新たな生活編

第1話 慈愛に溢れたお嬢様

 悪いことは立て続けに起こる。

 それは多分、真理だ。

 一度道を踏み外せば、人間は落ちるところまで落ちる。


 当然、全員が全員そうじゃない。

 努力で這い上がるやつもいる。長い時間を経て乗り越えるやつもいる。ちょっとばかしの運で一発逆転できるやつだっているかもしれない。


 でも俺は違った。

 努力する時間も逆転する運も無かった。

 神様が本当に存在するなら、俺はその神様に捨てられたんだ。



「うーん、無いな」


 許嫁に別れを告げられ、流れるように家を追い出された俺は、早くも路頭に迷っていた。

 鞄の中。ポケットの中。来た道を少し戻ってもみたけど、やっぱり見つからない。

 家を失ってはや3日。俺は財布をどこかへ落としたらしく、全財産を失っていた。


 既に勘当からの迫害と不幸のオンパレードだというのに。神様はそれだけでは許さず、とびっきりのサプライズイベントを用意してくれた。余計なことを。


 どこに忘れてきたのか、ある程度予測はつく。

 今日財布を取り出したのは、学食と学校帰りに寄ったファミレスだけだ。そのどちらかにあるのは間違いない。

 間違いないが、果たしてその財布を見つけた人物が律儀に警察に届けているかは疑問だ。

 財布の中に現金で十万。一緒に入っているカードから下ろせる額で四十万。拾った人間の心を揺るがすには充分な額だ。


 ファミレスに戻ったところですぐに回収できるとは限らない。そもそもファミレスから今日泊まる予定だったこの漫画喫茶まで二駅もある。節約のために歩いてきたこの道をまた歩いて戻ると考えただけで億劫だ。

 一緒に入っていた学生証から学校に届いている可能性もあるが、この時間では既に閉まっているだろう。どちらにせよ一時間近く歩かなければならないのは変わらない。


 とはいえ、戻らないという選択肢もない。

 このままじゃ俺は野宿だ。高校生が公園で寝ている、なんて補導待ったなし。むしろ警察から来てくれるなら、相談できる分ありなのかもしれない。


 そんな考えを巡らせながら、俺はその場にへたり込んだ。

 少し疲れた。どうしてここまで不幸な目に遭わなければならないのか。俺が一体何をしたと言うんだ。誰も悲しませまいと努力してきたはずなのに。


 ぽつりぽつりと雨が降ってきた。

 梅雨の時期というのは、こうして天気がコロコロと変わるから嫌いだ。おかげで全身が濡れていくのをただ黙って待っていることしかできない。

 アスファルトが濡れていく匂いが鼻腔を突き抜ける。じんわりと体が冷えていく。


 こんな状況でも動揺したり悲しみに打ちひしがれたりしないのは、親父の教育の賜物だろうか。冷静な思考だけが働いてくれる。

 まあ、そのせいで紫乃には「弥太郎君って感情がない機械みたいだよね」なんて言われるんだけど。俺でも悲しむことはあるんだぞ。


 ……ああ、寒いなぁ。ここまでの仕打ちを受けるなんて、前世の俺はとんだ大罪人だったに違いない。

 だとしても、少しくらい救いがあってもいいじゃないか。


 紫乃を悲しませまいと約束を守り続けてきた。父さんに恥をかかせまいと言いつけには従い続けてきた。次男である遥太郎が見限られないようにと何度もフォローしてきた。町の連中にはいつも親切に接してきた。


 一体何がいけなかったんだろうな。紫乃との約束なんて守らなければこうはならなかったのか。

 馬鹿な話だ。幼い頃の約束を律儀に守った結果、いとも簡単に捨てられてしまったのだから。

 誰も信じなければ、こんなことにはならなかったのかもしれないな。

 そう後悔したところで今更遅いんだけど。


(……ああ、寒いなぁ)


 一度座り込むとどっと力が抜けていく。大丈夫だと自分に言い聞かせていたが、どうやら身体的にも精神的にも限界を迎えていたらしい。

 俺、死ぬのかな。もしも来世で人として生まれるのなら、今度は何のしがらみもなく自由に生きたい。

 そんな淡い願いを脳裏に浮かべながら、俺はゆっくりと目を閉じた。



※※



「────♪」


 心地好い音色が聞こえる。ご機嫌な子供のような明るく軽快な鼻歌だ。

 先程まで冷たかった体は布団に包まれたようにポカポカと温かい。

 もしかして天使が迎えに来たのだろうか。もう疲れたよパト○ッシュなのだろうか。


「ふふっ。可愛い寝顔ですわね。ずっと見ていられますわ」


 と思いきや、今度は女性の声が聞こえてきた。優しくて落ち着く声色だ。

 もしかして俺はとっくに死んで、生まれ変わったのかもしれない。もしかすると、この人が新しい母さんだろうか。

 この人生では自由に、気楽に生きていきたいものだ。

 赤ん坊でもこうもはっきりと意識があるのは面白い。試しに泣き声でもあげてみようか。

 軽く喉を鳴らして調子を整える。うん、悪くない。良い泣き声が出そうだ。

 ……いざやろうとすると恥ずかしいものだな。

 まあでも? 今の俺は赤ちゃんだし? 赤ちゃんの泣き声を止められる人間が居るだろうか、いや居ない。

 それでは、僭越ながら俺の一世一代の泣き声をご披露しましょうかね!


「お、おぎゃあ!」


 ……ん?

 やけに低い声が頭に直接響いてくるようだった。

 それはまるで、前世の俺が自分で発しているかのような──


「って生きてんのか」


 目を開くと、そこはどうやらベッドの上のようだった。

 ふんわりと形を変えて体を包み込むような気持ち良さだ。相当良いベッドなのだろう。真っ白な天蓋のおまけ付きだ。

 雨の中行き場をなくして冷える体に死を悟ったが、俺はしぶとくも生き延びたようだ。

 よくよく考えれば、疲労はあったものの死ぬほどの窮地ではなかった。あまりに世知辛い現実に弱ってしまっていたのかもしれない。

 それにしても、ここはどこなのだろうか。見覚えのない場所だ。親切な誰かが俺を拾ってくれたのか?


「誰かが……?」

「あら、元気な赤ちゃんのお目覚めですわね」


 嫌な予感が脳内を駆け巡った矢先、先程聞こえていた幻聴がはっきりと鼓膜を打った。

 目を見開きカクカクとした動きで声のした方を見遣る。

 最初に目に入ったのは、綺麗なストロベリーブロンドの髪だった。

 大きな瞳に長いまつ毛。スッキリとした鼻筋は欧州人の雰囲気を感じさせる。それでいてにこりと笑う様子は幼い子供のようだった。


「おはようございます、弥太郎君」


 彼女は俺のことを知っていた。そして、俺も彼女のことを知っている。


雲母深愛きららみあ……?」

「ええ。紛れもなく雲母深愛ですわよ」

「何でお前がここに」

「そう言われましても、ここはわたくしの部屋ですわ。可愛いお部屋でしょう?」


 そう言ってあどけない笑顔を向ける雲母。

 確かに言われてみるとここは俺の部屋じゃない。白とピンクを基調としたファンシーな女の子らしい部屋だ。

 それにしても広い。神宮家も和風の大きな屋敷だったが、雲母の部屋はうちの客間くらいの広さはある。

 流石は神宮家と肩を並べる大手企業の令嬢。部屋ひとつ取っても規格外だ。


「まあ、良い部屋だな。ベッドで寝るのは久しぶりだが、かなり寝心地も良かった」

「ふふっ。弥太郎君にそう言っていただけると照れてしまいますわね」

「それで、俺は何故雲母の部屋に居るんだ?」


 雲母の独特な雰囲気に流されてしまったが、肝心なのはそこだ。


「あら、覚えてませんの?」

「覚えてないかと訊かれてもな……」


 俺は昨日、許嫁だった紫乃に別れを告げられた。

 そうしてあれよあれよと家を追い出され、生まれて今まで住んでいた町の住人に見放され、挙句の果てには全財産を失って路頭に迷った。

 どこかへ行く宛てもなかった俺は力尽きて路上で雨に打たれたまま眠ってしまった。

 そして気がつくとこの状況だ。


「すまん。力尽きたところまでしか覚えていない」


 そう素直に伝えると、雲母は申し訳なさそうに眉根を寄せる。


「そうですわよね。私が弥太郎君を見つけた時には憔悴しきってましたもの。あのまま放っておくと風邪をひいてしまう……最悪死んでしまうのでは!と思い、急ぎこちらへお運びさせていただきましたわ」

「あの程度で死にやしないが……まあ、ありがとな」


 そう素直に感謝の気持ちを伝えると、雲母は照れくさそうに微笑む。

 たった一日でいろんなことが起こりすぎて、こうして人の優しさに触れるのは随分久しく感じてしまう。

 捨てる神あれば拾う神もある、か。雲母はまさに聖母だな。本当に感謝してもしきれない。


「体の調子はいかがですの?」

「ああ、お陰様で。特に不調はなさそうだ」

「それは良かったですわ。夜通し看病させていただいた甲斐がありますわね」


 助けてくれた上に看病まで……これは生涯雲母に頭が上がらないな。


「悪い、そこまでしてくれたのか」

「謝ることではありませんわ。淑女たるもの困っている人を助けるのは当然のことですもの。それに、弥太郎君の可愛い寝顔を拝謁させていただきましたし」


 それは果たして俺が受けた恩と釣り合っているのだろうか。

 そう首を傾げるが、雲母は気にした様子もなくにこにこと嬉しそうだ。


(……まあ、雲母が満足そうならいいか)


 この恩はきちんと返さないといけないな。

 そう思い至ったところで、ふと気になる点が頭を過る。


「ん? ずっと看病してたのか?」

「ええ、そうですわよ?」

「つまり、俺が起きた時もここにいたと?」

「当然ですわ。可愛い産声も聞かせていただきましたわ」


 恍惚な表情で頬を赤らめる雲母。目覚めるまでの俺の妄想。嫌に低い俺の産声。


(や、やっちまったあああ!)


 同級生の前で赤ちゃんプレイ? 嘘だろ。この歳で?

 夢ならばどれほど良かったでしょうとはまさに今の状況。叶うならもう一度夢の世界に行きたい。なんならそのまま目覚めたくない。

 終わった。せっかく助けてもらったが、俺はもう生きていけない。鬱だ、死のう。


「とにかく無事でよかったですわ」

「もうダメだ……殺してくれ……」

「大丈夫ではなかったですの!?」

「コロシテ…コロシテ……」

「弥太郎君が自我を失いつつあるバケモノみたいになってしまいましたわ!?」


 全てを失った俺は、とうとう人としての尊厳までも失ってしまった。

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