に乗ってる八肋から指示が飛んでくる。
命の危険を感じた航は、言われるがまま総帥をこれでもかと威嚇したのだが、
「ほほう。闘争心もあるようだ。さっきの私の言葉がお気に召さなかったのかい? ふわっはは、ますますいいじゃないか」
願い虚しく完全に目を付けられてしまった。
これと決めたら大金を投じることも厭わない性格なため交渉成立が濃厚。
航も八肋も死んだ魚のような目になる。
「ぜひ購入したい。血統の確認だけ最後にさせてくれ」
「母サンリヨン。母の父スペシャルウィーク。父親は――モーリスです」
「……」
モーリスと聞いた途端、今度は総帥の目が死んだ魚のようになる。
「他の仔を見せてもらおう」
「ええ!? で、でも。ですがっ、うちの一押しがこのサンリヨンの2018でして……」
考え直すよう食い下がるが、総帥の意思は変わらない。
「そちらにキズナ産駒がいるのは知ってるんだ」
「キズナ……ですか……?」
キングカメハメハの血が入っておらず、サンデーサイレンスのクロスを使えるモーリスは、次世代を担う種牡馬としてサウザーが力を入れている。
なぜモーリスではなくキズナなのか?
釈然としないおやっさんの顔に疑問符が浮かぶ。
「確かにロベルト系の爆発力はすさまじいものがある。しかし残念ながら、モーリス産駒では英国ダービーを勝つことはできん」
2000mまでの実績しかないモーリス。
距離不安でロンシャン以上に過酷なエプソムダービーは狙えないと総帥は踏んでいる。
「キズナ! そしてドゥラメンテ! この2頭の仔こそが、英国ダービー制覇の悲願を叶えてくれると私は信じている!」
「…………こちらです」
おやっさんは熱っぽく夢を語る総帥に何を言っても無駄だと悟り、要望通りキズナ産駒の所へ向かった。
「た、助かった」
「さすがグラスワンダーをトイレに行ってる間に買われてしまったお人だ。相馬眼があるのかないのかわかりゃしねえ」
九死に一生を得た一頭と一匹は、スパルタ育成を施されずにすんだと、心底胸をなでおろしたのだった。
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