試合は進み、問題の七回はすぐに訪れた。

 そして、もう野球部の遅球戦略に四葉は気付いていた。


「あの人達……また……」


 ランナーを一人四球で歩かせてしまっている、ツーアウトの状態。

 兄斗は息を切らしていた。


 ――きつい……な……。

 ――今までの試合は五回コールドで一試合二十~三十球くらいしか投げてこなかったけど……今はもう五十八球……。

 ――五十を超えた辺りからマジで腕が痛い……。真っ直ぐ投げるだけなのに……それをまともにできない……。


 兄斗の限界は近付いていた。

 一方で得点はいずれも零点のまま。

 試合が動く時は、もうすぐまで来ていた。


「ストライク! バッターアウト!」


 それでも、兄斗は何とかして投げ続ける。

 明日は疲労でまともに動けないことだろう。

 いや、腕の筋肉痛は恐らく一週間以上続く。

 彼はベンチに座ると左手でスポーツドリンクを浴びるように飲んだ。


「旦那様! 大丈夫ですか!? わたくしが変わりましょうか!?」

「……ちょっと静かにしてくれ。マジで疲れてるからさ」


 そう言うと、ツァリィはとても申し訳なさそうに口を閉じた。

 彼女は冗談ではなく本気で兄斗を慕っているのだ。


「あの人達……ずるいです! 先輩が疲れてるのを知っててこの戦術……!」

「俺らが一点でも入れたら話は別なんだけどなぁ……」


 疲労が取れるわけではないが、リードしていればそれだけで精神的には遥かに楽な気持になれる。

 スコアレスな状態がさらに兄斗を苦しめた。

 そんな彼の様子を見て、四葉は生まれて初めて他人のことを心配する。


「アンナさん、何とか出来ませんか? 彼の能力に弱点とか……」

「無いわね。プロなら打てることもあるだろうけど、私達みたいな素人じゃバッターボックスに立つだけで腰が引けちゃうもの。それに、彼は自分の肉体そのものを常にベストコンディションに再現できる。こんな球技大会に一軍投手の彼が顔を出せるのは、身体が疲労しても回復できるからなのよ」

「うぅ……そんなぁ……。このままだと先輩の方が先に限界来ちゃいますよぉ……」

「……みんなごめん」


 兄斗は静かに口を開いた。

 四人とも彼の方を向く。


「やっぱり僕以外がピッチャーをやるべきだった。僕の所為だ。僕がピッチャーやりたいなんて言い出したから……」


 ピッチャーをやりたいと言い出した理由は、ただレイゼンに対抗意識を燃やしたからだ。

 四葉の前で格好つけたかっただけだ。

 精神的にも疲労が溜まると、彼はネガティブ思考に陥った。


「そんなことないですよ!」

「……花良木?」

「元々……私の我儘に付き合ってもらっただけじゃないですか。そんな悲しいこと言わずに、先輩はただ楽しんでください。そのための球技大会でしょう?」

「…………うん。ありがとう」


 嬉しい反面、兄斗は僅かながら彼女のその言葉の裏に微妙な違和感を抱いていた。

 まるで、自分は楽しむつもりがないような言い方に聞こえたのだ。

 この球技大会は学生間の交流を主な目的にしている。

 一方、彼女はただレイゼンに一泡吹かせて満足することしか目的にしていない。

 他人との交流を目的にしていない彼女からは、少しだけ寂しさを感じられた。


「……しかし、このままでは先にこちらが点を取られるのは明白。うーん……先輩が軽く投げたボールを『リフレクション』でストライクに入れるって方法は駄目なんですか?」


 兄斗は首を横に振った。


「それは駄目だよ。昔、投球が飛んできた鳩にぶつかった事例があったらしいけど、その時はボールデッド……『やり直し』になったんだ。逆に打球が空を飛ぶものにぶつかったときはインプレー……『試合は中断されない』って決まりがある。だから審判は僕らのフライアウトの取り方に文句を付けないんだ。けど、もし今花良木が言ったようなことをすれば、今度は何食わぬ顔でボールデッドを宣言するに違いない」

「でも! 何度も同じことを続けていたら審判も根負けしたりとか……」

「それも無理。試合放棄とみなされる可能性がある。僕はさっき相手チームに野球規則を盾にこっちのやり方を認めさせたんだ。いくらお遊びとはいえ……こっちからあからさまに規則を破るわけにはいかないんだよ」


 手詰まりだった。

 それでも、兄斗は微笑んだ。


「……ま、任せてよ。運の良いことに、今日の僕は絶好調なんだ」

「先輩……」


 精一杯四葉の前で格好つけてみせる。

 その効き目は多少あるかもしれないが、無理をしているのは明らかだ。

 だが、しかし――。


     *


「……凄まじい精神力だな。君口兄斗……」


 八回表、兄斗は全力で抑えきってみせた。


「球は初めに比べて勢いも無い。コントロールはメンタルだけで何とか出来るものじゃないが……それでもたいした根性だ」


 野球部監督の男は、野球素人の兄斗を高く評価した。

 野球選手としてではなく、一人の男としてだ。

 キャッチャーで老け顔の青年は監督に尋ねる。


「……監督、どうします?」

「……この試合は多くのファンに見られている。遊びとはいえ……恥ずかしい結果は見せられない。だから全力で勝ちにいったが……まあ、引き分けでもいいレベルのものにはなった。あの男のおかげでな」


 フッと笑ってみせる。

 監督も他の多くの選手も、君口兄斗という男をそれなりに見直していた。

 しかし、レイゼン・ルースは憮然とした表情を見せる。


「……レイゼン、どうした?」

「……勝てなかったら……俺はどういう評価になる? 素人にも勝てないエースピッチャーか?」


 キャッチャーに対して問い掛ける。

 その眼差しはどこか怯えを見せていた。


「……ただの素人じゃないだろ。お前と同じ狂信者ファナティクスだ」

「だったら俺は同じ狂信者ファナティクス相手じゃ役に立たない木偶の棒か? 所詮は野球選手としては似非。俺は……」

「レイゼン」

「……ごめんなさい、キムさん。俺……」

「気にするな。これはただの球技大会……そうだろ?」

「…………」


 彼は向かいのベンチにいるアンナに視線を向ける。

 彼女のその氷のように冷たい瞳と、目が合った気がした。


     *


「ヒット・バイ・ピッチ!」


 八回裏。

 審判によるそのコールは、レイゼンの投球による『デッドボール』を意味していた。


「ぐぁ……が……」

「上柴!」


 上柴は左腕を抑えて蹲った。

 そこがボールの当たった部位だったのだ。


「…………」


 顔面蒼白なのはレイゼンだった。

 彼はこの試合、始めて打者の体に近いボールを投げてしまった。

 キャッチャーもその事に僅かだが動揺を見せる。


 ――レイゼン……お前……。


 すぐに上柴の傍に駆け寄った兄斗は、キリッとレイゼンを睨みつけた。

 ただ、彼もレイゼンの青くなった顔を見て察してしまった。

 レイゼンの心中に潜む、『呪い』とも言えるものを。


 ――……ああ、そういうことか……。


 納得すると、兄斗は上柴を立ち上がらせてベンチに共に帰る。

 そうしてやがてイニングが終わると、四葉は激しく怒りを露わにした。


「何なんですかあの人! 私達みたいな素人相手に当てたりします!? 普通! だったら初めからあんな威力の球投げるなって話でしょう!?」


 怒りは最もだが、同調出来る上柴は既にベンチ裏に下がってしまった。

 残る三人は何も言わない。


「ねぇ先輩!」

「……それより、次の守備どうする? 上柴しかキャッチャーの練習してない。棄権して終わるか?」

「終われませんよ! 上柴さんの仇を取りましょう! 私がキャッチャーします!」

「え……出来るの?」

「わかりませんけど……このまま棄権したら悔しいじゃないですか! それに何より……私が『納得』出来ない! 私はそもそも『納得』するためにこの球技大会に参加したんです! こんなやり方で勝っても……私も……彼も、きっと『納得』出来ない。出来るはずがない……」


 彼女の言葉の中に『彼も』というのが出てきた時点で、兄斗は四葉も気付いているのだと理解した。

 確かにこのまま負けるわけにはいかない。


「……そうだな。じゃあ……僕の球、受けてくれる?」

「もちろんです!」


 二人の間に、少しだが信頼関係が生まれようとしていた。

 そのことに気付いていたツァリィは、何故か満面の笑みを向けていた。


「ああ……素敵です。流石は我が旦那様。そして……旦那様の愛するお方……」


 彼女の本意は誰にも気取られないまま、試合は最終局面へと向かう。


     *


 九回表。

 即席キャッチャーの四葉は想像以上にまともにキャッチングが出来ていた。

 しかし、兄斗の限界はもうとっくに過ぎている。

 四球を三回だし、ツーアウトとはいえ満塁の状態。


「ハァ……ハァ……」


 兄斗は息も絶え絶えで、視界には靄が掛かり始めていた。

 バッターボックスに入るのは、巡り合わせなのかレイゼンだった。


「……どうしてアイツはあんなに頑張っているんだ? たかが球技大会で……」


 レイゼンはキャッチャーの四葉に声を掛けた。

 初めて話し掛けられたことに一瞬驚くが、四葉は鼻で笑ってみせた。


「楽しいからじゃないですか? 私はただ勝ってスカッとしたいだけですけど」

「……楽しいか? こんなの野球じゃないだろ」

「いや貴方が言います? 貴方だって……」


 そこまで言って、口をつぐんだ。


「……俺は……楽しいと思ったことはないよ」

「え?」


 二人の会話は他の人間には聞こえない。

 聞こえないはずなのに、外野にいるアンナはまるで聞こえているかのように目を細めた。



 ズォォォォォ



 ストライクツーのカウント。

 兄斗は必死な形相でど真ん中にボールを投げた。

 しかし――。


「あっ――」


 極度の緊張感が、四葉のミスを呼び込んだ。

 捕逸によってボールは後方へ。

 すると、三塁ランナーがホームベースに突進してくる。


 ――しまった……!


 四葉はマスクを取り、急いでボールを取りに行く。

 しかし、間に合わない。


 ――そんな……!



 ヒュンッ



「そら来い!」

「何ッ!?」


 三塁ランナーは驚愕する。

 兄斗のバリアが、四葉の後方に飛んだボールを跳ね返す。

 三塁ランナーが戻ってくるその直前に、ホームベースに足を付けた兄斗のグローブへと……。



 バシィンッ



 タイミングは、明白だった。


「……アウトォーッ!」


 兄斗は振り逃げを狙ったレイゼンに微笑んで見せた。


「……!」


 その笑みから何を感じ取ったのかは、彼以外知る由もない。

 兄斗のもとに内野のツァリィがやって来る。


「旦那様ぁ! 流石です! わたくしもう! ああ……! 旦那様は宇宙一です!」

「花良木」


 兄斗はわざとツァリィを無視して四葉に声を掛ける。

 申し訳なさげだが、彼女も小さく微笑んでいた。


「……先輩。ごめんなさい、私あれだけ意気込んだのに……」

「ん? 想定内だよ? 捕逸のコールがされた後なら、投球扱いじゃないしバリアが使える。僕が懸念してたのは捕逸するかどうかじゃなくて、キャッチャーフライを取れるかどうかだけだったから。……まあ、キャッチングの練習してくれていた上柴には悪いけどね」


 この大会、予選と決勝には延長戦が無い。

 つまりこのままいけば引き分けだ。

 だが、試合は意外な形で決着が付く。


     *


 九回裏。

 四葉がアウトになると、上柴を飛ばして兄斗の打順が回ってくる。

 元々が五人なので打席の回数は多いものの、ここまで青春レイドは一度もバットにボールを当てることが出来ずにいた。

 ひとえにレイゼンの『再現性』が発動しているためだ。


「……『再現性』か」


 バッターボックスに入る前に、兄斗はキャッチャーである老け顔の男に聞こえるくらいの声で呟いた。


「どうした?」

「……もしホントにベストなコンディションを再現し続けるのなら……色んなコースを投げ分ける理屈が不明だ」

「何だと?」


 兄斗は自分と四葉の会話を思い出す。



――「ドーピングと何が違うんですか?」

――「彼自身が『その力』を抑えられないところ。『お前は狂信者ファナティクスだから野球するな』なんて言う奴はいないだろ? まあ世界のどれくらいの人が、カースを知ってるか知らないけど」

――「……納得いかないです」



 そう。

 本来レイゼンの力は『制御』が効かないはずなのだ。

 だからこそ彼はその力を使いながら野球をすることが許されている。

 しかし、もし……?

 話は大きく変わってくる。


「……もし『あの力』を抑えられるのなら……制御できるのなら……話は変わるんじゃないですか?」

「…………」

「制御できるのなら、他の誰も使えない力を自分だけ使うのは卑怯って話だ。本当は……どっちなんですか?」

「……嘘なんて吐かないよ」


 兄斗は同情を寄せるかのように微笑んだ。


「ええ、そうかもしれませんね。制御は出来ないはずだ。そうでないと……デッドボールの説明がつかない。でも……こういうことなんじゃないですか? 『力の発動を制御することは出来るが、力の停止は制御できない』……とか」

「……………………」


 兄斗は疲労を露わにして大きく息を吐いた。

 審判から催促される前にバッターボックスへと入る。


「色んなコースに投げ分けるのは力の発動を制御していたから。デッドボールを出したのは突然力が停止したから。もしそうなら、常に力を発動させないようにすることは出来るはずだ。でも、そうはしない。手から離れたその瞬間の初速が『170km/h』なら、力を使わず投げて普通に測ったら、『165km/h』は出てもおかしくない球だ。それだけでも十分怪物なのに、『制御できない』という体で『その力』を使い続けているんだ。彼は……一体どうしてそうまでして『さらに上の自分』を演じ続けるんですか?」

「……………………」


 レイゼンは、まるで兄斗の声が聞こえているかのように眉間に皺を寄せていた。

 いや、間違いなく聞こえていた。

 彼は再度敵ベンチにいるアンナの方に視線を向ける。

 相変わらず彼女の瞳は冷たいままだ。

 まるで、こちらに何の興味を持っていないような――。


「…………ッ!?」


 いや、どうやらそんなことはない。

 目が合うと、普段無表情な彼女が若干微笑んでいることがわかった。

 レイゼンはもう、戦意を失っていた。


「……期待されているからさ」

「え?」


 それは、実はもう兄斗も予想出来ていた『答え』だった。


「一度期待を寄せてくれた人間を裏切れるほど……アイツは非情な男じゃない。お前の言っていることは的外れだがな」

「……成程ね」


 レイゼンは最後の一球を投げた。

 今までで一番彼の想いが乗った、今までで一番…………甘い球だった。


     *


 結果はホームランだった。

 兄斗はバットに当てるだけで、後はバリアの力を使ってフェンスを越えさせた。

 彼の執念の勝利と実況は判断し、皆も兄斗が卑怯なことをしてでもこのお遊び球技大会を勝とうとする馬鹿馬鹿しくて面白い奴だと捉えるだけだった。

 当然、レイゼンへの期待が損なわれるわけではない。

 最後の球は彼の制御不能な力が生んだ失投と見られていて、むしろ彼のそういった理解可能な弱点が見られたことで安堵するファンもいれば、湧き立つ他プロチームのファンもいた。

 彼はこれからも、常に期待という名の『呪い』を受け続けることになる。

 一度その力を見せてしまった以上、もう後戻りはできないのだ。


「楽しかったですよ! レイゼンさん!」


 兄斗は勝利を手に入れて満足し、笑顔で挨拶する。


「……お前は……俺の力を……」

「僕は卑怯な手を使ったつもりはないですよ」

「……!」

「レイゼンさんもです。いいじゃないですか。期待してくれる人を笑顔に出来るなら何だって」

「……お前は……」


 レイゼンは帽子を脱いで目を伏せた。

 彼のもとにアンナが近付く。

 二人が何の会話をするのかは知らないが、興味ない兄斗はすぐに四葉に声を掛ける。


「勝ったな、花良木」

「はい! 先輩のおかげ様で!」


 彼女の笑顔が見られたから、もう兄斗は満足だ。


「その……か、カッコよかったりした?」

「? はい。ツァリィさんもそう言ってましたよ」

「いや……アイツは違うんだけどなぁ……」

「?」


 兄斗は溜息を吐く。

 とにかく今回は十分目的を達成できた。

 彼の目的はただ四葉との関係を深めることだけ。

 他のことは気にしていない。

 レイゼンの力の秘密も。

 彼が背中に乗せる『呪い』も。

 彼とアンナの関係も。

 兄斗の活躍に対し狂ったように興奮するツァリィも。

 あと、医務室で悶えている上柴のことも。

 何一つ――。

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