第20話 命の恩人

朝起きて居間に行けば既に香世が起きていた。

「昨夜は寝てしまい申し訳ありませんでした。」

と、また頭を下げてくる。


「気にしなくて良い。俺を待たずに寝ていてくれ。」

正臣は素っ気なく言って新聞に目を落とす。


朝食が運ばれいつものように向かい合って食べる。

2人共特に言葉を交わす事なく食べ進める。


正臣が気になるのは香世の心…ばかり。


「夕飯は何を食べた?」

元気がないように見える彼女の姿に耐え切れず正臣が話しかける。


「昨日は…白身魚を頂きました。美味しかったです。」

ホッとしたように微笑みを浮かべる彼女を

チラリと見て、俺自身もホッとする。


「そうか…。」

言葉をポツリと交わしながら、

昨夜の涙の跡については触れる事も聞く事も出来ない。

そんな臆病な自分にため息が出る。


「体調はどうなんだ?

女中の態度は改善したか?」


「寝不足だっただけだと思われます。

もう大丈夫です。


それに…女中の方にとっては私がここにいる事自体、不快な思いを抱かれていても仕方がないと思っています。

時間をかけて仲良くなれたらと思います。」

微笑みを浮かべ香世が言う。


正臣は思う。

彼女は強い…何よりも心が強く、例え自分が傷付けられた相手だとしても、それを許し理解しようとする包容力がある。


「あっ、昨日のプディングを持って来ます。」

思い出したかのように香世は立ち上がり、

嬉しそうに台所へと取りに行く。


「お待たせしました。」 


戻って来た香世が、

小瓶に入ったプディングをお皿に乗せて差し出してくるから、正臣は何気なく右手を出して受け取ろうとする。


が、香世は動きを止め目を丸くして正臣を見入っている。


「どうかしたか?」


正臣がそう聞くと、

ハッとしたようにプディングを手渡し、一歩下がって正座して手を畳について頭を下げて来る。


「なんだ?」

正臣は怪訝な顔をして香世を見る。


「あの…正臣様は、もしかして…3年前の通り魔事件で…私と姉を…助けてくださった方ですか?」


溢れ出しそうな感情を抑えながら、香世は一生懸命に言う。


「ああ、思い出したのか。

…そうだ。あの時香世はまだおさげ髪の女学生だったな。」

目を細めて香世を見る。


「その節は…

本当にありがとうございました。

貴方が助けてくださらなかったら、私も姉も、今、生きていなかったと思います。」


深くお辞儀をしながら、香世は溢れ出る涙を止める事が出来ず、肩を振るわせ啜り泣く。


「泣くな。」


正臣は思わず抱き寄せそうになる気持ちを制御し、頭を撫ぜるだけで抑える。


「正臣…様は…命の…恩人です。

私は…どう…恩返しをすれば…いいのでしょうか…。」

泣きながら香世がそう言ってくるから、


「香世が今、生きて笑ってくれている事で俺は満足している。だから、もう泣くな。」


正臣はヒックヒックと泣くその小さな体を

抱き締めてその涙を止めたいと思う。


その度あの腕時計が目に浮かび、触れてはいけないと葛藤する。


「ほら、プディングを食べろ。

泣いていると香世の分も食べてしまうぞ。」


どうにかしてその涙を止めたい。


やっと涙を拭きながら、プディングを食べ出した香世の様子を伺い見る。


「美味しい…。」

ヒックヒックと肩を揺すりながら、それでも嬉しそうに食べる香世に、心底ホッとして正臣もプディングを食べ始める。


目が合って、涙で濡れた瞳が不覚にも綺麗だと見入ってしまう。


「今日は何が食べたい?

香世の好きな物を用意させるから言ってみろ。」


「私…えっと…

…味噌まんじゅうが…食べたいです…。」

小さな声で呟くように香世が言う。


正臣は聞き逃す事なく、

「味噌まんじゅうと言えば萩花堂だな。

分かった、前田に言っておく。」

フッと笑う。


香世も涙を拭きながら微笑みを浮かべてプディングを食べる。


距離を取りながら正臣と香世の2人の生活は繰り返され、何気ない日常となって行く。


正臣は腕時計の事を胸の奥にしまい込み、

出来ればこのまま忘れてしまえばいいとさえ思ってしまっている。


香世を想い人の所へ返さなければと思うのに……。

手離せないでいる。


香世の様子を伺う許可を得た前田が、正臣がいない間にちょくちょく顔を出すようになり、今日の香世はこうだったああだったと報告を受ける度、正臣は嫉妬して苛立ってしまう自分に嫌気がさす。


香世の笑顔が見たいと思う。


ずっと幸せでいて欲しい。


願わくは俺の側で、と思う事さえ敵わないのかと…ため息を吐く。



一方、香世は香世で、


毎日忙しくしている正臣を、せめて家にいる時だけでも休ませてあげたいと思うのだが、


だけど何をしたら良いか…

どうしたら良いのかも分からず、不甲斐ない自分にため息が出る。


もっとそのお心に近付いて癒してあげたい。


出来ればずっと、正臣様の側にいたい。


この気持ちを言葉にして伝えなければと思うのに…


ふとした瞬間、一線を引かれているような気がして、近付く事が出来ないでいる。




そして、極秘任務も最終日を迎える。


「行ってくる。」


いつものように正臣が頭を下げてくるから

そっと軍帽を頭に被せる。


「行ってらっしゃいませ。

お帰りをお待ちしております。」

香世は笑顔で送り出す。


頭をポンポンと撫ぜて正臣は車に乗り込み

行ってしまう。


香世は思う。

今日こそは、この気持ちを伝えたい。

そうしなければ何も始まらないと言う事だけは分かっている。



正臣は車に乗り込みため息を吐く。


「朝からため息ですか?

今日で終了ですから頑張って下さいよ。」

前田が気休めを言う。


「お前の方はどうなんだ?松下との引き継ぎは順調なのか?」

連日の香世との馴れ合いにいささか面白くない正臣は、不貞腐れたように前田に問う。


「大丈夫です。

抜かりなく事は進んでますから。

来週水曜辺りボスはお時間どうですか?

香世ちゃんのお父上と一席設けたいと思いますが。」


いつから馴れ馴れしく呼ぶようになったんだと、悪態を吐くのをグッと堪えて睨み気味に

正臣は前田を見据える。


「分かった…空けておく。」


「香世ちゃんも実家が恋しくなっている時期です。どこかで一度実家に帰してあげても良いんじゃないでしょうか?」


前田が痛い所を突いてくる。


「香世が帰りたければ、自由に帰っても良いと伝えてある。」


「香世ちゃんはきっとそうは思って無いと思いますよ。外にあまり出てはいけないと、逆に思っているように見えますが。

俺が言うのも何ですが…


ボスはもっと心を開いて、香世ちゃんと話をするべきです。

貴方が無駄話をする人では無い事は重々知ってはいますが、大事な人にはもっと心を開くべきです。」


普段からズバズバ言ってくる前田だが、私情に入ってくるのは珍しい。


「香世が…何か言っていたか?」


「香世ちゃんは何も言いませんが…ボスの事をいろいろ聞いてきます。どんな食べ物が好きなのか、甘党なのか辛党なのか、暑がりなのか寒がりなのか…。

本当、本人に聞けば良い事まで俺に聞いてくるんです。話しかけ辛い空気を出してるんじゃ無いですか?」


自分としては、香世には出来るだけ素で接しているつもりだったのだが…


腕時計の件から近付き過ぎないように、

一線を引いてしまっているのは歪めない。


「別に…そんなつもりはない。」

はぁーとため息を吐き窓の外を見る。


昨夜も遅くなり、そっと家に入った正臣は、

居間で香世が、写真を見つめていたのを垣間見た。


声をかけるとサッと襟元に閉まってしまったが…想い人の写真なのかと、胸が苦しくなった。


いい加減手放さなくてはならないのだろうな……。


「何をそんなにお悩みなんですか?香世ちゃんが気にかけていましたよ。」


「…そんなに顔に出ているか?」

力無く正臣は聞く。


「表情ではボスは分かりにくいけど…

何でしょうね?

貴方が何か悩んでいる事は、ちょっとした仕草で俺も分かります。」


どう言う事だと腕を組む。


「ほら、その腕を組む仕草とか。眉間の皺とか。」


「腕は、誰でも組むだろ。…元々こういう顔だ…。」


何がいけないというふうに正臣は思うが、香世が気に掛けているのなら…気を付けなければと素直に思う。


「ボスは元々凄く優しい人なのに、

その威厳のある佇まいが、良くも悪くも貴方の良さを、消してしまっているんです。

軍人としてはそれで良いかと思いますが、


男としてはどうなんでしょうか。


香世ちゃんにだけは曝け出して欲しいです。

俺はボスの事を尊敬してるので、幸せになって欲しいんです。」


「お前…凄いな。

普通、本人相手になかなかそこまで言えない。」

冷静に正臣は、前田の事を分析して感心してしまう。


「俺はボスに命捧げてるんで何も怖くないんです。貴方の為だと思うなら何だってしますし、誰だって怖くないんです。」

いつに無く真剣な顔で前田が言う。


「俺なんかに捧げるな…自分の為に生きろ。

香世の事は…心配するな。

この仕事が終わったらちゃんと話し合う。」


傷付く事を恐れずに、先に進まなければ

何も始まらないし…終わらない。


前田のおかげで心は決まる。


「ありがとう。

お前のおかげで覚悟は出来た。」


「いえ…。

俺は貴方のそう言うところ、凄いと思ってます。やっぱりボスはカッコいい。」


前田は熱くなった気持ちを冷ますように

鼻を啜る。


「お前の感性おかしいぞ…。」


滅茶苦茶カッコ悪いだろ…と、

正臣は1人思う。


若くして中尉なんかを肩書きにしていると、

冷徹無慈悲で、誰の意見も聞き入れない、鬼上司だと思われがちだ。


しかし正臣自身は、良いと思う意見は直ぐに取り入れ、できる限り柔軟な態度でありたいと思っている。


ただ、軍人気質な人達に囲まれて育ったせいか、闘争心や、何事にも1番でなければならないと思う、負けず嫌いは人一倍強い。


だから余計誤解を生み易いのだが…


誰かを支配したいとか、上に立って人を従えたいとか、正臣にそういう願望は一切無いのだ。


誰に対しても、いつも対等で在りたいと思っている。


それは香世に対しては勿論だが、使用人や部下に対してもだ。



夕方まで、今日も変わらず通常勤務に追われる。片付けても片付けても、一向に減らない書類の山と格闘しながら、


フッと一息着く度に、ふと思い出すのは香世の事。


今夜はどら焼きが食べたいと所望した。


出来れば自分の足で血眼になって、1番美味しいどら焼きを、街中探し求めたいと思うほど、彼女の為に何かしたい。


それほど迄に、思う相手はこの先も現れる筈がない。


彼女を手離す決意はしたが…

いざそうなった時、俺はちゃんと香世を見送れるのだろうかと、自問自答する。



トントントン


時間通り真壁が定時で迎えに来る。


俺は立ち上がり、クロックコートを羽織り、山折り帽を深く被り極秘任務に向かう。


今夜の相引きの場所は、ひっそり佇む首相の別邸だ。妾の為の住まいだともいう。


本当なら今夜は街中の料亭だったのだが、首相の妾が朝から産気づき、とても動かせる状態では無いと言う。


いつもなら真壁が事前に周囲を探り、全てについて抜かり無いよう、確認してから行動するのだが…

緊急事態だ致し方ない。


首相を官邸まで迎えに行き、妾の待つ仄暗い住宅街に着く。


事前確認の無いまま、首相を降ろすのは危険だと判断し、先に真壁が1人車を降りて辺りを探る。


この街灯の少ない暗がりに、どんな敵が潜んでいるのか分からない。


「安全確認をしています。首相、もう少々お待ちを。」

正臣は周囲を用心深く伺いながら、車の外に目を向ける。


突然、


前方から車が来たかと思うと、

へッドライトに照らし出され一瞬目が眩む。


正臣はパッと反応して、首相に足元に伏せ車に留まるよう指示を出す事、ものの3秒…


外に飛び出し、首相に車の鍵を閉めるよう指示。


懐の短銃を取り出し構え、眩しい光の中、真壁を探す。


いた!

銃を構えるが、敵と絡まり合い格闘している。

相手の手には短剣、真壁は素手…照準が定まらず打つのを躊躇う。


前方の車から2人飛び出しこちらに駆けて来る。


威嚇の為、真壁と揉み合う敵の足元に一発。


パン


と乾いた音が住宅街に鳴り響く。


すかさず前方から来る敵に銃を向けるが、

間に合わないと瞬時に判断


忍び隠していた短刀を取り出し、背広を脱ぎ捨て走り寄る。


振りかぶる敵の短剣を短刀で受け止め、


力でねじ伏せ手首を目がけて蹴りを入れる。


敵の短剣が道端に落ちるのを確認し、敵の手首を捻り上げ、後ろ手に回し峰打ちで投打し1人倒す。


反対側から襲って来た敵を、寸での所で交わし応戦し、後ろ手に回り込んだ所に肘で背中を強打。


怯んだ隙に短剣が飛び、その短剣を拾い上げ真壁が応戦していた敵の、背中に目掛けて投げる。


うわーと男は叫び倒れる。


「中尉、後ろ!!」


真壁が叫ぶ…!!

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