第二話

 旦那様は書斎から出られることはほとんどなかった。


 旦那様のお呼び出し係になっていたあたしは、扉の前で大声を張り上げ、中で待たされるのが常だった。


 一体何の仕事をしているのだろうか。

 いつも万年筆を走らせて、時折手を辛そうに揉まれている。

 かわりに揉んで差し上げようかとも思ったが、そこからされることが怖くて、あたしにはどうしても申し出ることが出来ないでいた。


 いつまでも逃げるわけにもいくまいとわかっていながらも、あたしは必死に旦那様に抱かれることを避けつづけていたのだ。


 ▽


 忙しさに慣れてしまえば、女中としての生活はやりがいがあり、それなりに楽しいものだった。

 売られた頃の想像を考えてみれば、恵まれすぎていると言える。


 ――めかけとしての仕事に怯えなくてはならないことを除けば。


 ただ、屋敷中の掃除が行き届いてしまうと、今度は自分が役に立っていないような気がして不安になる。

 旦那様はいつも「役に立て」と仰るが、どうすればお役に立てるのか、正解がわからない。

 しかし旦那様いつも書斎で忙しげに万年筆を走らせるだけだ。


 あたしは役に立たない自分をいつも不安に思っていた。


 故郷にいるときからそうだ。

 あたしは自分が役立たずなのではないかと、いつも怯えていた。


 お休みの日などは特に不安だった。

 することもなく、かといって屋敷の外には山道しかないだろうから、出かけることもできず、暇を持て余す。


 できれば街に出て、何でもよいから仕事をし、故郷に仕送りでもしてやりたい。


 売られてきたあたしには、お給金は出ない。

 文句はない。十分な衣食住が与えられているだけで恵まれている。

 しかし、十分に与えられているからこそ、あたしは苦しんだ。


 ――食卓に並ぶ贅沢な食べ物。

 ――これを故郷に送ってやれたらどんなによいだろう。


 いつも夢見るほかはなかった。


 ▽


「お雪ちゃん、旦那様が郵便をお出しになるわ」


 佐和子さんの言葉に思う。


(郵便)


 ああ、故郷の両親に手紙を出して、あたしが無事に働いていることを教えてあげたい。

 あの優しい人達のことだ。きっとあたしの境遇を思って、泣いて過ごしているに違いない。

 両親とも字は読めないが、人に頼めば手紙の内容を知ることもできよう。

 近況を教えてあげれば喜んでもらえるに違いない。


 これは良い思いつきだと思った。


「旦那様! 雪です! 入ってよろしいでしょうか!」


 大声で声をかける。


「許す!」


 旦那様の声を確認し、扉を開く。


「郵便物があると聞きました」

「ああ、そこで待て。座ってよい」

「はい」


 あたしは素直に座る。

 しばらく待たされる。


 いつものことだ。

 旦那様は、多少時間のかかることでも「後で来い」とは仰らず、その場で使用人を待たせる。

 きっと何度も呼びつけるのが面倒なのだろう。


「あの、旦那様」


 おずおずと話し掛ける。


「なんだ、雪」

「お休みの日に、街に出て何か仕事をさせていただきたいのですが、お許しいただけませんか」


 勇気を振り絞って言うと、旦那様の手が止まった。


「仕事をするだと?」

「はい、どこぞの食堂ででも働けば、故郷に手紙を出したり、すこしは仕送りも出来るのではないかと……」

「手紙? 雪、おまえ字が書けるのか?」

「はい」

「秦め……黙っていやがったな」


 読み書きできることは意外だったようだ。


「お許しいただけますか」

「いかん」


 旦那様は不機嫌そうにきっぱりと言った。


「休日は休息のために与えたのだ。それを街で働くだのと……暇を持て余すなら休みの日も屋敷で働け!」


 怒りを含んだきつい口調だった。


(冷たい……)


 別に街に出たかったわけではない。

 お金が欲しかったわけでも。

 あたしはただ、家族に無事を知らせたかっただけなのだ。


 家族の顔が浮かび、急に悲しくなった。

 涙が滲む。

 すると旦那様が更に声を荒げた。


「泣くか! 雪!」

「い、いえ……」


 声が震える。


「俺は泣く女が嫌いだ。ここが気に入らぬならどこぞの女郎屋にでも行け! 給金も少しはつくぞ!」

「い、いえ! 決して気に入らないわけでは! むしろ……」

「黙れ」


 旦那様は封筒を舐めて封をし、あたしに投げてよこす。


「夕時に郵便屋が屋敷に来るはずだ」


 あたしはその場に立ち尽くしたまま、すぐには動けなかった。

 泣くのを我慢するので精一杯だったのだ。


「何をぼさっとしておるか! さっさと出てゆけ!」


 旦那様の怒鳴り声で、あたしは慌てて挨拶をして部屋を出た。

 部屋を出たとたんに、溜まりきった涙がぽろりと目から零れ落ちた。

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