短編 White Snow
大町凛
1.クリスマスツリー
一目見たら帰ろうと思っていたのに、この大きなクリスマスツリーの前から離れることができなくなっていた。
このツリーの下で同じ営業部の彰に告白されたのは4年前。
好きな人ができたと別れを告げられたのが半年前。
「他に好きな子がいるのに智花と付き合えない。
智花のこと好きだから、大切だから、こんな気持ちでこれ以上一緒にいられない」
と。
そして今日。彰は彼女との交際を公にした。
営業部に書類を持ってきた彼女の下の名前をつい呼び捨てにして交際が周囲に知られていた。
私達の交際は誰にも知られることはなかった。部内の雰囲気を考慮して内緒にしていたのだけど、付き合っていた3年半の間、彰が会社で「智花」と呼ぶことは1度もなかった。
そんなとりとめのないことをぼーっと考えていたら、肩をポンと叩かれた。
驚いて顔を上げると、営業部の後輩の前野君がいた。
「大丈夫ですか?」
と心配そうに顔をのぞき込んでくる。
そうだよね、彰なわけがない。
彼女と交際宣言したその日に思い出のツリーになんて来るわけがない。
分かってる…でも、一瞬期待してしまった。
そう思うと、目の前が滲んだ。
ツリーに飾られた豆電球がぼやける。
ヤバい!
泣いてしまう!
慌てて下を向いたが、一度出てきてしまった涙を止めることができなかった。
「倖さん」
名前を呼ばれ、急に目の前が暗くなった。
頬にふんわりとしたダウンコートの柔らかさが押し付けられる。
背中に大きな掌の感触が伝わる。
もう片方の掌が後頭部を包み、温もりを感じた。
え…。抱き締められて…る?
「冷たい。倖さん、めちゃくちゃ冷たいよ。ちょっとごめんね」
謝った前野君は背中から回していた手を放し、少し私から離れた。
前野君は、彼のダウンコートのファスナーをさっと下までおろし、私の両手首を掴む。そのまま自分の背中に引き寄せ、スーツとコートの間に私の手を引っ張り混む。そして、広げられたコートごと、抱き締められた。
一瞬で、私は前野君のコートの中にいる。
前野君のスーツごしに彼の体温が、両手に頬に伝わる。
「うわあ、冷えまくってるじゃん」
「ちょっ、あのっ、前野君」
「俺、こんなに冷たくなった倖さんを、ほおって帰れませんよ。俺、温めますから。大人しくこのまま泣いてください」
大きな掌で背中を擦られる。
「泣いてくださいって。そこは泣き止んでじゃないの?」
「泣きたいときは泣けばいい。けど、このままじゃ風邪ひくよ」
ごしごしと背中を擦ってくる。
「大丈夫だよ、泣いてないから」
「は?めっちゃ泣いてたじゃん」
「いや。もう泣き止んだ」
少しだけ体を離してのぞき込まれる。
「あ。本当だ」
もう一度抱きしめて、背中をごしごしされる。
「泣いてないって分かったよね?」
「はい」
「えっと、離してもらえるかな?」
「もう少ししたら離します」
ずっと背中を擦りながら、
「暖かいですか?」
「…うん」
「ほら、手、しっかり背中に回してください」
「いやいや、冷たいから」
「冷たいから回すんですよ、ほら」
「うー」
「照れない。俺だって恥ずかしいんです。温まるまでだから。ほら」
「うっ…はい」
そっと背中に手を置く。
頬が胸に押し付けられる。
…温かい…。
目を閉じると、鼓膜から前野君の心臓の音が聞こえた。
背中に回した掌から熱が伝わる。
閉じた目から再び涙が溢れてくる。
「ごめんね…少し…」
少し、泣かせて…。
***
「ごめん。泣きすぎた」
私の涙と流れた化粧品で汚れたジャケットをハンカチで拭きながら謝る。
「気にしなくてもいいですよ。どうせ安物です」
「前野君、いい人だね」
「よく言われます」
「壺とか買わないんだよ?」
「は?」
「いい人過ぎて騙されそう」
「買わないし。それにそんなにいい人でもないですよ」
「そうかな?」
「そうですよ」
ちゅっ。
なんの前触れもなく左目の横にキスされた。
「!?」
驚く私に、
「これ、胸を貸したお礼ってことで」
私はボッと顔が熱くなる。
そんな私を横目に、前野君はベンチから立ち上がってコートのファスナーを上げ、
「ね。壺買わないタイプでしょ?」
にやっとちょっと悪い顔をした。
「さ、帰りましょう。家、どこですか?」
一緒にタクシーに乗って家まで送ってもらった。
途中で、前野君が「なんかあったら連絡してください」と連絡先を交換させられた。
「なんか、かぁ…前野君ならどんな時に連絡する?」
「そうだなー。例えばですけどね。
自動ドアの前で立ち止まって開くのを待ったら押すドアだったとか。
1階に降りようと思ってエレベーターに乗ったら上行きで、用もないフロアに降りて一周するはめにあうとか、かな」
「前野君、まさかの天然?」
営業部期待の星なのにと思うとおかしくて笑った。
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