第二十一話 静

 あれからマイルスは静と暮らし始めた。9.11ですっかり落ち込んでしまったマイルスに、静は生きていく明かりを灯してくれた。

 元気を取り戻そうとするマイルスは、静に歌を教えることに夢中になった。静はすごく良い声をしていたが、それでも歌い方には問題があった。人はそれで十分良いと言うかもしれないが、ニューヨークまでわざわざやってきた静は変わりたいのだ。そしてマイルスは静を変える事こそが自分の仕事だと思った。

 年の離れた二人だったが静はマイルスをリスペクトしてくれた。静には若い娘にありがちな価値観の違いがなかった。しかしマイルスは自分にでなく、歌にこそ静がリスペクトすべきだと思っていた。

「違う!伸ばしちゃだめなんだ」とか「息継ぎするのは歌う形が悪いんだ。息継ぎするな!」とか「上手く歌おうとするな!」とか、普通の生徒であればやめていく内容だったり、教え方だった。でもマイルスは静を何とかしたいと思っていた。死にそうだった自分を生き返らせてくれた静を、今度は生まれ変わらせたかった。

横目で黒猫が心配そうに見ていた。


 あれから黒猫のCoCoは…

 早朝にセントラルパークに戻ったが、黒猫を見失ってマイルスはしまったと思った。人はつまらない事で、大きな失敗をする。これで、あの可愛いい黒猫とは、もう二度と逢えないのかと思った。

 しかし、彼女はどこに行ったのだろう。不安な夜を独り過ごし、知らない場所で、どこに行けば良いのか分からない朝を迎えた。でもオレは一緒に居てやらなかった。

 またしても、軽い油断が大きな失敗を呼んでしまった。マイルスは落ち着くんだ、と自分に言い聞かせた。こんな時だから、落ち着いてよく考えようと思った。夜明けから行動したとすれば、そんなに時間は経っていないはずだ。そしてあの大きな木を、リスの目を盗んで降りてきたとすれば、かなりの時間がかかったはずだと...家に帰りたければ、元来た道に戻るはずだとも...

 マイルスは、黒猫の名前を、大きな声を出して呼びながら、セントラルパークのあちこちを探し回った。必死になって探し回った。そしてマイルスの推理は、間違っていなかった。黒猫の声が、聞こえた。

 最初の木からそれ程遠くない、ごく低い木にしがみついて、黒猫は鳴いていた。黒猫はマイルスを見つけると、お尻からずり下がるように、後ずさりしながら降りてきた。こうしてあの大きな木も降りて来たんだ、とマイルスは思った。そしてマイルスが手を伸ばすと「凄く怖かったんだよ」とでも言う様に、マイルスにしがみついて来た。

 家に帰りながら、マイルスと黒猫はもう絶対に離れないと思った。黒猫はマイルスが手を離しても、マイルスにしがみついて離れようとしなかった…


 そんな黒猫は静ともすぐに仲良しになった。食事の時はカウンターチェアーに乗って行儀よくお座りをする。首輪にナプキン代わりのティッシュを付けてあげると、更にお行儀よく背筋を伸ばす。何て可愛い良い子だと静は感心した。名前を呼ぶとニャーと答える。静はCoCoをすっかり好きになってしまった。一度など静が熱を出した時マイルスは出かけたが、黒猫はずっとそばにいてくれた。


 静にとってマイルスの話はどれも面白かった。その一つにネアンデルタール人の話があった。


 マイルスは語る…


 氷河期に生き残った、ホモサピエンス(現代人の種)と、生き残れなかったネアンデルタール人の違いは、言葉にあるそうだ。ネアンデルタール人の気道は、ホモサピエンスのそれに比べて、短く、そのために言葉が持てなく、集団としての生き残りが、出来なかったらしい。


 私たちが今、この地球を歩いているのも、祖先が、言葉や歌を持ったからなのだ。生き残るために、食うためには、何の役にも立たない、と思われている歌が、こんな所で、私たちの存在に関わっていたのだったのだろうか?


 果たして、道具が先か、楽器が先かと言われたら、楽器が先だと思う。アーアーと声を出しながら、朽ちて中が空洞になった木でも、叩いていたのだろうか?洞窟の響くところで、儀式が行われたのだろうか?言葉にならない声を、お互いに発して、意思の疎通を、図っていたのか?もうこれは焚き火の周りでの、ジャムセッションではないだろうか。

 さあ私らも、生き残りをかけて、歌を歌おうではないか!!!

 そんな話をマイルスは静に話してくれた。この人はどういう発想をしているんだと、驚いた。と同時にアーアーと吠え出したい気持ちに駆られた。


 ある時、話はMiles Davisに向かった。

 Miles Davisは、いつもフレーズを探るように吹く。そして思いついたフレーズは、全部は吹かない。フレーズの最初や最後、時には真ん中部分を、口ごもるように端折る。まるで独り言でも言う様に。音は出ていないのに指使いだけが残る。


 こんなスタイルは、ビバップと決別してから始まった。それ以前は、彼は自分以上にトランペットを吹こうとした。Dizzy Gillespie みたいに吹こうとしていた。そしてその演奏が自分らしくないことに気付き、スタイルを変えた。


 ある時期は、全く高音を吹かなかった。他のトランペッター達が高音を、これでもかこれでもかと、ひけらかすのをよそ目に、メロディックな演奏に終始していた。周りが自分に追いつくと、さっさとスタイルを変えた。


 今度はモードの世界に入って、決して吹かない音を決めた。高音は突き刺すように吹いた。メンバーに演奏しすぎないように要求した。


 Miles Davisは、同じフレーズを10通りに違って吹く。そして1音吹いても、彼だと分かる。

モードが進んでいくと、バンドはビートを常時刻まなく成って行く。テンポを守るより大事な事がある。そして演奏の度に、テンポは速くなっていった。

 

 そしていよいよ、ジャズの形態を取らなくなる。みんなはその音楽を、ロックだと言った。狭いクラブを出て、大観衆の前で、ロックコンサートの様に演奏した。マイルスは最初その音楽に触れ、Miles Davisはジャズを捨てたと思った。そしてしばらく、そのアルバムを聴かなかった。

 後日マイルスは、ジャズ喫茶で流れるかっこいい曲がその音楽だと気付き、Miles Davisの感性に追いつけなかった自分を見つけた。それは紛れも無いジャズだった。


 この後もMiles Davisは、フュージョンへ、ファンクへ、ポップスへ、ヒップホップへと、以前のスタイルを捨てて、変化して行く。しかしいつもMiles Davisだった。


 私たちは、何かをしようとする。しようとする事で前に進もうとする。Miles Davisの生き方は、何かをやめる事で、見えるものがある、と言っている様でもある。

 Miles Davisは、彼のライブで何もしゃべらない。音楽が始まると、もう彼の世界で、そこには言葉はいらない。言葉があっても、説明がつかないから意味がない。晩年には、ソロを演奏したミュージシャンの名前を呼ぶこともあったが、これはレコード会社からの、商業的なお願いによるものだったろう。時には声を出したくなくて、名前の書いたプラカードを挙げることもあった。


 MCどころか、曲の切れ目も良く分からなかった。気がつけばもう次の曲だった。音楽が始まると、自分の時間はMiles Davisに捧げることになる。また1曲が長くて、切れ目がないから、時間の過ぎる感覚が麻痺してしまう。そして意識が朦朧として、耳で聴いている感覚がなくなり、気がつくと、どこか知らない所にいる。そしてつんざく様な彼のペットで、我に帰ると、妖しい儀式の真っ最中なのだ。

 ジャズクラブでMiles Davisの演奏を聴いた。一番前のテーブルだった。毎晩通った。彼はまたこいつ来ているなと思ったのか、ミュートを付けてマイルスの耳元で吹いた。信じられない距離と時間だった。師に直接教えを受けた気がした。


 マイルスはよくレコードをかけてくれた。ある時それは Bill Evans の “Waltz for Debby” だった。彼は数少ないマイルスの好きな白人のジャズプレイヤーの一人だと言った。Evansはいつも下を向いてピアノを弾いていた。見もしない鍵盤を探るように弾いた。

 マイルスはEvansの繊細なプレイを注意して聴くようにと静に言った。静はEvansがすっかり好きになった。

 マイルスはEvansがMiles Davisにも影響を与えたと話してくれた。モードはきっとEvansが持ち込んだスタイルだった。そしてMiles Davisはそれをすんなり受け入れて、ずっとこのスタイルで演奏してきたような自然さでプレイした。誰もMiles Davisの感性を見通せなかった。またしてもモードの世界でMiles Davisはカッコ良かった。

 EvansはScott LaFaroとの演奏でも世界を残した。およそベースという役目を横に押しのけてEvansと絡み合った。インタープレイだった。


 そしてこんな話もあった。

「聞いて歌うくせはやめよう、常に君がリードボーカルだよ」マイルスはこんな事を言った。


「伴奏を聞いて歌う。歌詞を追いかけながら歌う。これらは自分の気持ちや歌に集中出来ないばかりか、常にタイミングを気にしていて、これでは歌う前に負けているよね」「上手く歌おうとせずに(上手く聞かせようとせずに)気持ちよく歌えることを、目指してみよう。これで気持ちよく上手く歌えなかったら、もう一度、基本を見直せば良いだけだよ」と付け加えた。


「打とう、飛ばそうとしたバッティングで、上手く打てるわけがないよね。自分を信じて振り抜く、これが大事だね。こうすればその時上手くいかなくても次に通じるだろう」

「必ずリードボーカルが基本なんだよ。レコーダーに録って、後でチェックをすれば、意外なところが活きているものなんだ」マイルスは続ける。

「先に歌って、自分を見失うような事があれば、それは自分を聞いて歌っているからだよ。演奏と一体になって、自分がリードして、まだ見たことも聴いたこともない世界にみんなを引きずり込もう。みんなもそれを期待しているはずなんだ」

 静は思い切って歌ってみた。不安がっていた自分は消え、スポットライトを浴びて主役を演じている自分がいた。

 考えて歌ってもちっとも幸せじゃない。思い切って歌って、上手くいかなくても、また基本を見直せばいいだけなんだ、と気づいた。

 歌は大変で遠い目標だと思っていたけれど。すぐそばにいる友達だったんだ、とも思った。ニューヨークに来る決心をして良かったとも思った。



 ある日マイルスは納豆が死ぬほど食べたいと言った。そしてトラムを渡った先の日本食料品店に納豆を買いに行った。トラムからの眺めは二人をとても幸せにした。ここからマンハッタンの南ローワイーストからブロンクスまでが見渡せる。晴れた日は最高の眺めが手に入る。このトラムも「レオン」やその他の映画で紹介された。このトラムもマイルスがここに住み始めたきっかけだった。それ以前のマイルスの住処はウェストビレッジの南奥のハドソン通りだった。

 そこは天井が5mはあろうかというロフトだった。この大きな窓からはゲイパレードの花火が、そしてハドソン川が見えた。電車の駅からロフトまでの道にはパブリックのプールがあって、そこの壁には大きなキース・ヘリングが描かれていた。そしてその向かい側のタウンハウスはオードリー・ヘップバーンの「暗くなるまで待って」の舞台になった。マイルスの住んでいたビルも名前の通りアーカイブだった。ニューヨークには至る所にアート、映画、音楽の足跡があった。

 二人は日本食料品店で納豆、日本米などを買うと今度はルーズベルトアイランドのスーパーに向かった。そして大袋の大豆を買った。

帰って大きな寸胴で大豆を茹でた。少し大豆を冷ましてから買ってきた納豆をぶち込んで混ぜた。混ぜ終わると弱火のオーブンに寸胴を突っ込んだ。そして丸一日待った。


 死ぬほど食べられる納豆パーティになった。静は行動するマイルスがもっと好きになった。

 二人は仲良くいつまでも暮らしました、めでたし、めでたしとはいかなかった。静にはビザの期限があった。それは二人にはお互い分かっていたことだが、言い出せなかった。

 ある日、静はマイルスに「結婚してください」と言った。マイルスは年の差の事を言った。今は良いとしても続かないとも思った。マイルスは静の事をすっかり好きになっていたので、逆プロポーズはたまらなくうれしかったが、今の自分に彼女との未来が描けなかった。

 時が来て静は日本に発って行った。二人とも涙が止まらなかった。


 それでもマイルスと静のやり取りは続いた。時にはメールで時には電話で…

 マイルスを助けたいと思う静は動いた。そして某大学の教授若山さんへと繋げてくれた。音楽や歌が大好きな若山さんはマイルスのメソッドに興味を持ってくれた。マイルスが日本に向かうというと、セミナーを用意して下さった。

この時マイルスはこのメソッドが日本人が必要としているものだと確信した。

歌が大好きなのに上手く歌えない日本人がいた。本気で歌えるようになったら幸せだと思ってくれる人達がいた。


 静は両親にマイルスと結婚したいと伝えた。両親は猛反対だった。マイルスはその理由は理解できた。自分が親でも反対するかもしれない。まして会ったこともない話をしたこともない相手を理解するのは無理だと思った。年の差、職業、住んでいる国どれをとっても無理な相談だった。

 しかしマイルスも静もお互いを諦められなかった。静は置手紙を書いて家を飛び出した。大好きな両親に初めて悲しい思いをさせた。

 

 マイルスがニューヨークに帰ると黒猫がいた。「お帰り」と言ってくれた。数日後にその黒猫が机に飛び乗ろうとしてこけた。マイルスはドジな奴と笑った。そしてその日から黒猫は物陰に隠れるようになった。

ようやく彼女を見つけたマイルスは黒猫を抱いた。弱々しい声でニャーと啼いてCoCoは逝った。

 マイルスは顔をくしゃくしゃにして泣いた。泣いて泣いて涙が枯れるまで泣いて、顔を上げた。

 黒猫とニューヨークに別れを告げた。


 日本では小さなアパートで静が待っていた。静は何もかも分かっているように「お疲れさま」と言った。

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