第7話

活殺"言"在


 明ちゃんに抱きしめられたからどのくらい経ったのか分からないけれど、しばらく経った頃にはお兄ちゃんが手術中なのだと思い出していた。

 それでもわたしはあのときの状況を口に出せなかった。一言でも口に出すと、梓ちゃんに対して、自分自身が嫌になるような汚い言葉が飛び出しそうで、とても怖かった。

 明ちゃんに抱きしめてもらいながら時間が過ぎるのを感じていると、手術室の扉が開いて五十代くらいの男の人が出て来た。

 その人はわたしたちの方を一瞥すると、歩み寄って話しかけてくる。

「ご家族ですかな?」

「私が保護者で、この子は広務の妹です」

 明さんがそう言うと男の人は頷いた。

「手術は無事終わりましたし、命に別状はありません。精密検査と経過観察で入院が必要ですが、安静にしていれば長引く事はないでしょう」

「そうですか。ありがとうございます」

 明ちゃんが頭を下げてそう言い、ようやくわたしは、男の人の言ったことが理解できた。

 よかった。

 お兄ちゃんは大丈夫なんだ。

 死なないんだ。

 わたしは独りにならなくて済む。

 そう思うと急に力が抜け、強力な睡魔に襲われた。



 気が付くと電気が点きっぱなしの家のリビングで寝ていて、体を起こすと肩まで掛かっていたタオルケットが膝に落ちた。

 ああ、病院で寝ちゃったのかと思うと同時に、服を何も着ていないことに気が付いて、慌ててタオルケットを拾い上げて身体に当てた。

「な、え、なにが?」

「んう。うん」

 寝言のような声が聞こえて隣を見ると、頭までタオルケットを被って寝ている人が居た。

 そっと手を伸ばしてタオルケットの頭の箇所を捲ると、それは明ちゃんだった。

 万が一知らない人だったらどうしようかと思っていたので、少し安心した。

「明ちゃん、明ちゃん」

 呼びかけながら肩を揺すると、明ちゃんはゆっくりと目を開け、とたんに眩しそうに眼を閉じた。

「あ、あぁ。美蓮か。今何時?」

 言いながら目を瞬かせて体を起こすと、明ちゃんは昨日の服のままだった。

「おはよう。えっと」

 壁の時計を見ると、十一時で一瞬焦ったけれど、今日は土曜日だったと思い出してほっとする。

「十一時。ところでなんでわたし、裸なの?」

「ん? ああ、血がべったり付いてたから私が脱がした。着替えさせようと思ったんだけど、めんどうになって。あの服、たぶん血落ちないから捨てなよ?」

「でも、なんで下着まで?」

 尋ねると明ちゃんは、ニヒィっと厭らしい笑みを浮かべてわたしの身体を見定めるように、足元から首筋までじろじろと見てくる。

「ついで? ほら、女子高生を脱がせるなんて経験、中々できないから。ぐへへ」

「おじさんじゃん!」

 タオルケットをぎゅっと掴んでじろりと見ると、明ちゃんはカラカラと笑う。

「冗談よ。下着まで血が付いてたの。少しだけど。それに私のストライクゾーンは中学生以下」

「ロリコンだぁ!」

 思わず飛び跳ねるように距離を取ると、明ちゃんは元気にカラカラと笑う。

「ジョークよ。ハハ! そんなに元気なら大丈夫そうだね」

 どうやら冗談だったようだ。

 いや、でも明ちゃん、一緒にお風呂入った人全員にセクハラしているらしいから、もしかしたらその中に小さい女の子も?

 そう思っているといつの間にか傍まで来てた明ちゃんにデコピンをされた。

「あう」

「失礼なこと考えてる暇があったら、着替えてきな? まあその格好のまま広務のところ行きたいなら無理にとは言わないけど?」

 こんな格好で外に出ることを想像すると、恥ずかしくて頬が熱くなった。

 明ちゃんは意地悪そうに笑い、わたしは顔面の熱を冷ますようにぶんぶんと首を振ってから急いで二階の自分の部屋に向い服を着た。

 リビングに下りて改めて見渡すと、ソファの周辺が血液の痕ですごいことになっていた。とはいえある程度は明ちゃんが掃除してくれていたようで、廊下や壁などに血は消えていた。

 それでも、忘れていたわけじゃないけれど、お兄ちゃんが刺されて入院していることを再度認識させられて、気分が落ち込んでしまう。

「ソファは本格的にやったら落ちそうだけど、カーペットは処分したほうがいいわね」

「うん」

「昼ごはん食べたら病院いくよ」

「え?」

「えってなに? 広務のお見舞い」

「うん!」

 昨日起こったことは辛いけれど、お兄ちゃんに会えると思うと、途端に元気が湧いてきた。

「よーし。じゃあ今から作るね」

「え、いいって。ゆっくりしてなよ。私がコンビニでなんか買ってくるから」

「ううん。ありがと。でも平気だから」

「まあ、美蓮がそっちの方が良いなら、そうしなよ」

「うん」

 頷いてキッチンに向かう。

 食パンを二枚、オーブントースターにセットし、冷蔵庫から卵二つ、レタス数枚、ソーセージを取り出してキッチンに戻り、卵を小さめのボウルに割った。

 卵焼きパンでスクランブルエッグを作ると丁度食パンが焼け、二枚のプレート皿にそれぞれ乗せると、鼻孔が香ばしい匂いにくすぐられる。

 コンロの横に置いてスクランブルエッグを半分ずつパンに乗せ、レタスとソーセージを切ろうと包丁を取り出す。ソーセージを抑えて包丁を握ったとき、ふと昨夜の光景が脳裏に浮かび、ゾクリとして包丁をシンクに落としてしまった。

 がらんがらんと響く音が鳴り、実際はそんなはずもないのに、わたしの鼓膜を破るんじゃないかというくらいの衝撃を感じた。

 音が収まってようやく平静を取り戻せたけれど、再び包丁に触る気になれずソーセージはそのまま、レタスは手で千切って卵焼きパンに乗せる。加熱し終えてパンの上に乗せて、ケチャップを塗り、オープンサンドが完成した。

 明ちゃんと食事を取り、少ししてからタクシーを呼んで病院へ向かった。

 三十分ほど車に揺られて病院に着き、受付で手続きをしてからお兄ちゃんの病室に歩を進める。

 入り口の扉の横には一つだけネームプレートが入っており、七搦広務とあった。

 そこは四人部屋で、入ると、窓側の右奥のベッドでお兄ちゃんが眠っているのが分かった。その寝ている姿を一目見ただけで、心臓がトクンと跳ねて、お兄ちゃんは入院しているというのに、お兄ちゃんを感じられて気持ちが高揚してしまう。

 お兄ちゃんの横まで歩み寄ると、お兄ちゃんは昨日刺されたなんて嘘のように穏やかな寝顔を浮かべていた。

「私はドクターと少し話があるから、座って待ってて」

 明ちゃんはそう言うとベッドの横にある椅子を指さして言う。

「うん」

 わたしが頷いて座ると、明ちゃんはお兄ちゃんの顔を一瞥してから病室を出て行った。

 改めて見ると、お兄ちゃんの入院着からはいくつか管が出ていて、左手の人差し指にはカバーのようなものがされている。

 そこからも管が伸びていることが、ああ、入院しているんだなと強く思わされる。その管を辿っていくと、緑や赤や青の数字が表示されているモニターに繋がっていた。

 お兄ちゃんの右手を両手で包むように軽く握ると、お兄ちゃんの体温を感じて、無事ではないけど、よかったと心から思わされる。

 もしお兄ちゃんが居なくなったら、きっとわたしは、どうにかなってしまうだろう。お兄ちゃんが刺されてから手術が終わるまでの時間の薄い記憶が、わたしにそう告げている。

 わたしは本当にお兄ちゃんが大好きなのだ。

 そう思って、ああそうかと納得した。

 わたしが七搦広務を好きになれないのは、お兄ちゃんのことが好きだからだ。

 だから、お兄ちゃんの兄である部分を度外視した七搦広務を好きになろうとしても、好きになれる訳がなかったんだ。

 それくらい、わたしはお兄ちゃんが好きなのだ。

 我ながら、とんでもないブラコンだなぁ。

「あはは」

 自嘲気味に笑ってみるけれど、悪くはない気分だった。

 そのとき、わたしの手のひらの中でお兄ちゃんの手がピクンと動いた。

「お兄ちゃん!」

 お兄ちゃんはわたしの手を握ると瞼をピクピクとさせ、ゆっくりと目を開いた。

「ん、あー。あ、み、れん?」

 寝ぼけているような様子で身体を起こしたお兄ちゃんは、わたしの顔を見てくしゃりと笑った。わたしは嬉しくなり、思わずお兄ちゃんに抱き着いた。

「美蓮」

 寝起きだというのにお兄ちゃんは優しく抱きしめてくれて、背中を撫でてくれる。

 お母さんにしてもらっていたのも、明ちゃんにしてもらったのも心地良かった。

 けれど、今のわたしにとってはお兄ちゃんの手が一番わたしの心を温めてくれる。

 思わず抱きしめる力を強くしてしまうと

「うっ」

 という本気なトーンのお兄ちゃんの悲鳴が聞こえて慌てて飛びのいた。

 見ると、お兄ちゃんは顔を顰め、昨日刺された辺りを擦っていた。

「あ、ごめんね。大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫。ちょっといきなり痛みが来て驚いただけで、そこまで痛かった訳じゃないから」

「ご、ごめんね?」

「平気だよ」

 わたしは申し訳なくなりながら椅子に腰かけた。

「それより美蓮。怖い目に合わせてごめん」

「え? 別にお兄ちゃんが謝ることなんて何もないよ?」

「いや。夜中に麻酔が覚めて、明け方に眠りに就くまでの間考えてたんだ。きっと、梓にああいうことをさせてしまったのは、俺が原因だって」

「そんなことない! 昨日のは梓ちゃんが勝手に」

「いや。俺は、梓が俺のことを好きだと思ってくれてることに気づいていた。でもその好意に気づかないふりをしてたんだ。俺は美蓮のことが大事だったし、梓との関係を崩したくなかったから」

 お兄ちゃんは自嘲気味に笑ってから、続けた。

「現実から目を逸らしてばかりだな、俺は。たぶん俺の曖昧な態度とか、そういう気持ちが少しずつ伝わっていて、梓の中でモヤモヤになって溜まっていたんだと思う。実は昨日の放課後、梓から告白されたんだ。ああ、そういえば美蓮も聞いてたんだっけ?」

 わたしは驚いて、慌てて首を振った。

「わたしが聞いてたのは、たぶん、それより前か後だと思う」

「そっか。うん。告白された。それで振ったんだよ。勿論、中途半端な気持ちで付き合うなんてできないけど、でも今思うと俺が梓にきっかけを与えていたんだ。俺があんなことを。親が死んだことのない奴にはわからない、なんて酷いことを言っちゃったから、梓を傷つけてしまったんだと思う」

 わたしは首を左右に振って否定するけれど、お兄ちゃんはバツが悪そうな顔をして続けた。

「だから、梓が美蓮に怖い思いをさせたこと、許してやって欲しいんだ。もし気持ちが収まらないなら、代わりに俺のことを怒ってくれて構わないから。だから、昨日起きたことは俺たちの間の秘密にしてほしい」

「そんなの」

 確かに、梓ちゃんのあれだけの好意に気づいていて、その上で気付かないふりをしていたのは少し酷いと思う。

 だけど。

 そんなの。

「怒れるはず、ないよ!」

「美蓮?」

「怒れるはず、ないじゃん! だってお兄ちゃんが梓ちゃんに対してそんな風だったのも、わたしのことを思ってくれていたからでしょ? なのにわたしが、怒れる訳がないじゃん!」

 気持ちが高ぶって涙が溢れてきた。

 それを手の甲で拭って、心を決める。

 本心を伝えるための。

 心を決めた。

「わたしは、お兄ちゃんが好き! わたしにはお兄ちゃんが必要だから、どこにもいかないで傍に居てほしい! わたしは何もなしに大きくなったんじゃない。お兄ちゃんからたくさん愛情をもらって大きくなった。だから恋人としての七搦広務じゃなくて、そんなものじゃなくて、わたしは、他でもない《お兄ちゃん》に一緒に居てほしいの! わたしもずっと傍に居るから。傍に居るだけじゃ少ししか支えられないけれど、でも、少しでも支え続けるし、ちょっとずつでも支える方法を増やしていきたい! わたしは昨日、そう思ったの!」

 涙は拭っても、拭っても、際限なしに溢れ出して、頬を伝って顎からボロボロと零れてしまう。

「だから本当は、しっかりと支え合いたいけど、ちゃんと支え切れてなくたって、ずっと傍に置いてほしい」

 手の甲で涙を拭き続けながらも言葉を吐き続けていると、お兄ちゃんに腕を掴まれて引き寄せられた。肩と頭を抱かれて胸に顔を埋める形になって、お兄ちゃんの鼓動を感じられた。

「傍に居てくれるだけで支えだって言っただろ。それに、本音を言えば俺だって美蓮を支え切れている自信なんてない」

「そんなことない! お兄ちゃんはわた」

 お兄ちゃんの懐から離れて言うと、途中で唇にお兄ちゃんの人指し指を当てられ、言葉を止められた。

「それでも、例え父さんが最期に何も言わなくたって、俺は美蓮を支えたいと思う。それに、俺はやっぱり自分勝手だから、美蓮が俺を支えられていると思っていても、いなくても、頼りにされていると思っていても、いなくても」

 お兄ちゃんはそういうと、一度ニコリと笑ってみせてから続けた。

「美蓮には俺の傍に居て欲しい」

 そうだ。

 そうなのだ。

 確かにお父さんに言うことを聞きたいと思う気持ちは本物だ。

 でも。

 もしお父さんに言われなくても、わたしは本心からお兄ちゃんの支えになりたい。

 そんな簡単なことを、わたしは見落としていた。

 わたしはお兄ちゃんに傍に居て欲しくて。

 お兄ちゃんはわたしに傍に居て欲しい。

 これ以上の幸せなんて望みようがない。

 これからはお父さんに言われたからではなく、自分自身の意思でお兄ちゃんと支え合おう。

 だから、問題があるとすれば一つだけだ。

「わたし、実は重度なブラコンみたいなんだけど。それでもお兄ちゃんはずっと。ずっとわたしの傍に居てくれる?」

 えへへ、と笑ってみせると、お兄ちゃんもくしゃりと笑った。

「それを言うなら、俺も重度のシスコンだよ」

 その言葉を聞いて、お兄ちゃんに抱き着いた。

「お兄ちゃん。大好きだよ」

 優しく抱きしめてくれるお兄ちゃんの存在がきっと、わたしにとっての幸せというものなのだろう。

「俺も、大好きだよ美蓮」

 そしてお兄ちゃんのこの言葉が、わたしをわたしとして活かしてくれるのだ。

 これからもずっと、わたしたちの「大好き」を続けて行こう。

 そう思いわたしは初めて、わたしの方からキスをした。

 脳みそが痺れるようで、とろけるようで、わたしはお兄ちゃんから一生離れられないなぁと、改めてそう思った。



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