十三話 本物はやさしくない


 人の心を弄ぶような囁きをした祭。


「ふざけないで!」


 月乃は、そんな彼の頬をパンっと張っていた。

 

 祭と月乃、双方の手から傘が滑り落ちる。

 雨に濡れても、月乃はどうでもよかった。目の奥が熱くて、腹の中がぐらぐらしている。

 冷たい雨に打たれても、それはちっとも温度を下げない。


「わたしが、ミコに、そんなことやらせるわけないでしょ!」

「え~? 生きてるならあれだけど、死んでるんだからいい――っつぅ……! 月乃ちゃん、すねを蹴るのは反則……」

「わたしの家族を、なんだと思ってるの! 死んじゃったって、ミコは家族なんだから! ずっとずっと、ウチの子なんだから……! ――ミコに嫌なこと押しつけて、それでわたしが平気なわけないじゃない!」


 ミコは、温和な性格だった。そんなミコが、自分を助けるために――だなんて、誰がそんなことを望むのか。そのうえ自分は安全圏。冗談ではない。


「じゃあ、どうする? おじさんたちに任せて、外で待ってる?」

「――ミコ! おいで!」


 祭を押しのけた月乃の一声に、おずおずとミコが近づいてくる。自分がやろうとしたことを月乃に知られてどこか気まずそうな様子だが、月乃は構わず抱きしめた。


「ごめんね、わたし、全然分かってなくて。ミコがそんな風に思ってたなんて気がつかなくて、ごめんね」


 二度と姿を見ることも、こうして抱きしめることも叶わないはずだったのに、それが叶って嬉しいのと自分が情けないという感情が交じる。

 甘えるようにすり寄ってくるミコはやがて、いつもそうしていたように泣いている月乃の頬をなめた。


「……ミコ……。ミコ、見ててね――わたし、ミコが心配しなくてもいいように、ちゃんとするからね?」


 月乃はもう一度だけミコをぎゅっと抱きしめると、すくっと立ち上がった。

 そして動けないでいる自分と同じ顔へ近づく。相手は月乃を見て、ニタリとした笑みを浮かべる。


「……食べかす、ううん食べ残し。そう、全部食べればいい――そしたら……!」

「いい加減、わたしを返して! 迷惑なのよ!」


 怒鳴られると思っていなかったのか、それはポカンとした後顔を歪めた。その時、顔の半分が泥のようにとけた。


「ずるい……! ずるい、ずるい、ずるい!」


 バタバタともがいて、ただひたすら月乃を「ずるい」となじる姿は、幼い子どものようだ。けれどその間にもドロドロと顔がとけていく。


「食われた本人が直に返せって言ってるんだ。契約なしで襲いかかったお前に、しっぺ返しがきたねぇ――なごちゃんの水につかまってるし……お前、もう動けないでしょ?」

「なんだ、なんだよ、お前たち、普通じゃない、普通じゃないよ! 気持ち悪いっ!」


 お互い様でしょと言いながら祭は、和にひらひら手を振る。


「なごちゃん、もう喋っていいよ。お仕事しよう?」

「……っ……クソがっ!」


 黙っていた和は口を開くなり祭を罵倒し、地べたに伏して動けなくなっているものの頭だった部分を掴んだ。


「お前は雲野 月乃に非ず――あるべき者を、あるべき元へ還せ」

「やだやだやだ!」


 どろどろにとけたなにかが、月乃のほうを見て――助けてと伸ばされた、腕だったもの。


 月乃はその手を――取らなかった。


 この存在に、理不尽に命を奪われた子がいるのだ。

 なにも知らなければ、手を伸ばしていたかもしれない。

 けれど知ってしまった月乃は手を伸ばさない。

 

 迷ったのではなく、自分の意志で助けないと決めた。

 明確な拒絶が伝わったのか、相手は大声で月乃を罵倒する。


「お前っ! お前ぇ! 優しくない! 雲野 月乃はお人好しなんだ! マヌケなお人好し! だから偽物、お前偽物! 本物は――」

「雲野 月乃はわたし。どこを探そうが――わたしは、わたししかいないから」

「あああああああっ!」


 自棄を起こしたよな絶叫。

 祭がひゅ~と口笛を吹く。


「すごいね、月乃ちゃん。強奪された相手に対して認識のズレを起こさせるなんて」

「ズレ?」

「知っている情報だけで存在に取って代わったコレは、月乃ちゃんの想定外の行動にダメージ食らったってこと。認識のズレは力のブレ、奪ったものが不確かになれば、虚ろになる」


 祭は笑った。


「すごいね。きみは自分で自分を取り戻した」


 見てきた笑顔の中で、一番自然で穏やかなものに見えた。

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