マルマルとしたマル

晶蔵

第1話 坂道と猫

 東京には意外と坂が多い、と関西の知人に指摘されたことがある。三宅坂、神楽坂、乃木坂。道玄坂に鳥居坂、団子坂に柿の木坂。確かに「坂」のつく地名は多い。坂はつかないが荒木町も坂のある町で、上れば四谷、下れば曙橋、狭い通りに古い家々が肩を寄せ合う一角である。

 六月の宵が一番いいね、とおばちゃんは言う。

 それも初めのころ。

 梅雨入り直前、天候は不安定だが空気は爽やかだ。日は長くなり、ゆっくりと暮れる。ゆるやかな坂道のように時間を過ごす。

 おばちゃんは笑っていた。

 上ったら下る、下ればまた上る、それだけのこと。

 どういう分脈だったか覚えていないが、この一言が藍色に暮れかけた坂道に街灯が並び、薄暗い路肩を猫がひたひたと歩いていく姿と共に脳裏に染み付いてしまった。一幅の軸絵のような光景の片隅で猫は立ち止まりこちらを振り返る。

 そうさ。行けば戻る。戻ってまた行く。

 すぼめられた瞳が青緑色にきらめいて夜の神秘を告げている。猫たちはどこからともなく現れ、また消える。おばちゃんが飼っていた猫は「マル」と呼ばれていた。灰色の毛並みが綺麗な猫で、どこかでもらってきたらしい。マルマルしているから、とおばちゃんは言っていたが猫はたいていマルマルしている。初代のマルが消えるといつの間にか別のマルが現れた。茶色いぶちのある野良猫だったが、名前はマルだ。三代目も四代目もマル。おばちゃんにとって猫はみんなマルだ。

 いつの間に入れ替わったの?

 猫たちに問いかけてみる。

 戻れないときもあるのさ。往きはヨイヨイ、還りはコワイ、って言うだろう。いいかい、同じに見えて一つ一つ違う。犬や猫、花や樹はもちろん、風や雨も、朝や夜も。だから注意してよく見ておくことだネ。

 そんなことでも語ってくれないかな、と坂道にいる猫たちの瞳をのぞきこみ、飽くことなくにらめっこしていた。

 よほど暇だったということだろう。

 曙橋の袂にあった電子新報社という業界誌の従業員だった僕は手持無沙汰になるとカメラ片手に坂を上り下りしたものだった。記事も書かされたし営業もやらされて「カメラマン」と名乗るのはおこがましい状況だったが夢だけは大きかった。おばちゃんのセリフも聞いた時はそんなものかなあ、と思ったはずだがいつか忘れていた。三十年近くが経過してふと思い出したが文脈はわからない。


 あんた見ているとヒヤヒヤするよ、

 とも言われた。

 なぜ? 

 だって写真を撮るってことは相手からなにかを奪うことだろう。江戸時代の人が魂を盗られるからって撮影を断ったのもごもっともさ。カメラのレンズはピストルみたいに相手を狙う。そして視線で穿つ。違う? 知らない間に撮られて後で証拠として使われたりしたら最悪だよ。

 そう、おばちゃんは写真が嫌いだった。

 だからスナップの一枚も残っていない。あるのは猫たちの姿ばかり。道路に寝そべり、門の脇からのぞき、あるいは塀の上から飛び跳ねる。そのもの憂げな瞳がおばちゃんを思い出させる。過半がモノクロだがカラーもある。マル以外にもクロとかトラとか適当な名前をつけてはシャッターを切っていた。彼らはなにかを知っていた。知らないふりをしているが見ていた。見て悟っていた。人間が見ないようにしているものを。

 フレームの中から今もこちらを見返している。その瞳に映っているのはあのとき、夕暮れの坂道を歩いていた自分自身であり、おばちゃんなのだ。

 おばちゃんの店があった場所はコインパーキングになっていて「一日最大三千五百円」と書かれた看板が白々と照らし出されている。

 一日三千五百円。

 たかだか二坪ほどの土地だってこのくらい稼ぐのだなあ。駐車スペースを三つも持っていれば一万円を超えてアルバイトの日当に近い、などと考え込んでしまう。手前にあった藤原酒店がコンビニエンスストアになっていたのでそこで買った缶ビールを片手にいつもおばちゃんが佇んでいた敷地の境界に立ってみる。マンションが建って視野の一部が遮られてしまったが当時は北西の眺望が開けていて夕空を眺められた。ちょうちんのスイッチをオンにしてのれんを出した後、ぼうっ、と突っ立っている姿をよく見かけた。街に明かりが入り、路地に黄昏が忍び寄ると無性に人恋しくなる。昼は終わったがまだ夜は始まっていない。しがらみにとらわれた過去でも不安だらけの未来でもなく、なにもできない、なにもしなくてもよい、その刹那はかろうじて自由が享受できる貴重な隙間だった。

 雨、降りそうですね、

 と声をかけると、

 ああ、あんたかい、

 と腰をさすりながら厨房に入る。店内は広いとは言えずカウンターは十人も座れない。奥に小上りがあるがビールケースやジャガイモの箱などに占拠されていて使っているのを見たことはない。早い時間だとカウンターの上も作りかけの惣菜やおばちゃんの荷物でごたごたしていたので、なじみ客は戸口を入ったところにある一坪ほどの中途半端なスペースに陣取った。そこに飲み物の入った冷蔵庫と古びたスツールが置いてあり、まずはそこで勝手にビールやワンカップを取り出して飲み始めるのが常だった。

 よく一緒になったのは酒屋の女主人、藤原さんだ。おばちゃんと歳も近いらしく一番の友人だったのかもしれない。樽みたいな身体を揺らしながら大きな声で笑うので周りにいる者も気分が明るくなった。店を閉めるのが七時ころなので、テレビでニュースが始まったころに現れる。彼女の天敵はマルだ。いや、マルの天敵と呼ぶべきか。とにかく近くにいると互いにぴりぴりしているのがわかる。膝の上に飛び乗ったりしてコラッ、と叱られシッシッ、と追い払われる。

 おい若者、飲んでるか、と呼ばれて辟易とする。そんなに若くもないのですけど、と返事をするとなに言っているの、と引っぱたかれる。

 彼女の前にはドン、とジョッキが置かれる。

 ウーロンハイということになっているが、実はウーロン茶だ。酒屋なのに弱いらしく、お酒を猪口で一口飲むだけで真っ赤になってしまうのだ。もっとも飲まなくてもいつも陽気な酔っぱらいのような人だった。

 他に客が来ない日もあった。そんな晩は調理場の高いところに置いてあったテレビのニュースを聞き流し、どうでもいいクイズ番組を斜めに見ながら晩酌していた。クーラーがなくて夏は暑かった。表だけではなく勝手口もあけ放ち、カウンターに近所の氷屋が届けてくれた氷の塊を置いて二台ある扇風機をフル稼働してしのいでいだ。それでもなんとかなったものだ。

 美津子が現れたのもそうしたいつもの宵の口だったと思う。

 蒸し暑いなあ、と思っていたらマルが足元を通過してお気に入りのカウンターの隅のくぼみに収まった。瞳がきらりと光る。おこぼれをねだるのかと思ったらそうではない。じっと丸くなっている。急に冷たい風が吹いて、暖簾がまくれ上がった。同時にザアッ、という轟音が響き、安普請のトタン屋根もドラムのように鳴った。

 おやおや。

 おばちゃんは手を休めない。焼き鳥がジュウジュウと音を立て煙が立ち上っている。台風が来ていたような気もするがはっきりしない。道路に大粒の雨が落ちてはじけるさまが店内からも観察できた。たちまち水たまりとなり坂を流れ落ちていく。これじゃあ、傘も役に立つまい。ぼやいていると、再び暖簾が揺れて女が飛び込んできた。背後で「酒」と書いた赤ちょうちんが揺れている。

 ああっ、もう!

 と叫んでびしょ濡れになった身体を震わせる。髪が海藻のように首の周りにまとわりつき綿のシャツはペタリと肌について下着の線が透けてしまっている。

 災難ですね、

 とカウンターの隅に置いてあるテーブル拭きを渡す。おばちゃんも手を止めてカウンターを出ると、こっちへおいで、と奥へ導く。濡れた服を脱がしタオルで拭いているらしい。しばらくするとあてがわれたカーデガンを羽織ってカウンターの隅に座った。古いものらしく褪せた臙脂の毛糸はあちこちほつれていたが、それがまた妙に色っぽい。

「昨日、梅雨明けしたって言ったのに」

 女は手拭いで首のまわりをぬぐいながら口をとがらしている。

「夕立があるって天気予報で言っていたよ」

「本当? それにしても急じゃない。スタジオに傘はあったけどまさか降るって思わないから持って来なかったの」

 尚も文句を言い募ったがおばちゃんは厨房に入ってなんにする? と問いかける。女が壁に貼られて品書きを見ていると返事も聞かずにこれでいいかな、と焼酎のお湯割りが出た。梅干しが入っている。身体を温めた方が良い、ということだろう。いつの間にか屋根を打つ雨脚も軽くなってポトン、ポトン、と水琴のように鳴るだけだ。文字通りの通り雨だ。雲の割れ目から一瞬、橙色の光線がパアッ、と漏れて濡れたガラス戸越しにまだら模様を描く。

「少し待てばよかったですね」

 と話しかけて外を見ていると女は、嘘! と叫んで戸口に駆け出す。暖簾は湿って重くなっているがそれが払われると西の空が見えた。

 あら、虹!

 と子供のようにはしゃいで手招きする。つられるようにして並んで立つと不安定に蠢く雲の塊に見事なアーチがかかっていた。

「あたし、いつもこうなの。間が悪くてさ」

「虹が出たってことは幸運でしょう」

「子供の頃からね、自分の番が来るとお菓子がなかったり、お手伝いに張り切って出かけると間に合っています、って言われたり。好きな人に告白しようとしたらその人が別の人に告白しているところに出くわしたり。笑えるでしょう? 」

「運が悪かっただけです。誰でもそういう時があります。その分、あとでいいことがありますよ」

「いいのよ、慰めてくれなくても。運じゃないの。感覚がズレているのよ。常識がないってよく言われるし。どうしてそんなにドジなのかって親や教師に叱られたけど仕方ないのよ。父さん母さんみたいにきっちりした生き方はできません、あたしは自己流で行きます、って宣言した」

「それはそれで立派じゃないですか」

「ずいぶん前の事よ。とにかく後戻りできないから突っ走るの」

 へえ、と見やると女は楽しそうに笑った。眦に皺が寄って若くはない、とわかったが、小動物めいた陽気な表情は明るい。頬骨が高く陰影の深い顔立ちで好みは分かれると思うが被写体としては面白い。

 確かに走っていた。

 そしていきなり飛び込んで来た。

 おばちゃんも笑っている。そしてあんたたちお似合いかもよ、などといきなり変なことを言い出す。

 あたし、井田美津子、と彼女は名乗った。知らないでしょう、と。聞けばラジオのパーソナリティだという。道理でよくしゃべるわけだ。

「デジャヴって知っている? 前にもこんなことあったかなって思う瞬間のこと。さっき鳥肌が立ったのよ。少し待てばよかったですね、ってあなたが言ったでしょう。あのセリフに聞き覚えがあった。その後に起こることがわかっていたの。虹が見えるって。その通りになった」

「不思議ですね」

「運命だよ」

 おばちゃんがまたおかしなことを言う。運命なんて決まっていない。現実は隘路を転がり落ちる球みたいに制御できずにどんどん先に行ってしまう。だけどすべてがあらかじめ定められているわけではない。運命論は敗者の論理だ。自分の至らなさを棚に上げ、思わしくない結果の責任を都合よく他者に押し付けようとする。逃げだ。そう考えたかった。若かったからかもしれない。

 今なら少し違う感想を持ったに違いない。

 おばちゃんのやつれた面立ちや盃を持つときの指先の震え、細められた瞼の奥の涙がにじんだように見える瞳。運命だ、と断言するにはそれなりの理由がある。あえて言えば「時間」だろうか。時の経過について知っていたから、歳月との向き合い方を経験から学んでいたからあんな言い方をしたのだろう。

 美津子はため息をついて、グラスを煽った。

「運と運命は違うと思うのよね。運は変るけど運命は変らない。敷かれた線路みたいな運命なんてないと思う。だけど運のよしあしは感じる。みんなそうでしょう? でなければ初詣とか行かないものね」

 と呟く。

「それも運命さ」

 おばちゃんは食い下がる。初詣に行って宝くじがあたりますように、とか結婚できますように、とか祈ってもいい、だけどそんなこと大方、決まっている。宝くじはあたらないし、結婚したいのならすればいい。相手はなんとかなる、と。

「ならさ、枕の上で虫が死んでいたの。これはどう? 吉なのか凶なのか。どちらでもないのか」

 あらゆることは因果の糸で繋がっているが複雑すぎてすべてを予測することなどできない。これが仏教の説く縁起だ。後になって部分的につかめることもあるが所詮、人間の知恵など限度が知れている。現代科学をもってしても万象を解き明かすことなどできない。

「あんた次第さ」

「あたしがどう思うかで決まるってこと? 」

「いいことが先か、後に取っておくか。どちらかで解釈が変わるのよ。虫はなにかを知らせてくれたのかもしれない。悪い出来事の前触れとかさ。反対にライバルが倒れたって知らせているのかもしれないよ」

 まさかね。

 足元にマルがやって来て低く喉を鳴らすと美津子は表情を緩めた。ふと思いついてカメラを取り出し「写真を撮っていいですか」と尋ねたが、ダメダメ、と手を突き出す。こんな恰好、恥さらしだから、と。

「魅力的ですよ」

「あなた、カメラマンなの? 」

「ええ。一応」

「そう、また今度ね。でもちょっとそれを見せて」

 カメラには興味があるらしい。アナログ時代の名機、ニコンF3。渡すと、うわっ、と歓声をあげる。ずしりと重い。細い腕をあげて構えている。こうするのです、と手ほどきするとすかさずこちらに向けてシャッターを切った。

 カシャン、

 と大きな音がして僕の間抜けな表情が写された。あのときの笑い声が今も耳朶に響いている。

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