37話 宴の後

しばらくして興奮気味の龍一と、苦笑い気味の正臣が風呂から戻って来た。


「お姉様!凄いんだよ。

二階堂様、腹筋が割れてるんだ。

二の腕なんてカチカチなんだよ。

僕も鍛えればあんな風になれるかなぁ。」


興奮冷めやらぬように話し始める龍一を、

香世はなだめながら聞いている。


「俺も久しぶりに楽しい風呂に入った。」

笑いながら正臣が言う。


「二階堂様、ありがとうございました。」

香世は頭を下げてお礼を言って、冷たい麦茶を正臣に差し出す。


「ありがとう。」

麦茶を受け取り正臣はごくんと一息で飲み干す。


「香世もサッと浴びて来るか?

風呂に行く時は言ってくれ俺が場所を教える。」


「はい。ありがとうございます。

龍一を寝かせたら、すぐに戻って来ますね。」


香世は一旦、居間から出て龍一と姉を連れて客間へと向かう。


「香世ちゃん、龍ちゃんは私が寝かすから、

早く二階堂様の所へ行ってあげて。」

姉から思わぬ事を言われて、香世は目を見開く。


「お姉様が龍ちゃんを?」

香世が覚えている姉は決してそんな事をしなかった。

龍一が夜泣きで大変な時も、まったく起きた事も無いし、何処か浮世離れした人だと思っていたから、龍一を寝かしつける姿は想像出来ない。


「あら、そんなに驚かなくても大丈夫よ。

香世ちゃんが居なくなってから私が寝かしていたのよ。」

姉から寝巻きの浴衣を渡され背中を押される。


「ありがとう。じゃあ、龍ちゃんの事よろしくね。」

香世は急いで居間に戻る。


「お待たせしました。」

居間の襖を開けると、新聞を読んでいた正臣が立ち上がり、行灯を持って近付いて来てくれる。


そう言えば…

今日はみんなが居たから、2人きりで向かい合う事が余り無かった事に気付く。


「頭痛はもう大丈夫か?」


正臣が香世の頬をそっと撫ぜるから、ビクッとして心臓が躍る。


今の香世にとって、男の人に触れられる事はもちろん、話す事だってままならないのだから…


病室でのマッサージでさえ何度されても慣れる事無く、ドキドキしてしまった。


これはいつか慣れるものなのだろうか…。


香世は正臣に手を引かれて薄暗い廊下を行く。


「足元気を付けろ。」

土間に降りる上がり框の所で、正臣は立ち止まり注意深く香世を見守る。


「大丈夫です。」

と香世も注意しながら段差を降りて、草履を履く。


「風呂は余り長湯しない方が良い。

俺は近くで待ってるから気を付けて入ってくれ。」

退院してから1カ月は、

転んだり頭をぶつける事があると命取りになるからと、医者から強く気を付けるようにと

注意されている。


「はい。」

香世は安心させるようニコッと正臣に笑いかけ、風呂場に入って行く。


正臣は風呂場の前で佇みながら、ずっとここに居るのもどうなのかと思いながら、怖くて離れる事も出来ない。


そう思うと、走馬灯のようにあの事件の日

、犯人から突き飛ばされた香世が脳裏に浮かぶ……。


香世を失うかもと思った瞬間、血の気が引いてまるで世の中が色褪せたように見えた。


もう2度あのような思いはしたく無い。


風呂場から聞こえる微かな湯の音を聞き、

ホッとしながら我に戻る。


香世にしたら入院中、入浴もままならなかったのだから、久しぶりに浸かるお湯は何よりも気持ちが良いものだろう。


微かに香世の鼻歌が聞こえて来て微笑ましく思う。


龍一もさっき風呂に一緒に入った時に、

歌っていた歌と同じだったのがとても可愛らしく、兄妹愛を感じずにはいられなかった。


正臣の心も少しほぐれ、いつものように少し離れた土間の段差に、戻り腰掛けて待つ事にする。


香世の事になると度を越して、心配や不安が

押し寄せて来るのは、自分でも自覚はしている。


だからといって束縛するのは、香世にとってはただの有難迷惑なのかもしれないから、

抑えなければと思うのだが…。


少し経った頃、香世が風呂場から顔を出す。


濡れ髪を横にひとまとめに縛り浴衣姿の香世に、正臣は衝動的に駆け寄り抱きしめてしまう。


突然抱きしめられた香世は驚き、身を固め正臣の腕の中で静かにしているしか術は無かった。


「ま、正臣様?どう、されたのですか?」


香世は抱きすくめられながら、心臓がどうにかなってしまいそうだわ、と思うほど脈打つ鼓動とは別の、トクントクンと奏でる規則正しい鼓動を聞く。


「すまない。少し臆病になった。」

正臣はハーっと深いため息を吐く。


腕の力が緩められ、正臣を仰ぎ見る。

「正臣様ほどの方でも、そう思う事があるんですね…。」

率直な感想をポツンと述べる。


「俺はいつだって香世の事になると臆病で、心配で不安にもなる。」


軍では中尉と呼ばれるほどに出世したが、世間で噂されるような、屈強で鋼の心臓など持ち合わせてい無い、と正臣自身は自覚している。


香世の生乾きの髪を撫でながら、不思議そうに見上げる香世の、額にそっと口付けを落とす。


たちまち真っ赤になって俯いてしまう。


その可愛いつむじにも口付けをして、宥めるように髪を撫でる。


「いつまでもこうしていたいが埒が明かないな。そろそろ戻るか。」


苦笑いしながら正臣は、行きと同じように香世の手を握り、薄暗い廊下を歩き出す。


客間の前まで導かれて、


「香世の部屋は本来2階にあるのだが、

今夜は兄妹一緒の方が安心出来るだろう。」

と、正臣に言われ名残惜しいが、おやすみなさいと言葉を交わし客間に入る。


姉と龍一は既に寝ていて、香世はそっと自分の為に敷かれた布団に入り、


ああ、私、どうしようも無く二階堂様が好きだわ、と香世は自覚する。


失ってしまった記憶が2度と取り戻せなくても、今の自分自身にとっても正臣は大切で

大事な人だと実感する。


どうしよう、明日実家に帰ったら離れ離れになってしまう。


そう思うと龍一と離れるよりも、大きな不安が押し寄せてくる。


出来ればずっと正臣の側に居たいと香世は思った。

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