温かな香りの記憶

真雪

第1話【ブラックティー】茶葉本来の深い香ばしさと軽やかな渋みさっぱりな柑橘をアクセントとした香り

あなたにとって安心できる香りや思い出の香りはありますか?

そしてその香りはどんな香りですか?


わたしには、安心で包み込んでくれた温かな【香り】があった。



わたしは、車の販売店の事務で仕事をしている 大谷美優おおたに みゆ(31歳)内気で人前に出ることが苦手な性格。

休みの日もほとんど外に出ず本ばかり読んでいる。

毎日が職場と家の往復生活。ずっとこんな日々が続くと思っていた。


あなたに出会うその日までは。



7月15日


「おはようございます。」

「大谷ちゃん、おはよー。」

いつものように出勤し先輩の佐藤涼花さとう すずか(34歳)と挨拶を交わす。

「大谷ちゃん聞いた?今日から新しい整備士さんが来るらしよ!26歳だって、イケメンかなぁー!」

いつもきれいなネイルにメイクにヘアセット、毎朝どのくらい時間をかけているのだろうと思うほど完璧な涼花先輩。

女性としても、ポジティブで積極的なところも尊敬するところが多い。


「おい、佐藤。お前はすぐ男に言い寄るのいい加減やめろよ。相手も困るだろうが!」

後ろを振り向くと店長の鈴木博光すずき ひろみつ(48歳)が呆れ顔をしていた。

「鈴木店長、おはようございます。」

「おう、大谷、おはよう。佐藤も大谷みたいにもう少し落ち着いた大人になれないのか?」

「店長~、それどういう意味ですか!!」

しばらく涼花先輩と鈴木店長のやり取りを聞きながら心の中でわたしにはあまり関係のない話だと思っていた。


ここの車の販売店は隣に整備工場が併設されているが、業務上関わるスタッフ同士は限られている。

他のスタッフは挨拶する程度でそこまで関わることはない。

事務員であるわたしが彼と関わることなどないだろう。


この時はまだそう思っていた。



7月29日


想像していた通り彼とは通りすがりに会釈する程度で話をすることはなかった。

どこか近づきがたい雰囲気で、わたしから話しかけることはきっとないだろう。

この日は忙しくあっという間に時間が過ぎ既に20時半過ぎになっていた。

「大谷、悪いな手伝ってもらった上に残業させちまって。終わったらメシ奢るわ。」

上司の木村達也きむら たつや(42歳)に声をかけられた。


「いえ、仕事ですから。」

「相変わらず優しいんだかそっけないんだか分からんやつだな。」

「それは褒めてるんですか?それとも貶してます?」

「どっちもだな!」

と、木村は笑う。

「何が食べたい?寿司でも行くか!」

勝手にご飯に行くことが決まり話が進んでいる。

残りの仕事を片付けお互い帰る準備をする。

「準備出来たか?じゃあ行くか!」

2人でタクシーに乗り寿司屋に向かった。


「お疲れ様!!」と同時にビールのジョッキのぶつかる音がする。

「お疲れ様です。」とわたしは半分ほど一気にビールを流し込んだ。

「いい飲みっぷりだな~」

「忙しかったですからね、今日は。」

「だな。好きなだけ飲め!」

「ありがとうございます、いただきます。」

お互い仕事の話をしているうちに【本日のおすすめ握りセット】が来た。

疲れた身体にアルコールと美味しいお寿司が染み渡った。


「そういえば新しく来た神谷とは話したか?」

「整備士の方ですよね?いえ、わたしはたまに会釈する程度で話したことはありません。」

よく考えてみれば話すどころか自己紹介もしていなかった。

神谷って名前なんだあの人。と、ふと顔が浮かんだ。

「そうだよな~、整備工場のほうと関わること滅多にないだろうし。」

「そうですね。木村さんは神谷さんとお話されたんですか?」

「ああ、話してみると面白くていい奴だぞ!それに若いが整備の腕も周りに劣らないくらい良い。」

「そうなんですね。」

当たり障りのないの返事をしていると話は日々の仕事の内容に戻っていた。

「さて、明日も仕事だからそろそろお開きにするか!」


腕時計を見ると23時を過ぎた頃だった。



7月30日

「大谷ちゃん、おはよ~」

「涼花先輩、おはようございます。」

朝から元気だなぁと思いつつ涼花先輩に挨拶を返した。

「こないだ神谷くんと話したんだけど、なんかあんまりタイプじゃなかった、、。顔はそんなに悪くないのに残念。」

「それは残念でしたね。」

もうアタックしたのか、ともはや関心した。


月末で棚卸しの準備をしていたこともありこの日もあっという間に時間が過ぎ去っていった。

わたしは棚卸しの書類の準備をし終え帰りの身支度を整えた。

「お疲れ様です。お先に失礼します。」

まだ残っているスタッフに挨拶をし事務所を出た。


裏口を抜けると、いつもなら既に就業し消えている整備工場の明かりがついていた。

消し忘れ?と思いつつ、わたしは整備工場の方へと足を向けた。

たとえ消し忘れだったとしても電気のスイッチの場所など知らないのにどうすればいいんだろう。

そう思いながら中を覗いた。

独特のオイルの匂いがする。

中に入り誰かいないか見渡していた時、


「なんか用?」

突然後ろから声がし驚いた。


振り向くとそこには作業着姿の神谷が立っていた。

「勝手に入ってすみません。普段なら皆さん帰っている時間なのに明かりがついていたので、消し忘れかと思って様子を見に来ました。」

「ああ、そう。この車あと少しで修理終わるからやって帰ろうと思ってさ。」

言い方は素っ気なかった。


なぜかドキドキが止まらなかった。

それがどんな意味なのかは分からない。

誰もいないと思っていた場所から突然人が現れたからなのか、近づきがたいと思っていた人に突然声をかけられたからなのか。


「珍しいですね、皆さん定時で帰られるのに。」

「だな。そこまで腕も良くないし効率も悪い。だから時間内に終わるはずの作業が終わんねぇーだよ。」

その場で固まってしまった。

どこが面白くていい奴なんだ!と木村の顔を思い浮かべた。

「あんたは帰んないの?」

作業している人間がいると分かった以上わたしがここにいる必要はない。

帰ろう。

だが自分の口から出た言葉は思いとは裏腹な言葉だった。


「作業見ていてもいいですか?」


自分でもびっくりした。

神谷も不思議そうな顔をしていた。

「別にいいけど、なんで?見てても面白くなんてねぇーよ?」

「自己紹介まだしていないので、、、」

焦って自分でもよく分からない言葉がでた。

でも自己紹介していないのは事実だ。


「ああ、そうかもな。俺は、神谷柊かみや しゅうよろしくな。」

車の下に潜ったまま声が返ってきた。

「わたしは大谷美優おおたに みゆです。よろしくお願いします。」

自分からまだ自己紹介をしていないと言ったのはいいが、あっさりと終わってしまった。

「どうして整備士になろうと思ったんですか?」

普段なら誰かにそんなこと聞いたりしない。

仕事上で関わる以外に自分の人生には無関係なのだから踏み込まないし踏み込まれたくもなかったから。

「昔から車いじるのが好きだったから。あと車に絵描くのも好きだな。」

「車に絵?」

「そう、カーペイント。昔は改造して派手にしてよく仲間と走ってたけど、今は個人で仕事としてやってる。ペイントしたり改造したりした車をオークションに出すんだよ。そしたらイベントとかで使われたりするんだ。」

「そんな凄いことしてるんですね。」

「こないだオークションに出した車、ハリウッドスターがイベントで乗ってたらしぜ。俺も友達から連絡きて知ったけど。」


そう言ってSNSで上がっていたイベントの写真を見せてくれた。


そこにはわたしが大好きなカーアクションシリーズのハリウッド映画の数日前に日本で行われたイベントの様子だった。

「え?これ神谷さんが作った車ですか?」

「そう。ダメもとで出したんだけどな。結構いい値で出したから。まさか売れるとはな。」

と神谷は笑っていた。

個人でそんなことをしているのも凄いが、自分で出したオークションの車がどうなったのか自分で把握していないことにも驚いた。

「自分の出した車がどうなったか気にしてないんですか?凄いことしてるのに。」

「自分が楽しくて作ってるんだよ。オークションに出して自分の手元を離れたらそこから先は俺の知ったこっちゃねーよ。まぁ売れなかったら赤字だけどな。借金やべーもん。さて、終わったから帰るぞ。送ってやっか?」

笑いながらそう言う神谷に呆然としていた。


でも同時になぜがもの凄く惹きつけられた。

なぜなのかは分からない。

自分とは真逆の人生を生きていて、わたしは日々の生活に刺激を入れたくなかった。


ただ平穏に過ごしたかったから。







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