十八話 憂鬱な日常

 雨の日に自分に上着を貸してくれた少年――自分の意識が変わったあの日に出会った彼を、なんだか切っ掛けをくれた恩人みたいにとらえていることに、月乃は苦笑いをする。 まったくの他人が自分に親切にしてくれたことが嬉しくて、捨ててもいいと言われた上着もハンカチもそのままだった。


 店で再会してから、また来てくれないかと思って、月乃は今日もロッカーに返さなければいけないふたつをいれた紙袋を持ってきていた。

 周囲とは相変わらずギクシャクしているが、もう自分が悪くないのに謝ったりはしない。他人のしたことを被ってまで頭を下げるのは、自分のためにも相手のためにもならないと気が付いたから、月乃は今日もしっかりと顔を上げ、制服の襟を正す。


 あれから一週間。

 紙袋を目に留めて、月乃は思った。

 また来てくれないかな、と。


 そうしたら――願いが叶った……半分くらいは。


 昼の混雑が過ぎた頃、ひとりの客がやって来た。同僚が小さく歓声を上げる。パッと視界に飛び込んでくる、明るい色。あの少年と一緒だった青年だ。

 先日はノーネクタイだったが、今日はきっちりネクタイを締めていて、なんだかできる男のように見える。

 同僚が月乃を押しのけて、彼の元へ注文を取りに行く。

 客もまばらの店内に、彼女の高い声が響いた。


 数人の先客が、彼女のあからさまな様子を面白がるように見ていたり、あるいは一度視線をあげて不愉快そうに顔をしかめたり、興味すら示さず手元の本をめくっていたりと様々な反応を見せるのを、月乃は観察する。


 すると、ぽんと肩を叩かれた。


「雲野さんもさぁ、あれくらい明るくできないかなぁ? きみ、暗いんだよねぇ~」


 店長だった。ニタニタ笑いながら、肩に乗せた手をぐにぐにと動かして月乃の肩を揉む。

 ぞわっと鳥肌が立って、思わず月乃は距離を取った。すると、店長が「は?」と小さく、苛立った声を出す。以前の月乃なら、それだけで萎縮していたかもしれない。だが、今の月乃は黙って店長を見つめ返す。もちろん、顔に嫌悪の色を滲ませて。


「ったく、世間知らずの小娘はコレだから。……雲野さん、今日はもうあがっていいよ」

「……え?」

「きみがいると、店の空気も悪くなるし……。最近ミスも多いんだってね? 具合悪いんだったら無理しないで、体調整えなよ。それくらいはできるでしょ」


 邪魔そうに追い払われて月乃はロッカー室に戻った。フロアからは「雲野さんなら自己都合で早上がりだよ」と事実をねじ曲げる店長の声と「え~、最低」「責任感ゼロじゃない」という自分への非難が聞こえてきた。


(好きに言えばいいよ……!)


 こんな無茶苦茶なところ、もう絶対に辞めてやると固く誓う。

 これまでなら、邪険にされればそれだけで不安を覚えただろうし、ロッカーで泣いていた。しかし、今は――たしかに最近は暇だし頭数がたくさんいても意味がないだろうなと冷静に考えられる余裕があった。

 これまでは他の人が帰りたがって自分が残るパターンだったからコレは新しいな、なんて笑う余裕もあった。

 そして、自分のロッカーを開けて――紙袋に目を留める。


「――ぁ」


 店内には、あの少年と確かに繋がりのあるお客さん――自分はこの店を辞めるのだから、この機会を逃せば本当にもう返すことはできなくなるかもしれない。

 月乃は紙袋を手にすると「よし」と呟いた。

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