第一幕 『あなたの期待に応えるために』

「どうだ、美味いか?」


「はい、とても」


 千景は赤月に連れられて台所の板の間に座り、彼が入れてくれた緑茶を飲んだ。


 口いっぱいにまろやかな甘みが広がる。


「棚上に饅頭もあるが、勝手に食べたことが緑埜にばれると叱られてしまうからな」


 赤月は一人分の空白を開けて千景の隣に座り、そうぼやいた。


「お饅頭は盗んだものですか?」


「買ったんだよ。俺たちは日常生活で盗みはしない」


 千景はわずかに肩の力を抜く。


 彼らの中に盗むことに対して明確な線引きがあることに、安堵してしまった。


「まあ、このお茶は政府の執務室から盗ってきた最高級の玉露だが」


「ごほっ!」


 なんというものを飲ませてくれたのだ。何度か咳をしてから赤月を睨みつける。


「……それは政府も容認しないのでは?」


「みな机にいただき物を溢れさせているんだ。あんなの持ち帰ってくれと言われているようなものだぞ。それに俺たちはどんなものでも一流を知っていないと、一流の社交場にまぎれて盗みを行えないからな」


 千景はぴくりと眉を動かす。思いがけず彼の話に興味がそそられてしまったのは、女学校の同級生たちと、いつか素敵な殿方と社交場でダンスを踊ってみたいと話していたせいだ。


(そうで違いないわ)


 表情筋に力を入れて湧きあがる好奇心をこらえていると、赤月は気づいているのか勝手に話し出す。


「懐かしいなあ。大物議員の秘書の一人として園遊会に行ったり、海外の要人を招いた舞踏会にも参加したことがあってなあ」


「そうですか」


 千景は小さく感嘆を漏らしながら、赤月の横顔を見つめる。


(……こんな風に一度だけでもいいから、和冴かずささまとも話をしてみたかったわ)


 両親が亡くなったとき、父方の親族からはなにも便りがなかった。後から聞けば絶縁状態だったらしい。


 右も左もわからず途方に暮れた千景に手を差し伸べてくれたのは、和冴だけだった。


 彼は幼い頃から正義感が強く、常に人の手本になるほど礼儀正しく、とても心強かった。


(……昔はサイコロなんかで遊んだりもして)


 偶数か奇数のどちらの目が出るか予測をして楽しんだ頃が懐かしい。


 千景が和冴からのやり直しに応えていたのは、他に行くあてがなかったからという理由もあるが、ただ彼に認められたかったという想いもあった。


「なあ、いま誰を思い浮かべている?」


 気づいたら、赤月が膝上で頬杖をついて不服そうに千景を見つめていた。


「俺を別の男と重ねただろう」


 心臓が跳ねた。千景は口をつぐんで目を逸らす。


「誤魔化しても無駄だぞ。話してみろよ、緒方和冴のことを」


「……でも」


「たまには鬱憤を吐き出したってバチは当たらないさ」


 妙に力強い言葉に、千景は「では」と話し出す。


「障子の組子にほこりが残っていただけで一週間ほど嫌味を言われ続け、味噌の配分を間違えただけで、いつもと味噌汁の味が違うと箸を置かれ、好みの味になるまで作り直しを強制されました」


 甘ったるくて人を見下す声が脳裏にはっきりと浮かび上がる。


『今日はほこりひとつ残していないのか。僕の教えがよかったからだね』

『塩味が強い。こんなの人様に出せない。やり直しだ』

『まったくお前というやつは。や、り、な、お、し』


 幸いなことに暴力や恫喝はなかったが、永遠に終わらないやり直しの声を一年中聞いていれば頭がおかしくなる。


「ほかにも学校帰りに友だちと餡蜜を食べて帰ってきたときなんて、時間が余っているなら労働を増やそうかと使用人の分の針仕事を任されたり。ひどかったのは雪の降る夜に廊下にしめ出されたときですね。ただ街中で男性から道を尋ねられただけなのに、それを使用人に見られて和冴さまに告げ口されて。婚約者がいるのに軽率に男性と話すなと叱られて……あの日は寒かったわ」


 千景が遠い目をすると、いつの間にか赤月が黙り込んでいた。しかも彼は苦虫を噛み潰すように顔をしかめる。


「法を犯していないからってなにをしてもいいとはかぎらんぞ」


「なんだか赤月さまが言うと説得力がありますね」


 千景がぽろりと本音を漏らすと、どちらからともなく顔を見合わせ、苦笑した。


(ほら、やっぱり赤月さまはわたくしがなにを言っても受け入れてくれる)


 どうしてこんなに心優しい人が泥棒をしているのか。不思議で仕方ない。


 赤月はため息をひとつ吐いたあと、歯を見せるように笑う。


「そんなやつ、捨てて正解だったな」


「――え?」


 予想外の言葉に、千景はうろたえる。


(わたくしが和冴さまを捨てた?)


 そんなつもりはなかった、と思いかけて千景は目を見開く。


(では、どうしてわたくしは和冴さまから逃げたの?)


 彼と縁を切り、新しい生活を手に入れたかったからなのか。


(ああどうしましょう……そんなこと、周りが許すはずがないわ)


 不意に緒方家の使用人や女学校の先生方の顔が頭に浮かび、自分はなんて愚かな行為をしたと認識し、冷えた体をかき抱くように両腕で自分の体を包み込む。


 だが、不思議と高揚感も湧きあがるのは、邪道な考えこそだからか。


 千景は動揺のあまり、赤月の言葉を否定する。


「捨てられたのはわたくしのほうです。いまごろ新しい婚約者を選んでいるはずですから」


「まあそうかもしれないが。あいつは粘着質な男だからな。一度手中にあったものはなかなか手放さないのではないか?」


「……なるほど」


 思い当たる節はあった。千景が眉を寄せて苦々しい表情を浮かべると、赤月はくすりと微笑んでから「千景」と名を呼ぶ。


「よく頑張ったな」


「――」


 喉奥が張りつめる感覚がして、千景はぐっと息を呑む。


(ああ、この人はまた欲しい言葉をくれる)


 その場で膝を立てて顔をうずめると、嗚咽をこらえるように声を噛みしめる。


 赤月は千景の背中に触れたりさすったりはしなかった。距離を保ったまま、黙って隣にいてくれた。



◆◆◆◆◇


 徐々に柱の張り紙が減ってきた頃。


 千景は羽はたきを手に持ったまま一息つく。首筋にはじんわりと汗がにじんでいた。


 梅雨が明けて夏の季節がやってきたのだ。


 いま千景がいるのは書斎だった。一面がすべて本棚で、古本の独特な匂いが漂っている。


(外国語の背表紙が多いのね。哲学書かしら?)


 見たこともない外国語で書かれた本もあって、眺めているだけで飽きないが、誰が読むものだろうか。


「あっ」


 羽はたきの羽が床に舞い落ち、立派な書斎机の下に入ってしまった。千景はしゃがみ込んで手を伸ばしていると、部屋の外から足音が聞こえてくる。


 扉が開くと同時に、赤月の鋭い声が飛ぶ。


「花岡男爵家の長男と篠田商会の長女の結婚を祝う園遊会に参加しろと命令が来た。どうやら花岡家が最近購入した鈴蘭が描かれた花瓶が『アーティファクト』の可能性があるらしい」


 千景は書斎机の下で身を硬直させる。完全に出ていく機会を失った。


 あーてぃふぁくと、という単語に眉をひそめるが、それよりも聞き捨てならないことがある。


(篠田商会ってまさか)


 息をひそめていると、黄蝶は千景に気づいていないのか、端的に口を開く。


「青兎からは?」


「あいつも今回は当たりだと言っていた。花岡家が所有する屋敷の図面と出入りしている者の資料もある。頭に叩き込んでおけ」


 誰かが書類を手に取ったのか、紙の束がこすれる音がした。次に緑埜の静かな声が響く。


「家族構成は当主の花岡誠はなおかまことに、妻の佐代子さよこ。長男で次期当主の誠一郎せいいちろうに最近嫁いできた妻の侑希子ゆきこですか……」


「どういうことですか」


 千景はいてもたってもいられず、立ち上がる。


 その瞬間、三人から鋭い視線を向けられるが、怯むわけにはいかなかった。


「なんだ、いたのか」


 赤月は真顔のまま驚嘆を漏らした。


 その一方で、黄蝶と緑埜は眉間にしわを寄せて口を閉ざしていた。


「君がいることに気づかずに話していた俺たちに落ち度はあるが、大切な話をしている途中でな。悪いが、この部屋から出ていってくれるか?」


 赤月も多少は動揺しているのか、いつもより言葉に棘があった。


「――あの、女手は必要ありませんか?」


 瞬時に思考を巡らせ出てきた言葉は、自分でも予想外なものだった。


 黄蝶が冷ややかな目で千景を見つめる。


「千景ちゃん、自分がなにを言っているのかわかっているの?」


「はい。園遊会での作法はわかります。みなさまが情報を集めるために、どうぞわたくしを利用してください。


 前置きしてから、千景は不敵に微笑む。


「出来がよければ追加報酬のご検討を」


 背中に冷や汗が伝う。


(わたくしはきっとどうかしている)


 だが、自分の中にある正義と犯罪の境界線が曖昧になるほどの、探求心と執念が心の奥底でくすぶっている。


 白浪一族が侑希子になにをもたらすのか――この目で見たい。


 その上で懐中時計を弁償するためのお金を稼ぎ、新天地で生きていく術を身に付けたかった。


 胸に決意を宿らせると、赤月はおもむろに腕を組む。


「君を強い子と評価したのは俺だが……いやはや」


 そう言ってから、豪快に笑う。


「あっはっは! やれるものならやってみろ!」


「赤月!」


「赤月さま」


 すぐさま黄蝶と緑埜が止めに入ろうとするが、赤月の意志は変わらない。


「いいじゃないか。使えるものはなんでも使うのが俺の信条だからな」

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