Jet Black Witches - 1萌芽 -

AZO

第1話 萌芽

 ポコポコポコッ。キュルル、コポッ。


 ここは命が芽生え育ち安定期に入った、とある母親のお腹の中。内臓器官が活動する様々の微弱な音はするものの、ほぼ静寂な時間の流れに支配される世界。光は遮られるが、柔らかな透過光に包まれる。


 ただそれとは別に、慈愛に満ちた光ではない何か不思議な力で灯る、ほんのりちょっぴり明るく穏やかな世界。


 今日は定期検診の結果、急遽、一泊二日の検査入院となり、病院側に要請された都合からか、南向きの白く明るい広々とした特別個室が用意される。木々をすり抜ける柔らかな日差しがふんだんに注ぎ込む、初冬の気持ちよく晴れた昼下がり、換気のためにほんの少しだけ窓を開ければ、暖房と日差しで暖まる部屋の空気を和らげるように心地よい冷たさの風がすり抜ける。今夜はクリスマスイブだからか、お決まりのメロディや子どもたちの笑い声が溢れ、街も病院内もどこか楽しそうなムードに包まれている。


 この個室のベッドに入り、身体を起こした状態で付き添いの夫と寛ぎながら語らい始める場面だ。検査といっても、特に悪いほうの話ではなく、むしろあまりに良すぎて、成長速度も通常より早すぎる傾向にあることから前例のない珍しいケースらしい。そこで、データを取りたいとの医師から申し出を受け、妻はやや懸念の様子を見せるが、少し早いくらいで健康ならば問題ないとの夫の言葉を受けて、小考ののち妻もそれを受け入れ、夫婦承諾の形で検査を受けることになったというものだ。


 そこでスクスクと育つ胎児はまた少し大きくなり、包まれる隙間空間との調和が自然と求められる。


 ぐねっ……もよよん……


 (ん? んんん? ジジジ、ジンっ、動いたわ!)


 それは母親の胎内で育つ赤子にうっすらとした意識が芽生え始めた頃の、成長に合わせて胎内の足の位置を無意識に置き換える挙動。実際にはこれが初めてではなく、母親が寝ている間などに、気付けないほどの調和挙動はこれまでもあった。


 しかし、母親の意識がはっきりとした時間帯に明確にそれを捉えられたのはこれが初めてだったため、驚き、状況を察するとすぐさま、それを伝えたい夫への声を震わせつつ、自身の突き上げる感動的衝動をフルフルと小刻みな震えに身を任せた挙動へと昇華させた振る舞いを見せる。


 いま聞こえているこの声は、外側から胎内に皮膚組織を響かせ届いた、ややくぐもる声。と、発しているのが母親本人であるため、骨振動により伝播されるやや高めの音が時間差が少ない分、少し早めに届く音成分で、明瞭さが少し増し、時間差の位相のズレがその周波数と相まって、うまい具合に倍音が形成される。


 このため、元々の声質もあるが、胎児に届く声色は得も言われぬ安らぎの言の葉が舞い降りるような、そんな不思議な魔法の如き囁きとなっていた。


 (え? ソフィア、ほんとか? )


 それは、妻のソフィアからもたらされた新たな命の躍動の瞬間だった。夫であるジンは驚き、確かめたい思いをそのまま言葉に乗せて返す。


 ジンにとって、頭で理解し心の整理も着いていたはずの我が子となる存在。ソフィアのお腹が大きくなっていくに連れ、それを喜ぶ自分はいる。しかしそれでも実感が伴いにくいことから、俯瞰して見下ろすようなやや冷静な自分がいて、心のどこかでは、生まれるそのとき、心から祝福してあげられるのか? と自問自答するような不安が拭えないでいた。


 出産という営みの場面では、男とはあまりにも無力だ。痛みや苦しみ、様々な大変さを傍らで見て理解してケアするくらいが関の山で、それらを実際に体感しない分、事実上の蚊帳の外である男は、乗り越えたときの喜びもまた当の妻には及ぶはずがない。


 生まれてきて初めて子どもの姿を認識し、そこから関係を築いていけるが、それまでは何の接触もない存在なのだ。頭で認識しイメージすることだけが唯一残された一方通行の関係性構築のための手段なのだ。


 ところがそんな杞憂が消し飛ぶ出来事が目の前に突如として訪れる。まだ姿そのものを見ることは叶わないが、ソフィアのお腹の中にはソフィアではない別の命が確かにそこにある。手か足のどちらかが内側から押し上げているのがわかるからだ。


 そんなお腹の表面の様子にひたすら目を奪われるジン。数秒遅れて湧き上がる感慨がジンの涙腺をじわじわと刺激する。


 違ったのだ。世界のどこかで命が生まれている、そんな他人事の話ではない。紛れもなく自身の血を受け継ぐ、まさに分身とも言える存在がこの先、生まれてこようとしていること。愛おしい。妻に向ける愛おしさとはまた別の感覚の言葉にならない思い。理屈抜きの感動は次第に喜びの感情へと転化していく。


 こんな思いはまさに未経験のものだから、やはりどんな言葉でも説明することはできない。そんな思いが頭の中をひとしきり巡る頃、いつの間にかジンの相好は言いようもなく崩れていく。


 極めて標準的な経過をたどり育まれる、声の主の二人の間にできた赤ちゃん。胎内の器官の活動音に紛れるように、両親の幸福に満ちた会話は、くぐもりながらも、なぜか胎内を心地良く響かせる。


 (ほら、ここよ。触ってみる?)


 ただ、この両親も医者や看護婦さえも気付かぬところで、この子の神経系の成長速度だけは標準を遥かに上回る速さで生育し、主に知覚能力が目覚ましい勢いで学習を重ねていた。更にこの知覚はやや特殊で、音の像だけでなく、ぼんやりとではあるが、空間映像のような、その方向に浮かんでいるなにかのような、そんなイメージビジョンとして捉えることができていた。


 もちろん胎児の眼は開いてもいないし、見る力もまだ備えてはいない。しかしこの胎児には、別の特別な力で胎外で息づく存在の輪郭がうっすらと光って見えているようだった。その中でも母親のソフィアの場合は優しさを帯びながらも力強い明確な輪郭の光を放ち、次いで父親のジンは、輪郭としては明確だがそれよりはやや弱く柔らかい印象の光を放っているように感じていた。


 この胎児は、自らを包む母体であるソフィアを母なる存在であると、またその母が特別な感情を放ちながら言葉を交わすジンをまた特別な存在であると、自然に認識していた。


 もちろん、言葉はおろか何の知識も持ち得るはずはないが、へその緒で繋がる相手は特別な一体感があるのかもしれない。そしておそらく普通の胎児にはそこまでの思考はないと思われるが、このソフィアが宿す胎児はおぼろげながらも思考に近しい知能が備わりつつあった。当然、前述の通り、言葉など知るはずはなく、ただただイメージとして、母や取り巻く人たちを捉えていた。

(ここではそれとなくな言葉で表現するが、あくまでぽやぽやとしたイメージ的思考の表れである)


 ……ママ……おてて……あったかい……つつまぇぅ……ほっ……

 ……あぇ……はなぇた……あぁぁぁ……


 お腹を触ることを勧められたジンだが、ソフィアのお腹とはいえ、その向こう側にまだまだか弱いはずの赤子がいて、触れるだけで今にも壊れてしまいそうで、また新たな命の神聖な印象もあってか、そうそう迂闊に触ってよいものとは思っていなかったから、思わず聞き返す。


 (え? いいの?)


 ……ボクの……ママ……きょう……ごきげん? ……

 ……ああ……そうか……きょう……このひと……いぅ……から? ……


 胎児なりの心内はそんな感じのイメージを思い描く。二人のやりとりは今日も優しく響き、それを感じ取る胎児の頬も優しく緩む。他の人がいるときは角張ったイメージだが、他に誰もいないジンとソフィアの二人きりのときはふんわり柔らかい空気に包まれたほっこり温かな印象を感じ取る胎児は、そんな時間がとても気に入っていた。


 (いいに決まってるじゃない。きっとこの子も嬉しいはずよ。でも優しくよ?)


 ソフィアの後押しの一言もあって、ただ触れる程度なら大丈夫かもと思い直し、触れる決意を固めるジン。その存在をより意識すればこそ、想像を膨らませながら、愛おしさもさらに増していく。


 (わわわ、わかってるよ。でも、本当に生まれるんだなぁ……オレたちの赤ちゃん……絶対可愛い)


 一息飲んで拳を握り、俯き頷きながら「よし」と呟く。が、顔を上げてソフィアのお腹の表面の変化が眼に入った次の瞬間には頬は綻び、目は潤み手をややプルプルさせるジン。潤み揺らめく視点を定めながら、ソフィアに手を向けジンはゆっくりと近付いていく。


 ……あぇ? ……このひと……おてて……くぅ……


 右手をそぉーっとソフィアのお腹の表面がウニョウニョと変化している部分に伸ばして……いくところで……ジンの手の接近を感じ取る胎児に緊張が走る。心の準備ができてないから、ただ闇雲に手足をあたふたと動かし、表面のウニョウニョが小刻みに速くなる。


 ……わわ……まって……ちょっと……まら……えぇ……


 ジンはまだ踏み切れないのか躊躇いの手はゆっくりと速度を失っていく。


 お腹の中の胎児は身構えながら動きを止め、意識を背ける。突然のジンの手の接近にこわばりを見せる。


 が、すんでのところでジンの手は留まる。伸ばす手に応じるお腹の表面の変化の堪らない可愛らしさに眉も頬もぐしゃぐしゃなジン。


 ……ひゃぁ……ドキドキ……ドキ……・……あぇ? ……こない? ……


 ピタッと止まるお腹表面の変化を見て、ふと無造作な近付けかただったことを思い直し、いったん手を引き戻すジン。


 胎児にこちらの動向は当然見えるはずがないとジンは思っていた。なのに手の接近に呼応するような少し慌てた挙動を感じ取り、不思議に思う半分、反応を見せているのだとすればと考えてしまうから、摩訶不思議な状況はさておき、ジンの中では一気に愛おしさが爆発する。


 (ふふふ。やっぱり……そうなのね)


 お腹とジンを交互に見返すと、お腹に向けて微笑みかけながら、何かを含めた口調でソフィアが呟く。そんな素振りを気にならないはずがないジンは当然聞き返す。


 (ソフィア? もしかしてだけど、お腹の赤ちゃんからオレが見えてたりするのかな?)


 (やっぱりジンも気付いちゃうよね。うん、そうね。私も産まれる少し前からの記憶があるもの。漆黒の血なのかなぁ。でもこんなに早い時期ではなかった気がするけど……)


 (あぁ、前に言ってたあれかぁ……って、質問は見えてるかどうかなんだけど、皮膚で遮られるから見えるはずないよね?)


 (確かに。うん、見えないね。ただ私たちの一族は感じることはできるのよ。人が纏う気? オーラ? たぶんこの子にも感じ取れるみたいね……)


 ジンに向けて話しながらも、一方では自身のお腹の内側の気配察知を試みるソフィア。自身のオーラでふわりと撫でるイメージだ。すると胎児の身体の表面には薄っすらとしたオーラが纏われていることに気付く。オーラ同士が触れることでなんとなくな感情の起伏のようなものを感じることができるようだ。


 ……あぇ……ママ……おてて?……くしゅぐったい…… ケラケラ


 どうやら、それは驚きとそわそわしたようなもので、戸惑いや不安のような嫌な感情はない、ソフィアにはそう感じ取れた。おまけに、オーラを介して何らかの接触が生まれ、反応を見せる赤ちゃんの可愛らしさに(くふふふっ)と笑みが溢れるソフィア。


 (……あ……あぁ……そうなのね)


 あ、っとジンに意識を戻し、状況の説明を加える。


 (まだ小さ過ぎるし、か細いから気付けなかったけど、感情の変化がオーラの表面に既に表れてるわ……)


 (え? そんなことがわかるの?)


 ほくそ笑みながら小さく頷くソフィア。それを見た次の瞬間、瞳孔が拡がり、脳裏に様々なびっくりが押し寄せるジン。


 (じゃあ、やっぱりオレの接近に反応……あ、じゃあ、やっぱり怖がらせちゃったのかも……って、えぇぇぇ! ほ、ほんとなのそれ。産まれる前から意識が目覚めてるってこと? えー、どうしよう、ヤバい、ビックリだけど、嬉し過ぎる……)


 沢山の驚きが矢継ぎ早にやってくるから激しく混乱するジン。しかし、それよりも何よりも、産まれる前の赤ちゃんとの交流が実現すること、それを思い浮かべた途端、一筋の涙が頬を伝う。


 (……あれ? ぼやけてよく見えない……)


 ソフィアのお腹越しだが、少しでもその姿を捉えようとまなこを見開く。しかし涙で視界が滲み、沁みて瞬きが止まらない。慌てて両親指で拭い……きれず服の袖でゴシゴシ拭き取り、(よし、大丈夫)と呟くジン。


 お腹とジンを交互に見ていたソフィアは心温まる思いを胸に抱きながら、頬を緩ませ優しい笑みの眼差しで声をかける。


 (あらら、大丈夫かしら? うふふっ)


 ……なあに? ……なんだか……このひと……あったかい? ……


 ソフィアとは異なる温もりを感じ取る胎児。一度はジンの接近に慌ててやや身をこわばらせていたが、間をおいて感じるジンのオーラの輪郭が、元々柔らかな親しみを感じていたところに加え、温かさのようなものが混じっているように感じ始めていた。


 ……ぅゎぁ……このひと……おてて……ぴかぴか……きぇい……


 そう感じたからか、ジンの慈しむ思いがオーラとして身体を伝い集まったからか、ジンの右手の指先がぽやーっと灯りを帯びたような、胎児の中では特別な情景のビジョンとなっていた。


 (……それなら……うん。そぉーっと近付いて優しく撫でてみようかな?)


 ジンが選び取った優しげなアプローチを話すと、ジンらしさを思い浮かべ、優しい笑みで返すソフィア。


 (うん。それがいいと思うわ)


 ……さわぃたい……あえぇ……とどか……ない……


 触りたいと、胎児は手を伸ばすが、思うよりもそれは遠く、諦め引っ込める。


 ジンの眼にはピョコンと膨らんで引っ込むソフィアのお腹表面の変化、胎児の挙動に愛らしさを覚え、頬が笑みに染まる。


 (そ、そうだよね。うん、やってみるよ)


 そぉーっと、息を呑み、またそぉーっと、近付ける指先に気持ちを向けるジン。お腹に触れる少し手前の距離だが、意識を集中することで自然に集まるオーラは、胎児には眩く光り輝くビジョンに映る。

 

 ……きぇぃ……きぁきぁ……さわぃ……たい……えぃ!……


 まだ触れるはずのなかった寸前の距離感覚でいたジンの右手親指の指先に急に突き出したお腹表面の皮膚が触れる。


 ぴりっ……ぴかっ!


 この瞬間、静電気ほどの痛みはないが、なにか優しい振動のような淡い衝撃が指先に走る。とともに一瞬眼が眩むような光、いや光ったようなそうではないような不思議な瞬間に驚き、目を閉じて「うゎっ」と零した声を置き去りに後ろに倒れつつ尻もちをつくジン。


 (なに? なにが起こった?)


 その瞬間のすぐ後は、光ったことは幻だったかのように何も起こっていない状況で、ジンは自身の指先とソフィアのお腹を交互に見据え、状況を見極めようと必死になるが、何もわからないことにひたすら混乱していた。一部始終を見ていたはずのソフィアでさえ、予想もしてなかった出来事に思考はすっかり置き去りとなり、整理しようと状況を懸命に探る。


 ……ぷひゅ……けらけらけら……………………


 胎児だけは、仕掛けたことの顛末がただただ面白かったようで、上機嫌の笑いに浸っていた。そしてすっかりジンを気に入ってしまっていた。

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