②映画鑑賞

 金曜日の放課後。

 家で制服を着替えて、前日の内に用意しておいた旅行バッグを持って一階に降りると、お兄ちゃんが玄関前で待っていた。

 蕾華の家に泊まることは荷物を詰めるより前に話してある。まるでお兄ちゃんから逃げるみたいなお泊りだと自分でも思わなくはないが、目的は真反対だ。お兄ちゃんに近づくための、支えられるようになるためのお泊りなのだ。

 わたしはお兄ちゃんが好きなのだから、七搦広務のことも好きになれば全ての問題が片付くのではないかと、そう考えた。

 けれど。

 改めてみると、そもそも好きとはどういうものなのか分からないということに気が付いた。

 わたしがお兄ちゃんを好きなのは、兄妹としてであり、家族としてだ。蕾華のことが好きなのは友達としてだ。だけどわたしには恋人としての好きがない。だから、わたしに足りていない恋人としての好きを一度、お兄ちゃんから離れて考え直したい。そうすればきっと、わたしはお兄ちゃんを――七搦広務を男の人として好きになれるはずだから。

 お兄ちゃんにはわたしがダメなばかりに、家に一人という寂しい思いをさせてしまうけれど、結果的にはお兄ちゃんのためになるはずだ。

「気を付けていくんだぞ」

「うん」

「向こうの家に着いたら一度電話してくれ。向こうの家の人に挨拶しておきたいから」

「分かってる」

「何かあったらすぐに駆け付けるから」

「蕾華の家だよ? なにもないよ」

「気を付けてな」

「うん」

 少し暗い顔をしているお兄ちゃんを励ますためにわたしは笑顔を作って、

「行ってきます」

 そう告げて靴を履いた。

「いってらっしゃい。楽しんでくれ」

 わたしが玄関を出るときには笑顔で見送ってくれた。

 扉が閉まる直前に「ごめんな」と言われた気がしたが、きっと空耳だろう。お兄ちゃんが謝ることなんて、ひとつもないのだから。

 学校の近くで待っていてくれた蕾華と合流し、何事もなく蕾華の家にたどり着いた。

 蕾華の家はわたしの家の倍くらい大きくて、庭は三倍くらい広い。

 背の高い真っ白な壁の間に車用と人用の門があり、門の横には蕾華の苗字である「一条」の文字が彫られた黒い表札がはめ込まれている。そしてその下にカメラ付きのインターホンがあった。

 蕾華は人用の通用門を開けて中に入ると、くるりとわたしを振り返った。

「ようこそ、我が生家へ」

 大仰な口調でそう言って、両腕を左右に広げながら笑みを浮かべていた。

「あはは、お邪魔します!」

 蕾華の向こう側には深い青色の屋根と真っ白な壁の二階建て住宅があり、その大きさは邸宅という表現が近しいように思わされる。蕾華は再びくるりと半回転して向かっていく。

 わたしは後ろに続いて玄関に入り、蕾華母に出迎えられた。

「お帰り蕾華。そしていらっしゃい美蓮ちゃん」

 五十代くらいで、白髪交じりの髪を後ろでまとめている、両目尻の皺が特徴的な優しそうな人だ。学校行事で蕾華母と会ったことはあるけれど、泊まらせてもらうのは初めてのことなので、少し緊張してしまう。

「ただいま」

「お邪魔します。急な話だったのに快諾して頂いてありがとうございます」

「あらぁ、気にしないで頂戴。いつもうちの子がお世話になってるんだから」

「そんな。わたしの方こそ、蕾華によくしてもらってます」

「それより、ねえ? うちの子の好きな人とかって知ってる? この子そういう話、全然教えてくれないのよ」

「ちょ、お母さん! もお、あっち行ってて!」

 慌てて靴を脱いだ蕾華がお母さんを廊下の奥の方へ押しやると、

「およよ、娘が暴力を!」

「そんなに強く押してないでしょ! 適当なこと言わないで!」

 漫才かな、というやり取りを見ていると、蕾華に手を引かれた。

「ほら美蓮、いくよ!」

「ちょ、待って。靴。靴脱ぐから」

 仕方なく足だけで靴を脱いだけれど、揃える暇もなく二階の蕾華の部屋に連れ込まれた。薄緑の壁紙の部屋で、わたしの部屋よりだいぶ広くて天井が高い。

 奥の窓際の辺りに大きなベッドがあり、サメやペンギン、シマウマ、ツチノコなどのぬいぐるみが散乱していた。

 右側の壁沿いに勉強机があり、横には本棚が並んでいて、漫画がびっしりと詰まっていた。収まりきらないのか、平積みの山もいくつかある。

 部屋の真ん中には丸い木目のテーブルと、クリーム色の二人掛けソファがあり、ソファの向いている方向の壁側に五〇インチくらいの大型テレビが、壁に掛けられている。テレビの周りにはゲーム機が、最新のものから少し古いものまで色々と置いてあり、テレビの左右にスティール製のラックが並んでいる。

「前から思ってたんだけど蕾華の家って、結構お金持ち?」

「え、そんなことないと思うけど、なんで?」

「だって家大きいし、庭も広いし、自分の部屋にテレビあるし、それに」

「それに?」

「天井、高いから」

「っぷ、はは。天井高いって……美蓮、面白過ぎるよ」

 蕾華は笑いながら崩れ落ち、床にゴロンと寝転んだ。さらにゴロゴロと転がりながらお腹を押さえている。

「天井って、んふふ」

 何がそんなにおかしかったのか分からないけれど、完全に蕾華のツボに入ってしまっているようで、なぜか恥ずかしさが湧いてきた。

 そして少しむかついた。

「もう! ずっと笑ってなよ!」

 そう言って部屋の端の方に荷物を置かせてもらい、スマホをポケットから出した。

「ごめんごめん……電話?」

「うん。お兄ちゃんに」

「え、ホームシック? それともラブコール?」

「ちーがーう! 蕾華のお母さんに挨拶しておきたいって言われたの! ちょっと行ってくるね」

「そっかぁ。玄関からまっすぐのとこがリビングだから、お母さん居ると思うよ。でも、ラブコールしたくなったらいつでも言ってね。一人にさせたげる」

「もぉ!」

 お兄ちゃんのことが話題に上がると一瞬微妙な顔になっていた蕾華だったが、既に吹っ切ってくれたのかそういう冗談を言うようになっていた。少しだけウザいけど、良い部類のウザさではある。

 そう思いながら蕾華の部屋を出て階段を降りた。言われた通りに向かうとLDKがあり、入って左側半分がリビング、右側がダイニング・キッチンになっていた。目的の蕾華母はリビングのソファでドラマを見ながらお茶を飲んでいた。

「あら、美蓮ちゃん」

「どうも」

 軽く会釈をしながら近づいて用件を伝えた。

「そう。真面目ねぇ。確かお兄さんも高校生でしょう? 私が高校生のときも友達とよくお泊り会したけど、そこまで気が回らなかったわ」

 蕾華母はカラカラと笑った。目尻の皺といい、きっとよく笑う人なんだろうな。そう思いながらお兄ちゃんに電話した。お兄ちゃんに状況を話してから蕾華母にスマホを渡す。

 二言三言、言葉を交わしたのちに、蕾華母は自分のスマホを取り出して電話帳にお兄ちゃんの番号を登録していた。さらに少し喋ってから通話を切り、

「いいお兄さんね」

 そう言いながらスマホを渡してくる。

「はい。わたしには、勿体ないくらいの良いお兄ちゃんです」

 受け取って答えると、蕾華母は両手で口を覆った。

「あらあら。恋してるみたいな表情してるわよ。ほんと、お兄さんが大好きなのね」

 そんな表情をしていたのだろうか?

 でも。

「お、お兄ちゃんのことは大好きです。でも、恋なんて、そんな」

「あはは。今まで挨拶しかしたことなかったから真面目な子かと思ってたら、面白いことも言えるじゃないの。兄に恋しないなんて当然よ。あはは」

 笑いながらソファに倒れ込んだ。蕾華と親子なだけあって笑い方が同じだ。

「そんなに、変でしたか?」

「うふふふふ。最高よ」

 一瞬、心臓を掴まれたみたいに息が詰まったけれど、楽しそうに笑う蕾華母に一礼してから失礼した。

 蕾華母の反応が普通なのに、わたしはなにを動揺しているんだろう?

 わたしはまだ、七搦広務を好きに成れてもいないのに。

 蕾華の部屋に戻ると蕾華は白のティーシャツと黒の短パンに着替えていて、中央のソファに寝転がったままスマホを弄っていた。

「あ、おかえりー」

 顔だけこちらに向けて言ってくる蕾華に片手を挙げた。

「ただいま」

 言いながらソファの方に歩み寄ると蕾華が身体を起こしたので、隣に腰を下ろした。

「美蓮と見たい映画、三つ用意してたんだ」

「三つも?」

「明日休みだからさ、オールしちゃうつもりで楽しもう! どうしても眠たくなったり、映画に飽きたらそのとき考える!」

 行き当たりばったりの予定を聞かされ、自然と笑えてきた。

「楽しそう」

「でしょ?」

 蕾華は立ち上がるとテレビ横のラックからブルーレイの箱を三つ持ってくるとテーブルの上に並べ、

「飲み物持ってくるから、どれから見たいか選んでおいて」

 ルンルンと部屋を後にした。

 映画のパッケージを見るとアニメ映画、実写の邦画、実写の洋画とバラバラだった。

 アニメ映画は幼稚園児が主人公の国民的アニメの映画だ。シリーズの中でも特に感動するという話は聞くけれど、十数年前のやつなので実際に見たことはない。

 実写映画はカリスマ詐欺師が主人公の映画だ。以前テレビドラマがやっていて、面白かったのを覚えている。

 洋画はパリの歌劇場を舞台にした、仮面をつけた怪人の男と美しい歌姫の愛の物語だった。タイトルはとても有名だけど、具体的にどういう話なのかは全く知らない。

 気にはなるけれど、いきなり海外の映画は少しハードルが高いと思い、気楽に見られそうな詐欺師の映画にしようと決めた。それと同時に、氷の入ったグラス二つと、二リットルペットボトルの炭酸グレープジュースを持った蕾華が戻ってきた。

「決まった?」

「うん。これ」

 わたしが頷いて指さすと、蕾華はジュースとグラスを置いて詐欺師の映画をテレビにセットしに行った。その間にジュースを注ぐと、蕾華がカーテンを閉めてからわたしの隣に座った。

「電気も消すよ」

 言いながら蕾華は部屋の電気をリモコンで消して、次いでテレビのリモコンを操作した。

「蕾華は見たことあるの?」

「ううん。買ったけどタイミングなくて。お、始まった」

 そう言われてテレビを見ると、さっそく主役が詐欺を働くシーンが流れ出した。


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