第36話 澄み切った青空
「好きだよ、三好くん」
伊万里の言葉が、ずしりと響く。
とうとう口から放たれた好きの二文字。
雪音からももらった、好きの二文字。
伊万里が儚げな笑みを一つ零す。
「あぁーあ、言っちゃったな、私。この気持ちは言わないつもりでいようって思ってたんだけど」
「伊万里……」
伊万里から思いを告げられて、雪音から本心を投げかけられて、俺は一体、どんな答えを出すのが正解だろうか。
ずっと考えていた。好きが何なのかを。
俺にとって、恋愛的な意味で好きなのはどういうことなんだろう。
好きってことは、付き合いたいってことだ。恋人になりたいってことだ。
友達じゃたどり着けない領域にまでいけて、友達じゃできないことができるようになることだ。
じゃあ、俺はどっちとそうなりたい。いや、誰とそうなりたい。
「俺、は……」
分からないなんて言えない。
好き、って言葉を相手に言うのがどれだけ勇気のいる行動で、どれだけ怖いのか分かるから。だからそんな伊万里の行動を踏みにじるようなことは絶対にできない。
……なのに、それなのに。俺は未だに、答えを見つけられずにいる。
「(……情けない。ほんと情けない。覚悟がない。ずっと中途半端にその場その場で生きてきたから、こんなことになるんだ。俺は、俺は……)」
思わず手の力が入る。
自分の弱さと伊万里の勇気の狭間で、押しつぶされそうになる。
どうして俺はこうなんだ。
雪音を悲しませ、伊万里を悲しませ、冬子さんに励ましてもらってもなお、答えを出せない。分かることができていない。自分がますます分からない。
「俺は……」
何かを胸の内から出そうとしても、言葉にならない。
考えれば考えるほど、心の中の靄は濃くなるばかりで、余計に見えなくなっていった。
それにさらに焦り、考え、悪循環に陥る。
胸の鼓動が早くなる。額に汗が滲む。手汗で握る指が滑る。
どうする、どうする、俺はどうする……。
「――大丈夫だよ、三好くん」
「……え?」
伊万里が澄み切った表情で言う。
「私さ、実を言うと三好くんのこと、結構分かっちゃうんだ。というか、外から見たら単純なんだけどね、三好くんは」
「ど、どういうことだよ。分かるって、何が……」
「三好くんの好きが、何なのか」
頭が真っ白になる。
さっきまであれだけこねくり回して考えていたもの全部が、パソコンでデリートしたみたいに一瞬で消える。
伊万里はもう一度ふふっと笑って続けた。
「三好くんはさ、ほんとは分かってるんだよ。前から分かってた。でも、分かってたらいけないから分からないように、分からないって自分に言い聞かせて結局、ほんとに分かんなくなっちゃったんだよ」
「え? 俺が前から分かってた? 俺の好きが? 今、こんなに分からないのにか?」
俺の問いに、伊万里はブレずに頷く。
「そうだよ。三好くんは正義感の強い人だからさ」
「正義感が強いって、俺はそんな正しい人間じゃないよ」
「ううん、正しい正しくないの話はしてないの。ただ……なんていうかな、自分の中にある正義を必死に守ろうとする人なんだよ、三好くんって」
「自分の中にある、正義……」
俺の中に正義なんてあるんだろうか。
胸に手を当ててみても、その答えは見つからない。
だが、俺の目の前にすべての答えを知っている人がいた。
伊万里は空を見上げ、息を小さく吐き、続ける。
「三好くんはさ、ずっと兄妹でありたいとか、兄妹でいなくちゃダメなんだとか。兄貴でありたいとか、家族でありたいとか、ずっとそうやって言ってたよね。――まるで自分に言い聞かせるように。それはどうして?」
「どうしてって、それは……俺にはずっと兄妹がいなかったから。だからずっと、欲しかったんだ」
伊万里の問いに、俺はすぐに答える。
「……それだけ?」
「それだけって、他に……」
言いかけて、はたとやめる。いや、勝手に口が続きを喋るのをやめてしまった。
何故なら、胸の内側をトンと蹴る何かがあったから。いろんなものに埋もれて、光を浴びることのなかった何かが。
そして俺は、それを知っている。
「ほんとは初めて見た時から気づいてたんでしょ? ――あの子に抱いている感情が、それ以上なんだって」
少しずつ、息を吹き返すように感情が脈打つ。
ドクン、ドクンと力強く音を鳴らし、確かにあると存在を知らしめてくる。
「俺、は。俺は……」
――――そして。
俺はようやく、自分がずっと分からなかったことを思い出した。
鮮明に、色濃く、抱いた感情をすべて。
「伊万里、俺は……」
「三好くん、それ以上は言わないで」
「…………」
伊万里がキリっと、俺を睨むように見てくる。
俺はそんな伊万里を見て、分かってしまった。
だからこそ、これ以上俺が何か言うのは、間違っていると思った。
俺はこれ以上過ちを重ねるわけにはいかない。
「私は、全部を終わらせるために、新しい自分になるために教えたの。三好くんのためなんかじゃない」
「……うん」
「だって三好くんはひどいから、最低だから。三好くんのために何かするなんてことはしない。全部、私のためだから。だから――分かるよね?」
「…………うん」
肯定すると、伊万里は安心したようにふっと笑って、空を見上げた。
「あぁーもうっ、ほんとに最悪だ!」
頭上に広がる空のように、陰り一つない顔で伊万里が言う。
「ねぇ、三好くん」
「なんだ?」
伊万里は息を大きく吸い込み、これまでで一番の声量で俺に告げた。
「この責任は、たくさんの時間をかけて私に返してよね!」
伊万里は言うと、ここ最近でよく見たからかいの表情を浮かべ、腰に手を当てた。
俺が「分かった」と頷くと、満足そうに伊万里も頷く。
しばらく見つめあって、そして俺は踵を返して歩き始めた。
やらなければいけないことがある。
これまでの俺と決別して、覚悟を持ってやらなければいけないことが。
◇ ◇ ◇
彼の姿は、もう見えなくなった。
私はもう一度ベンチに座り、空を仰ぐ。
「ほんと、三好くんは最低だ」
呟いて、胸に手を当てる。
私はよくやったと思う。後悔はない。
私も私で、自分の中の正義に従っただけだ。それだけなのだ。
「……はぁ、雨が降っちゃえばよかったのに」
空に悪態をついて、一人笑う。
私は彼の思うような強い女の子じゃない。
それが今まで嫌だったけど、今は不思議と嫌じゃない。
「悪くないね、私」
鼻をすすって、私はもう一度天に昇るように息を吐いた。
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