一三章 小悪魔は風呂にまで入ってくるか?

 「う~、効くぅ~」

 湯船のなかに体を沈めると一日中、働きづめだった体の全身に熱い湯が染み渡る。この刺激がたまらない。一日の疲れが溶け出し、身も心もリフレッシュできる。そんな気がする。

 「はあ~。めいっぱい働いて、風呂入って、ぐっすり寝る。ありきたりだけどやっぱり、『これぞ、人生の幸福!』って気がするよなあ」

 まことはそう言いながら熱い湯に浸したタオルをしぼり、目に乗せた。程よい暖かさがじんわりと目に伝わり、目の凝りがほぐれていく。

 これぞ、まさに至福。

 誰に遠慮することもなくただひとり、心ゆくまで快感に浸ることの出来るひとり風呂。現代人に等しく与えられた癒しの時間。しかし――。

 いまのまことにはその癒しの時間が吹き飛ぶような懸念がひとつ――。

 タオルをそっと目からはなし、そっと脱衣場の様子をうかがう。

 「……よし。来てないな」

 脱衣場では物音ひとつしてないし、曇りガラスの向こうには人影はない。その場には誰もいない。

 ほだかがまことの家に暮らすようになってからすでに数日。弟子入りそうそう、

 「師匠には女子慣れしてもらいます。まずは、一緒にお風呂に入りましょう」

 などと、爆弾発言をかましたほだかだが、さすがに実行はしていない。ここまでのところ。

 「……まあ、当たり前だよな。いくらなんでも、本気であんなことを言うはずがない。向こうはまだ一八歳。おれは二八歳。一〇代から見たら立派なオッサン。本気になんてなるわけない。からかってるだけだ。大体、うちには両親だっているんだし、結婚もしてないのにそんな真似したら大騒ぎだし……」

 湯船のなかでこまでつらつらと語ったあと、まことはひとり、溜め息をついた。

 「……いや。ガッカリしてるなよ、おれ」

 そんなことが起こるわけがない。

 それはわかっている。

 起こってもいけない。

 それもわかっている。

 しかし、やはり、心のどこかで期待してしまう。どんなに良識派ぶってみてもそれが、彼女に捨てられた二八歳独身男の悲しい本音。

 はああ~、と、まことは湯船のなかでガックリうなだれた。


 風呂から出たあと、湯上がりの一杯のために台所に向かった。居間のほうから楽しげな話し声が聞こえてくる。中心になっているのは若い女性の明るい笑い声。

 ――今日も賑やかだな。

 両親と息子ひとりの三人家族。男の方が多いうえにその男ふたりが決しておしゃべりとは言えない。むしろ、父親の誠司せいじは昔気質で口数の少ない方だし、まことも話すのは決して得意ではない。

 美咲みさきと付き合っていた頃、デート中に会話を途切れさせないためにどれだけ苦労したことか。事前にジョーク集やら、会話集やらを読んでネタを仕込み、美咲みさきの反応を見ながらとにかく次の一言、次の一言と頭のなかで必死に考え、言葉を絞り出す。その繰り返し。

 ――美咲みさきと付き合っていたい!

 と言う一心で毎度まいどつづけていた苦行。

 その反動か、家ではますます口数が少なくなった。まあ、二十歳もとっくに超えた息子にとって、親と話すことなどそもそもないのだが。

 そんなわけで小松こまつがわ家では『家族の会話』なるものは決して多くはなかった。してもせいぜい仕事の話。それもすぐに終わるので、食事中や、夜の一時に聞こえてくるのはテレビの声ばかり。それぞれがそれぞれ勝手にテレビの画面を見て、黙り込んでその場に座っている。それが当たり前だった。ところが――。

 明るく、おしゃべりなほだかが来てからというもの、すっかりかわった。テレビの音は聞こえなくなり、かわりに賑やかな話し声が聞こえてくる。居間をそっとのぞくとほだかも、父親の誠司せいじも、母親の冬菜とうなも、みんなとても楽しそうにおしゃべりに興じている。その姿があまりにも自然でしっくりくるものなのでまこととしては、この三人が本当の家族で自分こそが場違いな居候なのではないか、と思ってしまうほどだ。

 ――まあ、親父たちが楽しそうなのはいいことだよな。とくに、お袋は昔から娘を欲しがってたしな。

 『親子の団欒』を邪魔するのも悪いと思い、まことはさっさと水を飲んで自分の部屋に引っ込もうとした。がっ、

 「あ、師匠!」

 と、めざといほだかに見つかってしまった。

 「ほらほら、師匠もこっち来てくださいよ」

 「いや、おれは……」

 「来ないんなら、お父さんとお母さんから師匠の恥ずかしい昔話いっぱい、聞き出しちゃいますよお」

 それは困る!

 と言うわけで、まことはあわてて居間に入り、家族の団欒に加わった。

 冬菜とうなお手製の野菜チップスと玄米茶を並べておしゃべりタイム。ほだかはとにかくよくしゃべる。自分のことをなんでも話すし、小松こまつがわ家のことをなんでも知りたがった。話がしばしばまことの幼少期の黒歴史にふれそうになるので『これはいかん、監視していなければ……!』という気にさせられるのだが。

 ほだかのおしゃべりを受けて、冬菜とうなも楽しそうによく話す。誠司せいじでさえ、普段の口数の少なさが嘘のように大笑いしながら話に加わっている。

 「やっぱり、女の子はいいわあ。あたし、娘とこんな話するのがずっと夢だったのよねえ」

 「わっはっは、まったくだな。やはり、娘がいると場が華やぐ。むさ苦しい息子とは大違いだ!」

 ――悪かったな!

 まこととしては胸のなかで叫ばずにいられないことを口にして、盛大に笑う誠司せいじであった。

 ――だけど、考えてみると、こうして家族で話をしたことなんてなかったよなあ。

 子どもの頃は両親のほうが忙しくて一家団欒どころではなかったし、その時期を過ぎると今度はまことのほうが『親と話すことなんてないよ』という年頃になっていた。そのせいで、とくに親の会話をするようなきっかけもなく、無言でテレビを見ながら食卓を囲む……というのが当たり前になっていた。

 当たり前すぎて、気にもならなかった。しかし、そのまことももう二八歳。三〇近い。この歳になってみると、

 ――親とこんなふうに付き合うのも悪くないかな。

 という気がしなくもない。

 ――そう言えば、美咲みさき……さんは、うちの親とこんなふうに話したことはなかったよなあ。

 まるで、実の娘のように楽しげに自分の両親と話すほだかの姿を見て、そんなことを思った。美咲みさきとは結婚するつもりだった。結婚できるものだと思っていた。だから当然、親に会わせたことは何度かある。

 しかし、美咲みさきはいつだってお高くとまり、まことの両親などまともに相手にしなかった。両親も両親で遠慮があったのか、自分たちから話しかけようとはしなかった。おかげで、引き合わせてみても気まずい沈黙が流れるばかり。そんなことを何度か繰り返して両者を会わせるのもやめてしまった。当然、

 ――結婚後は別居することになるんだろうなあ。

 暗黙の了承のごとくに感じていた。

 結局、結婚どころか婚約すらしないままに捨てられたので、こうしてめでたく(?)自宅暮らしをつづけているわけだが。

 ――きっと、美咲みさきさんは、うちの両親のことも小馬鹿にしてたんだろうなあ。

 両親のことも?

 その思いに――。

 まことはあることに気がついた。

 ――両親のことも? だったら、おれは? おれも小馬鹿にされていたのか?

 なにをいまさら。

 わかりきっていたことではないか。

 『おれも』ではない。

 『おれこそ』小馬鹿にされていたのだ。

 『貧乏くさい田舎の農家』とか思われ、見下されていた。だからこそ、あれやこれやと貢ぎ物を求められ、便利に使われていた。『良い相手』が見つかったとたん、すぐに捨てられたのだ。

 そんなことはわかっていた。

 付き合いはじめた最初の頃から気付いていたことだ。

 ただ『美咲みさきと付き合っていたい』という一心でその現実から目を背け、愛しあっているカップルのつもりでいただけだ。

 ――情けなかったな、本当に。まともに相手にされていないのに捨てられるのが怖くてすがりついていたんだからな。

 そのあげくに、実際に捨てられたのだからもう言葉もない。

 「……師匠、師匠。師匠ったら!」

 ほだかの声がした。どうやら、さっきから呼びかけていたらしい。

 「なんだじゃないですよ。聞いてなかったんですか? ご両親にお礼、言ったことはあるんですかって話ですよ」

 「お、お礼……?」

 思ってもいなかった言葉にまことの顔が赤くなる。

 両親がそろって笑い飛ばした。

 「むだむだ。そんな気の利いた息子じゃないわよ」

 「そうだ、そうだ。とにかく、無口で、気の利いたことひとつ言えないやつだからなあ」

 「あんたに似たんだろうが!」

 まことの叫びで――。

 その夜の一家団欒はお開きになったのだった。


 農家の朝は早い。

 とくに、小松こまつがわ家の場合『日差しを浴びる前のおいしい野菜をお客さまに』というのがモットーなので、とくに早い。早朝と言うより、まだ深夜と言った方がいいような時間に起き出し、仕事をはじめる。そのためには当然、夜も早くに寝なくてはならない。夜更かししている暇などない。

 と言うわけで、まことは早く睡眠をとるべく自分の部屋に向かった。

 その隣には相変わらず距離感が無駄に近いほだかがピッタリくっついて歩いてくる。ほだかの部屋がまことの部屋の隣なので方向が同じ、と言うだけのことである。決して、断じて、きっと、多分、部屋のなかにまで同行してくる……などという展開にはならないはずだ。

 ――ならないよな、うん。

 心配しているのか、ガッカリしているのか、自分でもよくわからない感想をもつまことの隣で、ほだかはとにかく楽しそう。無邪気な笑みで言ってのける。

 「お父さんも、お母さんも、いい人ですよねえ。嬉しくなっちゃいます」

 「……いつも、楽しそうだよな」

 「はい、楽しいです!」

 と、ほだかは間髪入れずに断言する。

 「お父さんたちはあたしのことも跡継ぎとして認めてくれてますからね。はじめて、受け継ぐものができたんです。歴史をもっていなかったあたしにも受け継ぐべき歴史が出来た。そのことがすごく嬉しいんです」

 「そ、そうか……」

 まことはちょっとほろりとなった。そういう言い方をされるとやはり、ほだされてしまう。

 「ま、まあ、確かに、親父たちもすごく気に入ってるしな。もう家族と言ってもいいようなもんだし……」

 「『家族と言っても』ですか」

 ほだかは口元に手を当てると、ニンマリ笑ってまことを見上げた。

 「なんなら、いまから本当の家族になっちゃいます?」

 「なんだ、いきなり⁉」

 「あたし、IDU入れてるから、あわててコンドーム買いに行かなくてもだいじょうぶですよ」

 「IDU? なんだ、それ?」

 聞き慣れない言葉に『コンドーム』の一言のほうは頭に入らず、まことは思わず尋ねていた。

 「子宮内避妊具ですよ。ポリエチレン製の器具に銅のコイルを巻いたもので、これを子宮内に入れておくと、銅から発生するイオンが精子が卵子にたどり着くのを防ぐんです。一度、入れれば一〇年以上もつし、副作用もほとんどないという優れものですよ」

 「へ、へえ、そんな避妊具があるのか。知らなかった」

 避妊具と言えば、コンドームとピルぐらいしか知らないまことである。思わず感心してしまった。

 「……って、ちがう! そうじゃない! なんでいきなりそんな話になるんだ⁉」

 「あまの育館いくだてでは、初潮を迎えた女子は全員、IDUを入れることになってるんです」

 「そんなに早く⁉」

 いくらなんでも避妊には早すぎるだろう。

 まことはそう思ったが、ほだかの言葉は思った以上に切実なものだった。

 ほだかは口もとに指を当てながら説明した。

 「けっこう、深刻な話なんですよ。あまの育館いくだてに保護される子のなかには親から虐待受けてた子とかも普通にいますからね。そういう子は『愛されたい』っていう一心で体を開きやすくって。

 早すぎる妊娠をしがちなんです。だからって、そんな子たちだけに避妊させておいたら差別問題だし。だから、あまの育館いくだてでは初潮を迎えた女子は全員、IDUを入れることに決めたんです」

 それに、女子がレイプされる危険は年齢に関係なくいつでもありますからね。

 ほだかはそう付け加えた。

 「そ、そうか……」

 思わぬ深刻な話にまことはつい、ほだかから目をそらしてしまった。

 『親ガチャ』なんていう言葉は好きではないが、『どんな親のもとに生まれるか』は、確かに人生を左右する大問題にちがいない。

 ――いたって普通の親のもとに生まれることができて良かった。

 と、我が身の幸運にしみじみ感謝するまことだった。が――。

 そこで『はっ!』と気付いた。

 「いや、ちがう! だから、どうして、この場で避妊具の話が出てくるんだ⁉」

 「だからあ。あたしには、いつ手を出してもだいじょうぶだって話で」

 「お前に手なんて出すか!」

 「そんなにムキになることないじゃないですか。お互い、独身の成人なんです。なんにも悪いことないですよ」

 「お前はまだ一八歳だろ!」

 「選挙権もある立派な成人です」

 「だとしても! お前にはまだ早すぎる」

 まことは真っ赤になって叫ぶ。

 ほだかはそんなまことを見て『はっ!』とばかりに口元に手を当てる。

 「その潔癖振り。師匠、やっぱり童貞……」

 「ちが~う!」

 まことの叫びが古い日本家屋にこだまする。

 その叫びを聞いて――。

 両親がそろって笑い転げていることを、まことは知らない。

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