パンデミックの正体

森本 晃次

第1話 少女の入院

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年12月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。


 最近では、少なくなってきた町医者であるが、K市郊外には、まだいくつか存在していた。

 町医者というと、代々世襲という感覚が多いので、息子か娘が、

「病院を継がない」

 といってしまえば、それで終わりである。

 元々、少子高齢化ということで、医者も例外ではなく、次代を継ぐ息子や娘に、

「子供ができない」

 などというだけではなく、近頃では、

「結婚したくない」

 という人が多くなってきているので、最近では、次代の医者というのが不足しているのだろう。

 医者の経営というのが難しいというのもある。

「患者を救うために一生懸命に従事している」

 という病院で、経営のことまで考えなければいけないのは、結構きつい。

 経営コンサルタントでも雇えばいいのだろうが、先代の中には、

「自分の病院は、自分で経営も考える」

 ということを考える人も多かったのだ。

 それを息子の代に強要するのは難しい。

 しかも、病院経営などと難しいことを親には教えられるものではない。親の時代というと、子供の頃は、スポーツ根性ものの番組ばかりがあり、親も、頑固な時代だっただけに、親と子供という世代の違いがどういうことなのかということを理解するというよりも、

「身体で覚える」

 という時代だった。

「子供は親が残してくれた財産で、病院経営をすればいいのだから、楽なものだ」

 と思う人がいるだろう。

 しかし、親とすれば、

「それが当たり前のこととして、石にかじりついてでも一つの目標に向かって突き進んでいく」

 だが、それが今度は子供の時代となると、子供の頃の反発を忘れてしまい、何とか病院を継ごうと考えて、

「子供の頃というのは、すべてが、全肯定の時期である」

 といっている人がいた。

 つまりは、生まれてからすぐというのは、

「何もできない」

「できなくて当たり前」

「できないのに、導いてあげられなければ、それは大人の責任だ」

 ということになる。

 だが、それは、赤ん坊の頃までだ。

「ミルクを飲んだだけで、すごいと言われ、寝返りを打っただけで、赤飯を焚いてお祝いをする」

 などというのは、

「子供が何もできないということを、大人が認めているからで、逆にいえば、親だけで、子供を守れる環境にある」

 ということであろう。

 しかし、それが次第に、

「将来的に、子供は自立しなければならない」

 と思うだけで、大人には、それまでになかった。

「子供の自立を助ける」

 という義務を負うことになるのだった。

 赤ん坊の頃は、何かをこぼしても、怒られることも、嫌がられることもなかった。親とすれば、

「子供は、何もできなくて当たり前だ」

 という意識があるからで、それが、

「自分の意思でできるようにならないといけない」

 ということで、嫌でも、子供が分からない時は、怒らなければいけないのだった。

 その時、親は、

「自分の子供の頃のこと」

 というのを思い出すものであろうか?

「俺は、ちゃんと親のいうことを聞く子供だったのだろうか?」

 あるいは、

「あの時、親は自分にどんな態度で接してくれたのだろう?」

 と思い出そうとするのだが、なかなか思い出せない。

 思い出すことができるくらいであれば、

「どう教育すればいいのか?」

 などということを考える必要もない。

「無意識の行動において、子供が反応していたことに、いちいち、親は反応などしなかったのではないか、だから、覚えていないのではないか?」

 と考えるのであった。

 子供が親に逆らったり、大人に逆らうという感情は、大人が子供だった時期に分かっているはずのことではないか。それを分かっているはずなのに、まるで子供の頃を忘れてしまったように、説教をするのだろう?

 と、子供は、そのあたりまで分かっているのだ。

 子供だって、実はバカではない。

 自分に関係のあることは、キチンと理論立てて考えるだろう。

 大人よりも素直に考えているはずで、だから、大人が子供に説教をする時、

「なんて、屁理屈を並べたりするんだろう?」

 と思うのだ。

 大人はきっと、

「子供の教育をしないといけない」

 ということに頭がいってしまって、子供を叱るということに対し、正当性を見つけようと考える。

 そう思わないと、子供を叱る理由がないからで、子供を叱っていないと、

「あの親は、教育していない」

 と思われるのが嫌だと考えるからであろう。

 しかし、それは、きっと、平成世代の親の考え方ではないだろうか? まわりが気になるというのは、

「ママ友」

 というものが、集団を作っているので、その集団と離れたことをすれば、村八分にされてしまうと考えるからであろう。

 村八分にされるということは、子供の世界の

「苛め」

 に近いものがある。

 特に団地などの共同住宅に住んでいると、

「ゴミの出し方一つ」

 においても、何を言われるか分かったものではない。

 下手をすると、マンションの玄関の前に汚物が捨ててあったり、

「頼んでもいない出前がたくさん届く」

 などという、そんな面倒臭いことがあったりするのだ。

 これは、子供における苛めの初期段階に近いものであり、大人の特に、ママ友などという人たちの

「苛め」

 というものはひどかったりする。

 そういえば、最近でもあったではないか。

「ママ友」

 と言われてはいたが、実際には、洗脳されているのだ。

 マインドコントロールを受けて、

「旦那が浮気している」

 だの、

「何か危ない状態にあるから、用心棒を雇ってあげるので、そのみかじめ料として、金を出せ」

 というような脅しをかけることで、金銭を奪い、精神的に追い詰めていくのであった。

 結果、追い詰められた母親が、

「子供にまともに食事を与えない」

 などという仕打ちをしたことで、我が子を殺してしまうという事件まで起こってしまったのだ。

 それだけ、精神的に追い詰めると、

「人間としての判断力であったり、善悪の判断などが、まったくできなくなってしまう」

 ということであった。

「まともに食事を与えなければ、どうなるか?」

 などということは、普通の精神状態であれば、誰だって分かるはずだ。

 別に子供が悪いことをしたわけでもないのに、一人の女に操られることで、結果、

「自分の子供を餓死させてしまった」

 ということになるのだった。

 確かに母親は洗脳されていたのかも知れないが、結果、罪に問われたのだ。精神鑑定を受け、

「判断能力があった」

 ということで、普通に裁判を受けたのだ。

 さらにひどいのは、その、

「悪魔のようなママ友」

 も、裁判を受けたが、最後の最後まで、

「すべて母親のせいだ」

 と言い張っただけに、恐ろしい女だということである。

 そんな、

「ママ友」

 などという言葉で表すことのできないような、

「悪魔」

 がいる時代であったが、素直に育つ子供だって、まったくいないわけではない。

 小さい頃から、この町医者に通院してきて、小児喘息の気があった頃からお世話になっている先生のことを、父親のように慕っている女の子がいた。その子の名前を、

「鈴村美亜」

 と言った。

 彼女は、普段からいつも一人でいる子だった。両親が共稼ぎというのは、今の時代珍しいことでもない。しかも、母親は、夜も週に二度ほど、スナックに勤めているので、ほとんど家にいないといってもいい。

 小学4年生くらいの頃から、美亜は家事の手伝いができるようになったので、

「夜も出掛けられる」

 ということで、母親は、週2回のスナック勤めを始めたのだ。

 小児喘息も、成長するにつれて楽になって行ったので、だいぶ母親としても安心だ。特に主治医として行きつけの病院が見つかったのはよかった。何かあれば、その町医者に行けばいいからであった。

 町医者は、石田病院といい、基本的に院長先生が一人で診ていた。

 看護婦さんが二人体制であったのだが、そのうちに、院長先生の息子さんが、戻ってきたということで、診療にも当たることで、だいぶ、病院も楽になったようだ。

 息子さんというのが、年齢として、そろそろ30代に差し掛かるくらいの年齢で、息子さんが帰ってくるということで、病院を少し大きくして、入院患者も、数人であれば、受け入れられるようにしたようだった。

 息子さんは、大学病院に勤めていたということだが、インターンのような仕事だったという。元々、親の病院を継ぐということは、決定事項で、子供の頃からそのつもりでいたので、今のところ、

「順風満帆」

 と言ったところであろうか。

 そういう意味で、院長先生としても、

「自分の代で病院を終わらせることがないだけよかった」

 と思っていることであろう。

 この病院を、

「イシダ病院」

 という。

 もちろん、苗字は漢字の、

「石田」

 なのだが、

「インパクトがあっていいだろう」

 ということで、先代、つまりは、今の院長のお父さんが決めたようだ。

 そのお父さんがこの病院の創始者だということで、一番苦労をしたのは、創始者である先代だったという。

 というのも、昔はそれこそ、町医者しかなかったので、それなりに繁盛もしていたのだろうが、インフラの整備や、街の発展が充実してくると、近くに大きな病院が建ち始め、どうしても患者はそちら取られるということが多かったようだ。

 それまでは、学校や、近くの工場の健康診断など、一手に引き受けていたものが、大病院に取られてしまい、思うような経営ができなくなってしまった。

 しかし、町医者の強みというのは、

「融通が利く」

 ということである。

 逆にいえば、大きな病院では、

「融通が利かない」

 つまり、救急病院でもない限り、診療時間以外は、診てはくれないからだ。

 診てくれたとしても、当直の先生がいるだけで、下手をすれば、専門外の先生がいるだけの時もある。

 確かに、医者になるためには、いろいろな科を、総合的に勉強しているのだろうから、分からないはずはないのだろうが、どうしても、当直というと、

「ただの当番ということになるのか、面倒なことはあまりしない」

 と言われるようになった。

「ただの風邪のようですね。お薬だけでも出しておきましょう」

 と言われるだけで、ロクな治療もされなかったり、ちょっとした治療だけで、深夜料金を取られて、患者側も、何か釈然としない気持ちになったりすることも多かったようだ。

「昼間は、ニコニコ診療している先生も、当直になると、ブスっとして、何か嫌だわ」

 と言われる医者も多い。

 そんなウワサというのは、広がるのは早いもので、

「それまでのイシダ病院の方が、親身になって、診てくれたわ」

 と、時間外に駆け込んでも、嫌な顔一つせずに、診てくれた。

 受付の人がいないということで、とりあえずのお金を置いておかなければならないという不便さはあったが、それでも、大病院の対応とはまったく違う。

 向こうは、当直の時間としてインターンがいるのに、診療を受けるまできつい状態で、平気で待たされることもあった。

 しかし、時間外であっても、イシダ院長は、決して嫌な顔もせず、患者を待たせたりもしない。大病院の医者は、治療を事務的に行っているのに対し、イシダ先生は、いかにも患者のためを考えてくれている。

「ここ、きつくないですか?」

 と絶えず、触診をする時でも、相手のことを思っての治療は、ちょっとしたことであっても、精神的に心細くなっている患者にとっては、ありがたいことであった。

「本当にイシダ先生はありがたい」

 といって、涙を流す患者もいたくらいで、医者にとって、これほどのやりがいを感じさせられることはない。

 大病院のインターンには、一生分かることではないだろう。そんな人が、そのままどこかの大学病院でずっと医者として雇われていくのか、それとも、親の病院を継ぐことになるのか分からないが、

「一生、ずっとこのままだったら、もう二度と、こんな医者に罹りたいとは思わないだろうな」

 と、患者の方も考えるに違いない。

 大型病院ができても、次第に、患者が、また町医者の戻ってくる。

 この傾向は、今も昔も変わりない。

 大型商業施設が郊外の方にできたということで、当初は、皆そっちに買い物に行く人も多かったが、しかし、それも最初だけだった。

 できた最初の頃は、物珍しさで、平日休日問わず、賑やかであったが、数か月もしないうちに、

「休日はそれなりに人も多く、駐車場も満車になったりしたが、平日は、夕方の買い物の時間以外は、ほとんど客がおらず、下手をすれば、従業員の方が圧倒的に多いという状況になっている」

 というのと同じだった。

 駅前商店街は、かなりの痛手ではあったが、一定の固定客がついている店も何軒があった。

 半分くらいの店は、行き詰ってしまい、店を閉めたところも多かったようだが、惣菜屋などのようなところは、結構賑やかだったりする。

 もちろん、以前のような活気がないのは、閉まっている店が多いのでしょうがないが、

「これも時代の流れか」

 という諦めもなきにしもあらずだった。

 特に、鳴り物入りでできた大型商業施設であっても、テナントが1年もすれば、撤退して、別の店に変わっているなどということも多かった。

 チェーン店のような店であれば、数か月、様子を見て、芳しくないと思えば、さっさと撤退を考えるというところも多いだろう。

 そういう意味で、テナントが入れ代わり立ち代わりしているところは、しょせん、郊外型といっても、しょせんは、ブームが去れば、売り上げも激減するというもので、皆が皆、車で出かけるわけでもないし、当にブティックのような店では、惣菜を買うように、毎回買っていく人がいるわけでもないだろう。

 バブルの時期に、

「多角経営をして、事業を広げれば広げるほど儲かった」

 ということで、

「大型商業施設」

 しかり、全国でブームのようになった、

「博覧会」

 あるいは、

「テーマパーク」

 などがその象徴だといってもいいだろう。

 しかし、実際にバブルが弾けてしまうと、それらの事業は、

「無用の長物」

 ということになり、一気に経営が立ち行かなくなるというものだ。

 博覧会の期間が終われば、その跡地にマンションを建てたりして、そこを分譲するという計画だった。

 だから、マンションを建てるところまでは行っても、一向に買い手がつかないということは当たり前のことだった。

「バブルが弾けた瞬間に、青写真は、まったく当てにならなくなる」

 というものだった。

 あれだけできたテーマパークも、すぐに閑古鳥が鳴くようになり、最初一番賑やかで、

「ここが潰れるくらいだったら、他のところは、ひとたまりもないだろうな」

 と言われていたところが、一番最初に、潰れてしまうということになったりしたものだった。

 だからと言って、それほど皆驚いていない。

「バブルが弾けたんだから、何が起こっても、少々のことでは驚かない」

 というものであった。

 というのも、バブルが弾ける前までは、

「いろいろな神話」

 というものがあり、その中で一番言われていたのは、

「銀行不敗神話」

 というものであった、

 つまりは、

「銀行というものは、絶対に潰れない」

 という神話があったのだが、バブルが弾けて少しして、一つの銀行が破綻してしまうと、もう後は、堰を切ったかのように、銀行だけではなく、いろいろな店が一気に破綻していった。

 銀行不敗というのは、

「銀行が潰れると、経済が一気に立ち行かなくなるので、連鎖倒産などがひどくなる」

 ということから、政府も、

「銀行を潰さない」

 というような、作戦を練るようになるのだった。

 だが、バブル崩壊というのは、政府がちょっとした政策をうつくらいでは、抑えられるものでもない。

 一行だけの問題であれば、何とかなるのかも知れないが、銀行全部、いや、社会全体が、一気に不況となり、その屋台骨が銀行だったことで、どうしようもなくなったのだ。

 そもそも、銀行というところは、バブルの時代、どんどん融資をしていた。

 要するに、一般の販売業の会社の営業が、

「自分のところの商品を営業して、消費者に買わせる」

 というのと同じ感覚で、企業に対して、

「融資しますから、どんどん事業を拡げてください」

 とばかりに、口八丁手八丁の状態で、お金を融資するのだ。

 そんな状態の時、銀行は、

「過剰融資」

 という方法を取った。

 銀行における。

「儲け」

 というのは、

「利子を貰って、それを利益とする」

 というものであるから、相手が、

「800万円融資してほしい」

 といってくれば、

「じゃあ、1000万をご融資しましょう」

 ということで、余計に貸し付けた分の利息も儲けになるので、借りた方も、

「どうせ、すぐに設けて返せばいいんだ」

 とばかりに、

「融資は多ければ多いほどいい」

 と思い、気にもしないのだった。

 しかし、実際にバブルが弾けると、

「貸し付けたものが、返済されない」

 という事態に陥る。

 バブルの時代であれば、円滑に回っていたものが、油が切れたチェーンのようになり、それを無理して動かそうとすると、どうにもならなくなるのが、経済というものだった。

 それを考えると、その時代まで行っていたことが、

「自転車操業」

 であるということに、やっと気づく。

 つまりは、

「景気のいい時であれば、別に問題ないのだ。お金が、右から左に動いて、そこで生まれた利益をそのまま次に使えばいいわけだが、バブルが弾けると、肝心のお金が、動かなくなる。

 一か所でとまってしまうと、どんどん、いろいろなところで渋滞が起こってしまい、払わなければいけない時になってお金がないというところがどんどん増えてくる。

「不当たり手形が続出し、企業は破綻する」

 ということになる。

「バブル経済とはよく言ったものだ」

 と言われるが、まさにその通りである。

 バブル経済、つまりは泡である。

 実態のないものをお金を右から左に移すことで、利益としてきたのだから、

「見えない利益を追いかけていた」

 ということである。

 だから、どこかで止まってしまって、先に進まなくなると、そこに何もないことが分かるのだ。

「じゃあ、あの利益ってなんだったのだろう?」

 ということであるが、それが、自転車商業のようなもので、

「うまく回転している時はいいのだが、うまくいかなくなると、そこに何もないことが分かり、誰もが利益だと思っていたものが、泡のごとく、消えていくのだった」

 ということである。

 そんなバブルが弾けてからというもの、企業が考えることは、決まってくる。

 まず経営者が考えることとして、

「経営の抜本的な改革」

 である。

 結果行き詰ってしまうと、手は一つしかない。

「どこかの大手企業と合併すること」

 だったのだ。

 何とか銀行が崩壊せずに今も残っているというのは、

「大手同士で合併したり、大きなところが、小さなところを吸収合併することで、大きなところは、小さなところの地盤を引き継ぎ、吸収された側は、何とか、顧客に迷惑を掛けることなく、最小限の苦労で、何とか持ちこたえられるというものだ」

 ということだったのだ。

 だから、今の大手銀行は、元の大手銀行がどんどん合併するので、

「元は5つの都市銀と、地方銀行だった」

 などというのは、当たり前のことだったりするのだ。

 そして、今度は、企業側というよりも、従業員側の生き残りとして考えることは、

「売り上げが激減したのだから、後は、支出を減らすしかない」

 ということになる。

 要するに、経費節減という考え方である。

 必要経費の無駄を省いたり、残業をしないようにしたりするのは、小さなことではあるが、当たり前ということで社員全員が意識すべきことであった。

 バブルの頃には、残業など当たり前。

「企業戦士」

 などと言われ、毎日最終電車で帰るくらいのモーレツ社員が、

「いい社員だ」

 と言われた時代があった。

「二十四時間戦えますか?」

 などという宣伝文句で、スタミナドリンクが売れた時代だったのだ。

 ただ、一番の経費というのは、何と言っても、

「人件費」

 である。

 人件費削減のために、

「リストラ」

 などという、あまり聞きたくない言葉が流行った。

「肩たたき」

 といわれる、早期退職を募ったり、

「各部署で、最低2人のリストラ候補を絞る」

 などということが行われていた時代であった。

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