第6話 紳士
「わかった。この依頼、不知火響が引き受けよう」
「ありがとうございます」
女性は、そういって深々と頭を下げた。
腰を軸にして綺麗に礼をするその様は、人間として完成されているようにも、逆にどこか人間味がないようにも思えてくる。
そしてそのまま、女性は事務所を後にした。
「なんか綺麗な方でしたね。怖いくらい」
わたしがそうこぼすと、不知火が先ほどのメモ帳と睨めっこしながら感想を述べた。
「そうだね。でも近寄りがたい感じだった。僕はああいうきちっとしてるタイプ苦手なんだよなぁ。……姉貴に似てて。その辺亜紀ちゃんはいいよね、そういう感じまるでないもんなぁ」
「なんですかその言い方。それじゃあまるでわたしがちゃんとしてないみたいじゃないですか。……ってちょっと待ってください。不知火さん……お姉さんいるんですか?」
「いるよ、姉貴と兄貴が1人ずつ。僕末っ子だよ。言ってなかったっけ」
「全然聞いてないです。てっきり一人っ子だとばかり」
驚いた。この自由人の兄と姉。実に想像し難いし、想像したくもない。
「まぁそんなことは今はどうでもいいんだけどね。それより今晩の準備をしないと」
「今晩って何か予定があるんですか?」
「さっきの依頼人の……えっと、草壁さん? の旦那さん、今晩愛人と食事に行くんだとさ。だから早速調査にね。言ってなかったっけ?」
「全然聞いてないです。お姉さんの件は別に構いませんけど、そういうことは先に言ってください」
「さっき話してただろ。聞いてなかったのは亜紀ちゃんの責任だ」
「それはっ、そうですけど……そうだお茶出し! わたしお茶とか出してましたもん。そのとき話してたんでしょ」
「名推理だね。いや、どちらかといえば迷推理だ。それより、亜紀ちゃんも行くんだからさっさと準備してね」
「わたしもですか?」
「当たり前だろ? 助手なんだから。いつまでも雑用係の仕事に甘んじてるんじゃないよ」
「うぐっ」
耳の痛い話である。
確かにここ最近、依頼がペット探ししかないこともあって、少し気を抜いている節があった。気をつけなければ。
しかし、まさかあの不知火に注意される日が来るとは。メモ帳の件でも思ったが、意外と彼は仕事を大事にするタイプなのだろうか。
「わかりました。でも、準備って何するんですか? もしかしてあるんですか、探偵の7つ道具的なやつが!」
「あるわきゃないだろ、ドラえもんじゃないぞ僕は。今回ターゲットが食事に行くのは、そこそこ品のいいレストランでね。だから、あるのはドレスコードだよ。わかったら亜紀ちゃんもさっさと帰って、とびっきりおめかししておいで。さあ、早く行った行った」
「えっ、ちょっちょっと」
——バタンッ。
半ば強引に追い出されてしまった。
「ドレスコードって言われてもなぁ」
まあ、どうせ不知火と一緒なのだ。あのボサボサ頭の前では、どんな格好も正装に見えるだろう。
***
「ふぇぇっ、へぇぇああ⁈」
「なんだい、そんな間抜けな声をあげて。……どこかおかしいかな?」
「いや、……誰ですかあなた!」
「誰ってことはないだろう。僕のこと忘れちゃったの、亜紀ちゃん」
目の前の男は心外だと言わんばかりに、わざとらしく肩をすくめて見せた。
いや、確かにわたしはこの男が誰なのか知っている。知っているも何も、この飄々とした口ぶりは不知火のそれに他ならなかった。
しかし——
「……ちゃんとしてる」
「ドレスコードがあるからね」
——そう。
自由奔放、傍若無人、礼儀のれの字も知らないような男であるところの不知火が、あまつさえ依頼人を相手に敬語も満足に使おうとしない不知火が、今日この時に限っては実に紳士らしい出で立ちで、事務所の玄関前に立っていたのだ。
一体どこに隠し持っていたのだろう、高級そうなスーツに身を包み、先程までボサボサだった髪を全て綺麗にセットした今の不知火は、まさにどこに出しても恥ずかしくない紳士であった。
「……負けた」
「何にだい?」
あまりの衝撃にわたしは膝から崩れ落ち、あの不知火を相手にあっさり敗北を認めてしまった。
……いやでも待てよ? 今日のところは負けかもしれないが、流石に日頃の行いではわたしが圧倒的に有利なはずだ。となると総合的に考えれば、諦めるのはまだ早い。
——勝負はまだ終わってない。
わたしは両足に力を込めて再び立ち上がる。
「……おーい、大丈夫かい?」
「大丈夫です。わたしやれます! やらせてください!」
「うんわかった、わかったよ。いや、正直言って何一つわからないけど、とりあえず熱意だけは伝わったよ、ありがとう。……なぜファイティングポーズをとるんだい?」
そうしてわたしは、何か色々面倒くさそうにしている不知火に連れられて、浮気調査のためにレストランへ向かった。
——わたし、絶対に負けないっ!
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