37. 不協和音
夜明け前に、先生に起こされた。目が赤いけれど、先生はちゃんと寝たんだろうか。
「今、何時ですか?」
「もうすぐ朝だよ。明日には陛下が帰国するから、国に戻るようにと連絡がきた。支度をしなさい、すぐに出発する」
「こんな朝早くに?」
「執事には事情を話してある。荷物は送ってもらえるから、心配しなくていい。すぐに出れば、午後には王都につける」
お世話になった人たちにお礼も言えないまま、私たちは屋敷を出発した。そして、食事以外はずっと馬車を走らせた。緊急帰国なんて、国で何かあったんだろうか。
せっかくの二人っきりの時間。私はもっと話をしたかったのに、先生はよく眠れなかったからと言って、ずっと目を閉じていた。本当に眠っていたかは分からない。ただ、話しかけられる雰囲気ではなかったし、ましてや指南をしてもらえるような感じではなかった。
王都郊外の先生の屋敷には、夕方には到着した。迎えてくれたのは離れに住む初老の管理人夫婦だった。お母様が訪ねてくるというので、私たちは早いうちに彼らを帰した。
薄暗くなった頃、質素な馬車から黒いフードつきのマントを被った人物が降り立った。付き従っているのはお父様の側近セバスチャン。もう引退しているので、彼の顔を知っているものはそれほどいない。
「ティナ、ちょっと見ない間に大人っぽくなったわね」
玄関で迎えた私に向かって、お母様は笑顔でそう言った。急に屋敷の中の光が増した気がした。美しい銀髪と真っ白な肌。目だけは私と同じ深い青だけれど、纏うオーラはまるで違う。月の女神のように神々しい。
「お母様、相談したいことが……」
まだ思ったような成果をあげられていない。指南期間を延長したいとお願いしたかった。
「後でね。ちょっと先生に話があるの。お部屋で待っていてくれる?」
お母様はそう言うと、先生と一緒に客間に入ってしまった。
そのまま部屋に戻ろうとすると、少しだけ開いたままだったドアからお母様の声が聞こえた。聞いたことがないような固くて冷たい声色に、私は思わず足を止めた。
「お兄様の病気のことを説明して。帝国から返答が来たの」
「ニコライ殿は……」
「十年前から、お兄様の主治医には先生が任命されていた。どうして?」
「アレクセイ様の診察のついでに……」
「嘘だわ。お兄様は帝国の人間に不調を知られたくなかった。皇帝が病だと知れれば皇室存続が危うくなる。アレクセイが皇太子になった時期とピッタリ重なるわ。先生は知っていたのね」
「できるだけの手を尽くした。医師だけじゃなく、薬も魔法も試したし、神殿からも力を借りたよ。だが、完治する見込みはなかった。だから、せめて苦しむことがないようにと……」
サラさんの言ったことは本当だった。やっぱり、先生は伯父様の病に気がついていた。そして、診察も治療もしていた。
「どうして教えてくれなかったの? 知ってたら協力できた。私に隠したのはお兄様の指示?」
「僕の判断だ。君の力の衰えをニコライ殿に進言して、話さないでおくと決めた」
「どうしてそんなことを。私の力のことは、誰にも言わない約束だったのに……」
「君の診察をしていたのは、このときのためだったんだよ。無茶をして命を縮めないように。君に力を使わせないように。ニコライ殿も分かってくれた」
さりげなく隠されたカルテ。あれはお母様の神力と生命力の衰えを確かめる診察。
「そのせいでお兄様は……」
「ニコライ殿も君の性格をよく知っていた。僕たちは君の体のことを考えて、最善の決断をしたんだよ」
「私のことを考えてくれるなら、本当のことを教えてほしかったわ」
「知ったら、君は何がなんでもニコライ殿を助けようとするだろう。主治医として、それは認められなかった。僕は君の健康を管理しているんだ」
「主治医に求められるのは、体だけの健康じゃない。心のケアも必要よ。先生は私の気持ちまでは汲んでくれなかったのね」
お母様は泣いていた。大事な人に何もできなかった苦しみが、鋭い刃のような言葉になって、先生に向かっている。
「君の気持ちはよく分かっている。だからこそ、わないことが最良だと思った。君の命を危険に晒すことはできないんだ」
「私を知っているから、こんな大事なことを黙っていたというの? だから、何も知らないフリをして、私に嘘をついたと?」
「それに関しては、否定はしない。僕はニコライ殿の病のことは知っていたし、それを黙っていた」
「私はお兄様の力になりたかった。たとえ助けられなくてもそばにいたかったのに」
責められるべきは先生だけじゃない。お父様も伯父様も、お母様を愛して守ろうとした人たち。みんなが共犯だった。なのに、先生は自分だけが悪者になろうとしていた。
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