四 蜘蛛の

 警戒を緩めぬまま、一歩一歩、たしかに階段を上る。俺たちは屋上を目指し、いま九階に差し掛かろうとしていた。ゆめちゃんは俺に肩を貸してくれている。体を動かすたびに右腕から激痛が走るので、気分はどうしたって悪くなる。いつの間にか、無意識にうめき声が漏れていた。

 先を歩いていた聖が振り向く。

「すごい顔色だ。ぶっ倒れそうだぜ、お前。ちょっと休むか?」

「いや、大丈夫だ。早いところ電気を復旧させて、助けを呼ぼう。タンク運ぶの、全部聖に任せて悪いな」

 軽油のタンクは、俺が運んできた分まで聖が請け負ってくれていた。二〇リットルのタンクを二つ両手に持って階段を上がるのは、聖にとってもそれなりに辛いはずだ。

「んなこと気にしてんじゃねぇ。じゃあ、とっとと行くぞ」

 聖の歩調がやや早まる。続いてまた歩き出そうとしたとき、ゆめちゃんが小さな掌で俺の背をそっと撫でた。

「無理しないで、ね」

「ああ。ありがとう、大丈夫だよ」

 ゆめちゃんを安心させるように微笑むと、先ほどよりも力強く階段を登っていく。藤薪病院のB棟は一〇階建てであることを俺は知っている。ここまでくれば、屋上まではもうすぐだ。

 結果から言えば、幸いなことに、六階から屋上までの道中で克死患者に出くわすことはなかった。屋上に続く扉には鍵が閉まっていたが、聖が持ってきていたマスターキーで難なく開く。聖が重そうな鉄の扉を開き、外へと出ると、俺たちもその後に続いた。

 太陽は真上から傾きつつあるが、まだまだ明るい。雲が微かにかかった青空が見える。吹き抜けていく風が薄着の体に強くあたり、体温がどんどんと奪われていく。長居したい環境ではない。しかし、金網に囲われているとはいえ、久しぶりの外は気分が良かった。

「おい、陸玖。その発電ができる機械ってのはどれのことだ」

 聖に問いかけられ、俺は屋上全体に視線を巡らせる。

 屋上の中央部には広々とした空間が確保されており、大きくHのマークが記されていることから、そこがヘリポートであることがわかった。そのほかのさまざまな装置は、ヘリポートの邪魔にならないよう隅にまとめて設置されている。目的のものは、すぐに見つかった。俺もそれらのものに詳しいわけではないのだが、自家発電装置の写真が、エントランスの壁に張り出されていたポスターに載っていたためだ。

「あれだ。どこかから燃料が入れられるはずだ」

 ゆめちゃんの肩を借りたまま発電装置の元へと移動すると、膝をついた。装置の扉についたハンドルを捻って開き、中を確認する。当然、こういった装置を操作したことはない。だが、配電盤にもそれぞれラベルが貼られている上、扉の内側に説明も書かれており、誰でも使用することができる仕組みになっていた。

「聖、燃料タンクがそこにある。運んできた軽油を入れてくれ。入るようなら全部」

 聖に指示し、燃料の充填が終わるのを待つと、説明のとおりに発電装置を起動させる。スイッチを入れると、発電装置はエンジン音のようなものを響かせて動き出した。

「これで、電気が復旧したのか?」

「手順どおりにやったし、ちゃんと動いてるみたいだから、多分できてると思うが、よくわからないな。とりあえず、電話が繋がったか確認しよう」

 二人を促し、共に院内へと戻る。


 屋上につながる階段から一〇階に降りかけたところで、すぐ変化に気がついた。廊下の天井照明が煌々とついている。

「やった。陸玖、ゆめ、やったぞ!」

 聖がはしゃいだ声を出す。そんなに嬉しそうな聖の声ははじめて聞く。常に薄暗かった院内に光が差したことで、引きずられるように気分も上向いた。俺も自然と足が早まり、三人で共に階段を降りていく。

 しかし。そのまま電話機を探して一〇階のナースセンターに向かおうとしたところで、絶叫が響いた。

「ああああああっ、助けてえぇ、誰かああぁっ」

 それは、克死患者の発する奇声とは違う。

 明確な意思を感じる切実な女性の声は、目の前にある病室から聞こえてきていた。俺と聖は思わず顔を見合わせると、すぐさま声のする方向へと走り出す。閉まっていたドアを開け、中へと入る。

 そこそこの広さのある病室には、通常の病院では考えられないほど、過密にベッドが押し込まれていた。すべてのベッドには、俺が目覚めたときと同じように、手足を拘束された人の姿がある。

 ここのベッドに横たわるのは、全員が女性だ。彼女たちは口々に獣めいたうめき声をあげながら、拘束された手足を可能な限り動かし、もがいている。

 俺たちが部屋に入ってきた音に反応を示したのは、その中でただ一人。肩のあたりまでの、緩く癖のついた黒髪をもつ中年の女性が、病室の中央付近にあるベッドに拘束されて横になっていた。彼女はこちらへと視線を向けて、またすぐさま声を上げた。

「助けて、助けてぇええっ。すごく痛いの。いま、急にっ」

 彼女の肌は、生きている人間とは思えないほどに血の気が引いている。しかし、しっかりと俺たちを認識し、理解できる言葉で助けを求めている。様子からして、彼女が克死状態から脱していることは確かだった。

「待ってろ、いま助ける。どうしたんだ、なにが痛い」

 病室に置けうる限りのベッドが詰め込まれているせいで、人が通れる通路が確保されていない。聖は必死に問い返しながら、他の克死患者がもがいているベッドをいくつも乗り越え、ときにベッドの上を歩き、色白の女性の元へと進む。ベッドに横になっている患者の何人かは、近づいた足や体を掴もうとしてくるので注意が必要だった。

 俺とゆめも、その少し後を続いていく。

「腕が、いや……全身が、全身がいたっ……ぐう、うううっ」

 色白の女性の声は、そうこうしている間にもどんどん弱まっていく。

「おい、しっかりしろ。アンタ、名前は何ていうんだ。いつ目が覚めた」

「わ、たし……直美なおみ……お、ととい、の……っが、ぁ」

 痛みを訴えていた直美は、今度は苦しそうに大きく胸を上下し、口を開けて、必死に息を喘がせる。

 聖からの問いかけに、直美が答えようとしていた内容が聞き取れたのはそこまでだ。続く声は、言葉にならない。

 ようやく聖が直美の横へとたどり着く。だが、触れられる距離にいるからといって、彼女をすぐさま助けられるわけではない。巨漢に襲われかけていた俺のときと違い、彼女の身に、目にみえる危険が迫っているわけではないのだ。

「どうしたんだ。なにがあった。おい、おい!」

 聖はなすすべなく、息苦しそうに悶える直美の体を揺するしかない。すると、彼女の手足の枷が金属音を立てた。

「待ってろ、いま拘束を外してやるから」

「聖、待て! 枷は外すな」

 俺は慌てて制止の声を上げる。

「なんでだよ。苦しんでんだろ!」

 聖の声に圧倒されそうになるが、自分の気持ちを落ち着かせるように俺は大きく息を吸った。

「残酷なことを言うが、いまの俺たちに、その人はきっともう、助けられない。枷を外してしまっていたら、その人が克死状態に戻ったときに、体を傷つけるしかなくなる」

 眉を寄せながら、言いたくもないことを告げる。直美はもはや言葉を発することもできなくなったが、いまだに苦しそうにもがいている。彼女が克死状態に戻るのは時間の問題だろう。

 聖は俺の方を振り返ってから、直美の様子を改めて見て、立ったまま脱力する。

「コイツは、一昨日目が覚めたと言ってた。それなのに、急に苦しみだしたのはなんでだ。さっき陸玖の腕を折ったやつみたいに、体を失った克死患者のせいか?」

「いや……」

 言い淀み、視線を落とす。すると、もはや力が入らなくなり、ダラリと垂れた自分の右腕が視界に映る。その肘の内側には、皮膚が一部、青痣のようになって変色している箇所がある。骨折による内出血ではない。

 俺は、自分の右腕になにが刺さっていたのかを記憶している。俺は、克死状態から脱してベッドから離れたとき、右腕から、チューブに繋がる針を抜いた。

「もしかしたら、入院していた克死患者は、全員が等しく毒を盛られているのかもしれない」

「毒? 克死患者は食事もしないのに、どうやって」

「あくまで憶測でしかないが。腕に刺されている針から、点滴のように体に入れられているんだと思う。俺たちが院内の電気を復旧させたから、その毒を送り込む装置かなにかが、また作動し始めたんだ」

 俺には、ずっと気になっていたことがあった。なぜ、ほとんど外傷がない俺よりも、普通であれば死ぬはずの傷を負っていた聖のほうが、克死状態から復帰するまでの時間が短かかったのか、ということだ。

 もし、克死院に入院していた患者に毒が注入され続けていたのであれば、その回復に至るまでにかかった時間の差が説明できる。院内への通電がなくなり、装置が止まって毒の注入がされなくなったことで、俺はそれから数週間後に目を覚ますことができたのだ。

 つまり、克死院で克死患者に対して行われているのは治療ではなく、その逆の、容体を悪い状態でキープしておく行為だったということだ。

 俺の言葉を受け、聖は慌てて直美の横にかがみ込むと、彼女の右腕からチューブに繋がる針を抜いた。針の先からは、何か透明な雫がポタポタと垂れ続けている。

 しかし、針が抜けたからといって、彼女の様子が変わることはなかった。相変わらず息苦しそうにもがいている。様子からいって、まったく呼吸ができていないのだろう。世界が通常の状態であれば、もう死んでいるはずだ。

「おい、陸玖! どうして、良くならねぇんだよ」

「その点滴の中身がどういう種類なのかはわからないが、毒の注入をやめたからって、人間の体はそれをすぐさま解毒できるわけじゃない。……得体が知れなくて危険だから、その針と、垂れた液体から離れた方がいい。聖、こっちに」

「おにいちゃん」

 俺の言葉を補強するように、ゆめちゃんが聖へと呼びかける。聖は悔しそうな表情を浮かべていたものの、促されて俺たちの元へと戻ってくる。

 それからは言葉少なに、三人で再び廊下へと出た。


 俺はゆめちゃんを促し、一〇階にあるナースセンターへと向かおうとした。しかし、聖は無言のまま、いましがた俺たちが来た階段のほうへと足を向ける。

「聖、どこに行くんだ」

「A棟の地下に戻るんだよ」

「自家発電装置に入れた燃料が、どれくらいの時間保つのかもわからない。ここで電話をかけたほうがいい」

 俺が言葉を重ねたところで、聖は肩を怒らせて振り向いた。彼の瞳にこもっているのは怒りのようでもあり、いまにも泣き出しそうな様子にも見えた。

「外の奴に電話かけたところで、無駄だろ。助けなんて来ねぇよ!」

 怒声が、各所から呻き声が聞こえてくる廊下に反響する。肩を借りているゆめちゃんの体が、ビクッと震えた。

「可能性はある」

 俺はつとめて落ち着いた声を出す。

「ねぇよ。アンタだって、もうわかってんだろ。ここで働いてたヤツだか、運営してたヤツだか知らねぇが。ヤツらは克死患者がいずれ克死状態から回復することが、はじめからわかってたんだ。わかってたから、入院患者を毒漬けにしてたんろうさ。克死患者が回復することがねぇようにってな。

 あまつさえ、克死院は捨てられたんだ。ここはただのゴミ捨て場で、それ以上でも、それ以下でもねぇよ。ゴミ捨て場からゴミが助けてくれって連絡してきたからって、そんなヤツらが助けに来ると思うか? 無視するに決まってんだろ」

 怒りのこもった聖の声を聞き、俺はゆっくりと息を漏らした。聖の言葉はもっともで、俺も同感だ。だが、だからといって諦められない。

 目を閉じ、思考を巡らせる。頭の中に浮かんだのは、いままで克死院で見てきた複数の光景だった。それらがつながり、一つの仮説となる。

 俺は意を決すると目を開き、聖を見据えた。

「俺は、電話をかけて交渉をしようと思う」

「交渉? 助けに来てくれば金をやるとか、そういうことか? お前はもう死んだ判定されてんだぞ。もうとっくに、財産とかはお前のものじゃなくなってると思うぜ」

「いや。交渉材料は、『人を死なせる方法』だよ」

 口にしたくはなかった言葉を述べるとき、俺の声は自然、囁くように小さいものとなった。あまりにも強い言葉の並びに、ゆめちゃんも聖も、息を飲んだ気配がする。

「人を死なせる方法って、いまのこの世界で、ってことだよな。お前、なんでそんなこと知ってんだよ」

「いや、知っていたわけじゃないよ。薄々だがそうじゃないかと、ずっと思っていたんだ。だけど、間違っていない確信はある。だから、その方法を教える代わりに、俺たちをここから救出しろと掛け合うつもりだ。

 奇跡の日以降、人は死なないし、火葬で肉体を完全に滅ぼせば、悪霊のようなものが生まれる。増え続ける人口、増え続ける克死患者に、日本だけじゃなく、世界は打つ手がないはずだ。いまだ克死院に患者が搬入され続けている現状を見れば、それがわかる。克死院の運営者なのか、国のお偉いさんなのかはわからないけど、そういう人たちは、人を死なせる方法を喉から手が出るほど知りたいはずだ」

「それはそうだろうが。その方法ってのは、いったいなにをするんだ? それに、知ってるんだったら、どうしていままで危険な克死患者にその方法を取ろうとしなかった」

 聖からの問いかけを受けて、もう一度息を吐き出した。

「この克死院で、虫を足で踏み潰したことがある。あのとき、虫はたしかに死んでいた。俺は奇跡の日以降の社会がどうなっていたのか、ちゃんと把握できてはいないんだが。死ななくなったのは、人間だけだよな? 豚や牛なんかはいままでどおりに死んで、ちゃんと肉として食べられていた」

「ああ、そうだ。他の生き物も死ななくなったって話は、聞いたことがねぇよ」

「つまり、この世界から『死』がなくなったわけじゃない。どうして人間だけが死ななくなったのか、という疑問はあるが、とりあえずそれは置いておくとして……」

 そこで言葉を切ると、体を支えてくれているゆめちゃんを見る。

「ひとまず、ナースセンターに行こう。続きはそこで話す」


 一〇階のナースセンターは、雑然とした様子だった。ただし、その雑然さは克死院が放棄されたときの慌ただしさを感じさせるものであって、克死患者に荒らされたというわけではない。ゆめちゃんと聖が寝泊まりしていたA棟五階のナースセンターとも違う。

 ドアを閉め、狭い室内に他の者の姿がないことを確認する。安全が確保できたところで、ゆめちゃんには窓際の席にいてもらうことにした。

 俺と聖は、部屋に入ってすぐのところに置いてある電話機を確認する。電話機についている外線のボタンを押し、受話器をあげて耳に当てると、ツーツーという発信音が聞こえた。これで、外部に電話がかけられることは確認できた。

「それで。この世界から『死』がなくなってないからって、どうなんだ」

 一度受話器を電話機に戻し、問いかけてくる聖に視線を向ける。ゆめちゃんに話を聞かせたくないという俺の意図を汲み取って、彼の声は自然に小さくなっている。俺もあわせて声を低める。

「奇跡の日以降、この世界は人間だけが死ななくなった。じゃあ、人間ってなんだろう」

「そんな哲学的なことを、ここで話し始めてどうする。人間って言えば人間だろ」

「生物学上のヒト。つまり、ホモ・サピエンスだけが死ななくなったってことなら簡単だよな。だけど、もしその括りであればいっそう、地球上に数多いる生物の中で、どうしてヒトだけが死ななくなったんだ?」

「おれに聞かれたって知らねぇよ。前に話しただろ。たとえば、人間の魂が死んだら行く場所が、満杯になったんじゃねぇかって」

 頷く。握った拳に、自然と力がこもった。

「それなんだよ。聖が言ってたその言葉が、すごく腑に落ちたんだ。もし、人間の魂が行く場所が満杯になったんだったら、人間を喰い続けた人間の魂は、人間の魂が行く場所に行けるんだろうかって。人間を喰らう生物は、人間って言えるのかな」

 聖が目を見開く。

「それって、あのデブのことを言ってるのか」

「ああ。聖も見ただろう? あの階段のところでいつまでも起き上がる様子もなく、二晩経ってもそのまま……いや、他の克死患者には集らない虫まで湧いていた。腐敗しはじめていたんだ。これだけの克死患者がいる院内で、確実に死んだと言えるのは彼だけだ。彼と、その他の克死患者の違いを考えれば、人を死なせる方法は『人を食べさせること』だよ」

 俺が口を閉ざすと、しばしの沈黙が落ちた。俺は、その沈黙が、人を死なせる方法に関して聖からの異論がないことを意味しているのだろうと感じた。電話をかけようと手を伸ばす。

 しかし、聖は俺が持ち上げかけた受話器を上から押さえ付けた。

「待てよ。たしかに、お前の言うことはわかる。人を食った人は、死ぬようになるのかもしれない。だけど、その事実を広めちまったら、どうなると思う? 実験のために、生きたまま人をミンチにしたり、焼却炉で焼いたりしてたようなヤツらだぞ。人を死なせるために、人を食わせる社会が生まれるのか? それって、あまりにも地獄すぎねぇか」

「でも、他に方法がない。ずっとここにいたいのか? 当分の食料はあるが、無限じゃない。克死患者の搬入は今後も続くし、放っておけば、克死院は文字通りに克死患者で満杯になると思う。俺は、そんな克死患者の中の一人にはなりたくない。ゆめちゃんにも聖にも、なって欲しくないよ」

 また、しばしの沈黙。同じ受話器に手を置いている都合上、俺と聖は至近距離でお互いの瞳を見つめ合った。

 聖の片目は、出会ったときと変わらずに、包帯と髪で覆われている。その潰れた目が回復することはないだろうが、それでも、聖は死人にも、化け物にも見えない。一度も克死状態にはなったことはないゆめちゃんは当然として、聖もまた克死院の外に出ることができたら、再度新たな人生を送れるに違いない。

 俺の決意が伝わったのか、聖は息を吐き出しながら、ゆっくりと受話器に乗せていた手を引いた。小さく呟く。

「どっちに転んでも地獄ってことか」

「そうだ。なら俺は、こっちの地獄を取る」

 俺は受話器を持ち上げると耳に当て、一つの番号をダイヤルした。〇七〇−五七七三−〇〇一二。短い発信音のあと、プツッと短い音がして、人の声がする。

『はい、平良です』

 その聞き覚えのある声に、心臓が大きく鼓動しはじめる。

「あの奇跡の日の朝に人身事故を目撃して事情聴取を受けた、今泉陸玖です。俺はいま、克死院の中から電話をかけています」

 続いたのは、克死院からの脱出をかけた、外道の交渉だ。


 ——結果から言えば、俺が選んだ”電話をかける相手”は正しかった。

 交渉内容が事態の判断可能な上層部にまで届き、そして実際に決断が下るには、三時間もの長い時間を要した。いや、この常態的に判断の遅い日本という国で、三時間で決断が出るに至ったのは、むしろ格別に早いと評するべきなのか。

 俺、ゆめちゃん、聖の三人は、再び屋上にいた。太陽は山の向こうに消えかかろうとしている。オレンジ色に染まっていた空は、徐々に濃い紫色へと変わろうとしていた。

 ヘリポートの横に立ち、強風に抗うように目を眇めて、視線を上げる。爆音をたてながら、一機の大型ヘリコプターが近づいてくる様子が見えた。

 抱いている気持ちまでも同じかはわからないが、横に並んでいるゆめちゃんも聖も顔を上向けて、同じものを見ている。

 ふと、暖かい手の感触が触れた。視線を向けると、ゆめちゃんは空を見上げながら、左右の手でそれぞれに、俺と聖の手を繋いでいる。俺もまた、彼女の手をぎゅっと強く握り返す。

 ヘリコプターの姿はみるみるうちに大きくなり、爆風を巻き起こしながらも見事な運転技術でヘリポートに着陸した。

 ローターが回転を止めぬままにヘリコプターのドアが開き、そこから一人の男性が姿を表す。五〇歳代だろうか。きっちりと髪をまとめ上げ、体にフィットした高級そうなグレーのスーツを身に纏っている。男性はヘリコプターを降りると、身を守るようにお互いに体を寄せ合っていた俺たちの元へと近づいてくる。

「電話をくださった今泉さんは、どなたですか」

「俺です。ただ、この二人も一緒でないと、なにも話しません」

 二人を連れて行くのは駄目だと言われるような予感がして、思わず早口で告げる。男性はそんな俺の様子を見て、目尻の皺を深めるようにして笑った。

「そう警戒なさらずに。もちろん、三人に来ていただいて構いませんよ。ただ、今泉さんは右腕を負傷していると伺っていたものですから、お聞きしたまでです。ヘリの中で早速、応急処置をさせていただきます」

「あなたは?」

「申し遅れました。内閣克死対策室長の副長官を務めております、園上そのうえと申します。さぁ、どうぞヘリにお乗りください」

 内閣とは、随分と上まで話が行ったものだ。俺と聖は顔を見合わせてから、園上と名乗った男性の促しに応じた。三人で手を繋いだまま中へと乗り込む。

 直後にドアは閉じられ、一度もローターを止めていなかったヘリコプターは、すぐさま上昇をはじめる。

 ヘリコプターの中には、園上の言葉どおりに救急隊員の格好をした男性が二人待ち構えていた。何やら治療用の機材も見える。

「今泉さん、こちらへ横になってください」

 マスクで顔の半分を隠した救急隊員に呼び掛けられる。示された先にはストレッチャーが設置されていた。彼らや機器におかしな様子はないが、素直に従う気にはならなかった。

「いえ、そんな痛みませんから。治療は話が済んでからで、大丈夫です」

「そういうわけにはいきません。悪化しては大変です」

「搬送中に応急処置を済ませるようにと、指示を受けていますから」

「彼らはプロです。意地を張らずにお任せなさい」

 俺が一言断ると、二人の救急隊員に加え、園上までもが口々に反論してくる。救急隊員の一人には肩を掴まれ、体をストレッチャーの方へと押し込まれかける。

「陸玖さん!」

 繋いでいた手を半ば無理やり離され、ゆめちゃんが恐怖を感じたように声を上げる。その性急さに妙なものを感じた瞬間、先に悠々とした様子でヘリコプターの座席に腰掛けていた聖が吹き出す。

「こりゃお笑いだ。まるで、おれたちがいつ克死状態に戻るかって、怯えてるみたいだな。内閣克死対策室なんて大層な名前つけといて、克死状態に対する知識はゾンビ映画止まりかよ」

「……そんなことはない。あくまで、負傷している人間に対して迅速に適切な処置をしようと言っているだけでしょう」

 咳払いを一つ。園上が返事をする。

「そうかい。そんじゃ、ストレッチャーの数が足りねぇな。おれの右目は潰れて、頭蓋骨のあたりまで陥没してるんだ。一ヶ月以上も前の怪我で、その状態のまま克死院に放り込まれたんだがな」

 からりと笑う聖の言葉に、ヘリコプターの中が水を打ったように静かになる。

 俺は体を押し込もうとしていた救急隊員の腕を振り解き、ゆめちゃんと手を繋ぎ直して、聖の横に腰掛けた。聖はそんな俺の様子を見ながら言葉を続ける。

「治療ってのは、そいつとの信頼関係があるからこそ、体を預けられるもんだろうが。克死院なんていう、病院と医者のクソの溜まり場みてぇな場所から出てきたばかりのおれたちが、お前らを信頼できると思うか。いいからほっとけよ」

 地を這うような低い声。聖が園上へと向けた、長い前髪の間から覗く左目の眼光は、彼の身を切るように鋭いものだった。園上と救急隊員は、諦めたように各々が俺たちから距離を置くようにして席に着く。

 俺は、暮れにぼんやりと浮かぶ外の景色をヘリコプターの窓から見下ろした。遠ざかっていく克死院の姿が見える。あんなにも大きく感じていた建物だが、外から見るとちっぽけなものだ。

 窓という窓には鉄格子がはまり、三つある建物のすべての入り口は鉄板で塞がれ、さらに外側には、藤薪病院の時には存在していなかった高い塀が築かれていた。雰囲気としては、病院というよりも監獄といった方が近い。B棟の一部が火災で焼け落ちていることは外観からも窺い知れる。

 そうして観察を続けていたとき。その窓辺に、なにか白いものが浮かんでいるような気がした。白い靄が次第にしっかりと形を成していく。

 俺が、彼女を見間違えるわけがない。

「海美……ずっと、そこにいたんだな」

 克死院の姿は遠ざかり、ついにはすっかり見えなくなる。克死院を離れたことで、俺と海美との繋がりが完全に断たれたような気がした。

 瞳から、涙が一粒だけこぼれ落ちる。

「陸玖さん、大丈夫?」

 そんな俺の涙を目ざとく見つけて、横に座ったゆめちゃんが心配そうな声で問いかけてくれる。

「ああ、大丈夫だよ。何も心配いらないからね」

 窓から視線を引き離し、ゆめちゃんへと笑顔を見せる。

 たとえ、これから俺の口にする言葉によって、なにが生み出されようとも。克死院は紛れもないもない地獄であったと明言できる。ならば、その地獄から抜け出すための唯一の蜘蛛の糸を、俺たちは掴んだのだ。

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