第36話:『二人』の朝食

『スパイさんの晩ごはん。』

第三章:ツーク・ツワンクの老人たち。

第八話:『二人』の朝食


あらすじ:マートンが悪い。

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チチチと鳴く小鳥の声が煩わしくて、私は軽いキルトケットを頭まで引き上げた。


だか、キルトケットは薄く、すべてを遮ることはできない。酸味のあるスープの香りにトントンと手際の良い包丁の音。一人暮らしではまず聞こえない音が聞こえてくる。


ガンガンと頭は痛かったが、重たい瞼を抉じ開けると、そこは床の上。いや、たぶん、眼の前にそびえるベッドに寝たものの寝苦しさから落ちてしまったのだろう。それにしても、見覚えの無い絨毯だ。


ぼんやりと部屋を見渡すと、清潔な部屋の壁にはドライフラワーが飾られていて、パンの香りの中にうっすらと花の匂いが混じっている。小さなチェストにはかわいらしいぬいぐるみ、一人用の狭いベッドは花柄で、開け放たれた窓にはレースのカーテンが揺れていた。どう考えても私の部屋には見えない。私にこんな女性のような趣味はない。


「あら、起きたのね。」


寝ぼけ眼を擦って二度見をしていると、カウンターキッチンの奥からクエイルの声が顔を覗かせた。


「ここは?」


クエイルがいるからと言って、ここは絶対にオックスが経営している『千鳥足の牡牛亭』の一室ではない。あの部屋はかび臭く、ドライフラワーなどと洒落た物は置いていない。置いていたら真っ先にかびの餌になる。


なので、おのずと答えは導かれるが尋ねずにはいられなかった。だが、クエイルは整った顔を少女のように頬を膨らませる。


「覚えてないなんて酷いわ。」


よよよとおどけるクエイルの顔には昨晩のような棘は無い。それどころか、瞳の奥にはイタズラを仕掛ける少女のような微笑みが見て取れた。いったい一晩で何があったのか。


昨日の晩は眦を吊り上げたクエイルに説教されながら酒を呷っていたのは覚えている。


途中から話は他の男への不満に変わっていたが、一言口を挟めば自分に何倍にもなって帰って来る。なので黙って杯を空けていたら、哀れみの目のウドン屋の店主が無言で酒を注いでくれた。おかげで久しぶりに二日酔いだが、店を出た記憶は無い。記憶を無くすなんて本当に久しぶりだ。


「ご高説は覚えている。すまない。」


「昨日も言ったでしょ。私はそれなりに楽しくやっているわ。」


あまり楽しい話は無かったように記憶しているのだが、クエイルは笑いながら同じ話をしてくれた。


相手を選べないからと言って、選ばないわけでは無いそうだ。


人間に得手不得手があるように、相性の悪い人間とは何をやっても上手くいかない。クエイルは自分で選んでやっていると笑う。本当か嘘かは知らないが。


だが、選択肢は少ないだろう。


仕事を初めた若い男よりも、年を重ねた男の方がより多くの情報を持っている。真面目な人間は口が固いので、緩そうな人間の方が選ばれやすい。どの道、花街に来るような男だ。丁寧なぬか漬けを作る彼女の眼鏡にかなう男がいる可能性は低い。


何より、楽しくやっているのなら、あんなに不満が爆発しないだろう。


家族に守られた『うずらの寝床屋』で、接客が苦手だと奥に籠もっていたクというクエイル。彼女には、どれだけの苦労があったのだろう。きっと、花街の店の扉をくぐるだけでも相当な勇気が必要だったはずだ。


「あなたが起きたなら、卵を割るわ。その間に、もうちょっとマシな顔にしてくれる?」


「ああ。」


クエイルに促されて化粧台をみると、髪はぼさぼさになっていてクマの浮かんだ疲れた顔が映った。私は水の魔法を頭からかぶり、手櫛でぐしゃぐしゃと髪を押さえる。


胃のムカつきは治癒の魔法で静まったが頭痛は残る。神様から賜ったという魔法も二日酔いには効果が薄い。それは、大酒飲みの神を懲らしめるためだと伝わるが、不便なものだ。


じゅうじゅうとベーコンの焼ける音。卵がじゅんっと落ちる音が聞こえる。


「手伝うか?」


「座ってて。」


「すまない。」


一人暮らしの女の部屋は落ち着かず、手持ち無沙汰に借りていたキルトケットに浄化の魔法をかけ疊んでいると、二枚の皿を手にしたクエイルが戻ってきた。小さなテーブルの淡い緑の布を地にピンクの花があしらったテーブルクロスに、二人分の朝食を並べていく。


ボウルに入れたサラダと焼いたパンにベーコンエッグ。黄味の鮮やかなサニーサイドアップを彩る黒胡椒が見た目にも食欲をそそる。


「おまたせ〜。」


最後にトマトを煮込んだスープ入れたカップを手に持ってクエイルは席に着く。普段はひとりで使うテーブルなのだろう。所狭しと朝食を乗せた丸いテーブルは小さく、向かい合わせに二人で座ると、彼女の顔が近くにある。


「すまない。」


朝からこれだけの朝食を用意するのも大変だっただろう。なのに、彼女はわざわざ私が起きるのを待って卵を割ってくれた。おかげで眼の前の朝食は温かい。


理解は追いついていなかったが、迷惑をかけてばかりだ。だから、謝罪をしたのだが、当のクエイルはせっかく用意した皿を取り上げて口を尖らせた。


「謝罪なんて聞きたくないわ。」


「悪かった。」


「もう、謝らないでって言ったでしょ!」


何が彼女の気に触ったのか解らないが、気分を害したのだけは解る。だが、どう考えても謝罪の言葉しか頭に浮かばなかったので、率直にどのような言葉を返せば良いのか聞くと、「いただきますとか、美味しそうだとか他にあるでしょ」と笑いながら私の前に皿を戻した。


「…美味そうだ。」


「よろしい!」


この街ではどこにでもある普通の朝食。たが、食糧不足の故郷では食べられない朝食。それでいて、トマトのスープやサラダの酸味が二日酔いに効く。


「うまかった。」


すべてを平らげて手を合わせると、クエイルは目を丸くした。


「酷い顔をしてた割に、よく食べられたわね。」


一般の朝食からすると量が多いとは思う。これだけの朝食を働きに出る前に作るのは大変で、食堂や屋台を利用するにしても、もう少し少ない。私もひどい時はパン一枚で済ませるくらいだ。。


「用意したのは君だろう?」


「男の人の食べる量って自身が無くて。ほら、うちの弟って少食でしょ。」


クエイルの弟、『うずらの寝床屋』で私の相手をしていた男を思い浮かべる。線が細く、あまり多くの量を食べる男には見えなかったがしかし、彼とはただの店主と客の関係で一緒に食事するほど仲がいいわけでもない。なので、「ほら」と言われても心当たりはない。


「弟の食事を作っていたのか?」


「うちは老舗とはいえ小さなお店だったからね。家族みんなが働いていたから、いつの間にか食事は私が用意するようになっていたのよ。」


クエイルは遠く離れたこの地でも、漬けるくらいぬか漬けが好きで、『うずらの寝床屋』の奥でも漬けている姿を見た。


接客が苦手だったと聞き覚えがあるから、クエイルはできない部分を補うため、食事の用意をするようになったのだろう。働き者だ。


「これだけ美味ければ十分だ。キミの家族は幸せだな。」


「なんだったら、貴方も食べる?この部屋に住めば毎朝、美味しい朝食が出て来るわよ。」


クエイルは私が『ぬか漬け』を美味いと言って食べるたびに優しく微笑んでくれたが、同じ職場の同僚以上にはなれなくて、今まで恋愛の相手として見てはいなかった。それはターニップやシャロットと同じ。


「私なら勝ち負けを考えなくていいでしょ?」


確かに、私の事情を知っているクエイルなら、ターニップやシャロットのように戦争が終わったときの事を悩まずに関係を続けられる。


私達の国が勝てば、二人で帰るだけでいい。クエイルが希望して残るとしても、王宮を知っている私は必要とされるはずなので、仕事に困らない。逆に、負けて逃げ出すとしても二人。困難を分かち合える。


しかし、いくら仕事だとは言え、同居する女が他の男と笑っていると考えると、私は多分きっと、はらわたが煮えくり返るほど嫉妬するだろう。


今の私には彼女にその仕事を辞めさせる術がない。


弟の代わりにここに来ているクエイルが仕事を辞めれば、しわ寄せの行く場所は決まっている。『うずらの寝床屋』に。彼女の弟に。


私にはそうさせないだけの力は無い。


敵国のど真ん中にいる私には何もできない。


「考えておく。」


「貴方ってホント頭が固いのね。」


即決できないのは否定に等しい。お互いが都合のいいように、傷を舐め合う関係もあるだろう。だが、私にはどうしても、それができない。できるくらいなら、ターニップやシャロットの関係もこんなにも悩まなかっただろう。


今が戦争でなければ色々な選択肢があったかもしれない。クエイルもこんな遠くまで独りで来る事も無く、『うずらの寝床屋』を切り盛りして、裕福な家に嫁ぐこともできたかもしれない。そうであったなら、見た目も心も美しい彼女は、私のような男など選択肢にすら入れなかっただろう。


私がひっそりと臍を噛んでいると、小さいテーブルのを超えてクエイルの整った顔が近付き、柔らかい唇が頬に当たる。


私が目を丸くすると彼女はイタズラな少女の顔で微笑んだ。



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次回:『八つ当たりの美酒』


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