第5話


 玄関から外へ出ると、もうバイクは走り去ってしまっていたようで、姿がない。土埃の乗った鈍い色の家のポストに、乱雑に差し込まれてはみ出した薄っぺらい新聞がある。新聞なんてものは、もう随分前に自然と無くなったのだと思っていた。学校や企業のシステムが次々無くなっていく中で、意外としぶとく残って消えた文明の遺産だ。再び見るとは思わなかったので、不思議な物を見る気持ちで手に取る。やたら大きい紙に踊る細かい印字が懐かしい。

 人の気配がして、顔を上げると、ご近所さんが点々と家から這い出してきていた。不思議そうに行ってしまったバイクの音の方角を目で追い、次にポストの新聞を手に取る。思っていたよりもその人数は多かった。すっかりひとけのない住宅地になったと思っていたが、皆生きてはいたらしい。昔から顔見知りの向かいのおばさんも、元気そうに五体満足でいるように見える。


 新聞を、家の中に持ち帰る。一人で暮らすには広すぎる家の、リビングの中央には、今では放送される番組がないテレビが置いてあって、その前に寝心地の良いソファがある。体重の分だけ柔らかく沈む、革張りの大きいソファだ。その中央に腰掛けて、新聞の内容に目を通した。いつ座ってもソファに尻が優しく包まれて、尻型に変形しているのではないかと心配になる。新聞の内容はこうだ。

 変異治療薬完成の目処が立った。長く苦しい日々は直に終わる。我が会員の著しい研究成果は、輝かしい人間の未来を約束するだろう。そこで、より早く変異治療薬を完成させるために、人々の手を借りたい。変異が最終段階に到達した肉塊を、指定の場所へ集めるように。彼らの保有する唯一の抗体が必要だ。今はとにかく数が要る。……最後に、連絡先の電話番号と、収集場所が書いてある。

 大きな紙面の最も強調された見出しの内容が、以上の物だった。残りのスペースには、治療薬開発の研究内容、動物実験の結果、そして団体の共有する思想とこれまでの活動等で埋められていた。いつか見た、人間を信じる会だと記されている。

 最近ポッと出た民間団体がなにやら大口を叩いている。治療薬というのも現実味がないような気がした。しかし、読んでいると、開発研究員の名前や元々所属していた製薬企業の名前がある。どこも一流の技術を持っていた。信憑性の有無でいえば、この上ないと言うほかないだろう。

 その新聞が届いてからしばらく、町は騒々しくなった。外を歩けば日に二度は重い荷台の音を聞く。前まで道の端に転がっていた、蠢くピンクの肉塊が姿を消した。四肢のある人々が挙って肉塊を運んでいる。


「あっちに一体いたぞ!」

 野太い男の声がそこかしこから聞こえる。時々女も混ざっているようで、聞き苦しい混声合唱のようだ。元は人だった肉塊が、粗雑に追い立てられて蠢く様には、不思議と逃亡の意思すら感じる。まれに人体の名残がある物もあって、連続する突起物に丁寧に色が塗られた爪がぽつんと乗っているのを見ると、原型を想像して気分が沈む。

「人……うるせえ」

 頭の虫が言った。同意する。

「な」

 今日はわざわざ外に出て、かつての友人の家を訪ねた。日毎に辿り着くまでの体感距離が伸びていく。アパートの前まで来て、玄関のドアが開け放たれていることがわかった。もう少し近付くと、部屋の中が見える。中には誰もいない。自力で、またはあの弟一人の力で、移動することは不可能な筈の私の友人の姿もなく、ただ異臭だけが残されている。

 部屋の奥から家の外へ、光る濁ったどす黒い色の粘液が、太い線になって足下を這っている。線を追って歩くと、それはアスファルトの上に到達し、アスファルトの凹凸には削れた肉の破片がへばりついていた。

「これは……」

 虫が何か言おうとした。言葉尻が頼りなく消える。


 一歩進むごとに首が絞まるような気がした。線のあとを辿る。そこら中から聞こえていた喧噪が遠のいて、前方の物騒がしい様子だけが五感に切迫する。大声になると頭に響く、子供特有の甲高い声を私は知っていた。

 あの二人の自宅からしばらく離れた地点で、五、六人の大人が、全長一メートル半程度の肉塊を取り囲んでいる。枯れ葉を集めたりするのに使う、大きな熊手に似た形の物を突き刺して、強引に引きずって歩いている。血のように吹き出した液が足下を濡らしていた。

 進行を妨害しようとまとわりついて、罵詈雑言を巻き散らかしている、知った顔がいる。大人達は気が立っているようで、何度も彼を突き飛ばしたり引きはがしたりしているが、彼は諦めずに邪魔をし続ける。大人達の彼へのあしらいはどんどん乱暴な物になっていき、今では単なる暴力にしか見えない。悲痛な子供の懇願が胸を刺す。

「やめろよ、姉ちゃんを連れてかないでよ」

 大人の誰かが嘲笑した。

「こんなのがお前の姉ちゃんか?」


「帰ろう、な。見なかったことにして帰ろうぜ。まだ誰も気付いてないって。今ならさ」

 内緒話をするようにそっと虫が囁いた。思考力が衰えている……判断ができない。フラフラと前進する。距離が縮まない。

「荷台はまだか?」

 苛立ちを含んだ声色で、大人が言った。

「今来た!」

 激しい車輪の音がした。大人が増える。静止した荷台が傾けられて、肉塊が物のように運ばれようとしている。あれは私の友人だった。だらんと垂れた細い肉が、腕が、死にかけた蜘蛛に見える。

「やめて! やめて!」

 友人の弟が、大人達の腕に組み付いた。とても懸命な様子だった。掴まれたその人は、怒りに引きつった表情で振り返り、言葉もなく彼の腕を強く掴む。そのまま腕を勢いよく引き――変異で脆くなった体だ、まして頭に血の上った大人の腕力では――彼の腕はあっけなくちぎれた。引っ張られてバランスを崩した体の、全体重が腕にかかった。惨憺たる絶叫が広く響き渡る。泥のような血液がにじみ出て落ちる。無数の冷ややかな目が彼を見ていた。

 これは……これは、暴力だ。明確な悪意がある暴力だ……。

 膝をつく彼に近付き、両肩を押さえた。突然乱入した私の存在に、どことなく訝る空気が流れる。居心地の悪い敵意を浴びた。

「お姉さん!」

 弟は私を見上げた。全幅の信頼を感じる。希望、彼が今私に寄せてくれる期待は、地獄に垂れ下がった一本の蜘蛛の糸のような物だ。彼は劇的な事態の好転を期待していた。物語の運命を引き寄せる力が自分にあると、無条件に信じるように、まさに無垢な子供の夢物語を私に求めていた。私は言葉を発する。その場に集まっていた、誰の耳にも届く声。

「行ってください。……どうぞ」

 張り詰めていた空気が和らぐ。緊迫した糸が切れるように、大人達のため息や息遣いが聞こえる。希望の糸は今断ち切った。

「え、待って……待ってよ、なんで……」

 みるみる顔色が変わる弟を見たくなくて、彼の顔を自身に押しつけて覆う。くぐもった声が、なんで、なんで、としきりに繰り返し、次第に泣き声に変わっていた。複数人の物音は、荷台の音と共に遠のいていく。

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