28. 共に生きる希望
「それで諦めるの? その程度の気持ちなの?」
「まさか! 絶対に振り向かせるわ。だって、私が誰よりも先生を思ってる。その気持ちは誰にも負けない!」
お母様は私の言葉を聞いて、ニッコリ笑った。
「それでこそ私の娘。私にも協力させて。先生も幸せにならなくちゃ」
「先生を取っちゃってもいいの? お母様は先生のこと……」
「もちろん大好きよ」
「お母様も……」
「先生はとても大切な人。でも、ティナとは違う気持ちだわ。愛にも色々な形があるの」
「でも、先生の気持ちは……」
そう言いかけた私の手を、お母様は優しく握った。
「ねえ、ティナ。人の気持ちは変わっていくの。私の気持ちも、先生の気持ちも、誰の気持ちでもね。だけど、消えてしまうわけじゃない。時間と共に変化して、もっと強い絆になることもあるわ」
「お父様の気持ちは不変に見えるけど……」
「お父様も変わったわ。じゃなかったら、私をここに残して仕事に行ったりしない。お父様はすごく心配性なの」
お母様が遠くを見るような目をしたとき、ドアの方からお父様の声がした。
「俺は今も心配してるぞ。シアに何かあったら気が狂う」
「あら。 お仕事は?」
「アルフが残ってるから大丈夫。ティナ、ご苦労だったね」
「私は何も……」
お母様にずっとついていたのは先生。でも、そんなことを言う必要はない。
「先生は? 医務室に戻ったの?」
「ああ。落ち着けば心配ないからと」
「みんなに迷惑をかけて申し訳ないわ。ティナ、先生に差し入れを持っていって」
お母様はそう言うとあからさままウィンクをした。私はそれに苦笑いを返す。お母様は結構お節介だ。
「ティナ、頼んだぞ」
「ジンジャー入りのミルクティーをいれてあげてね」
「それはお母様の好みでしょう?」
「先生から教えてもらったの。甘い生姜なんて、私には考えもつかなかったわ」
お母様と先生には、積み重ねてきた長い時間がある。私が知ることもできない深い絆も。
お母様の手を握って、その頬を撫でているお父様を横目に見て、私はそのまま退出した。お母様にはお父様がついている。それが何よりもの癒しだろう。
バスケットに入れた軽食と紅茶を持って、私は医務室に向かった。ノックしても返事はない。そっとドアを押して中に入ると、奥の部屋からシャワーの音がする。出てくるまで待たせてもらおう。
テーブルにバスケットを置いて、適当に周囲を見回した。暇潰しにと本棚の雑誌を手に取った拍子に、その横に立て掛けてあったファイルが、バサっと音を立てて落ちた。
「いけない。先生に怒られちゃう」
急いで拾おうとしたとき、ファイルから男性用の香水の移り香が立った。これは先生の愛用じゃない。お父様の香水!
カルテの日付は毎月一回。医学用語は分からないけれど、何かの検査結果だ。右下がりの折れ線グラフは、過去二十年分。特定の年に、線がガクンと下がっている。
私の生まれた年だ。この年は……。え、これも?
私たち兄弟姉妹の誕生年とリンクしたグラフ。月に一回だけ、お父様の香水をつけてお母様と会っている先生。あれはやっぱり診察だったんだ。このカルテがその記録。
隣室からシャワーの音が止まった。先生が出てくる。私は急いで雑誌とファイルを元に戻した。
「ティナか。驚いたよ。どうしたんだい。王妃様に何かあったのか?」
医務室の物音を聞きつけたのか、上半身裸のまま首からタオルをかけた先生が出てきた。危機一髪、間に合ったけど、それにしても、これは眼福すぎる。
先生の体は鍛えられて引き締まり、日焼けして浅黒い肌は滑らかで、思わず触りたくなってしまう。あの体に抱きしめられたら、きっと
「お母様は大丈夫。お父様がついているわ。先生に食事を持ってきたの。お腹空いたでしょ」
「へえ、気が利くね。一緒に食べようか。ちょっと待っててくれ。今、服を着るから」
「えっ、着ちゃうの? 」
思わず本音が出てしまって、頬が赤くなるのを感じた。それを見て、先生はからかうように言った。
「オジサンの体で赤くなってたら、婚約者殿の裸で倒れるぞ」
「は? 婚約者って?」
「ティナもそろそろだと陛下も言っていた。もうそんな年頃か。早いもんだな。つい最近まで赤ん坊だったのに」
婚約者なんて知らない。もうそんな話が。もしかして、政略結婚が必要なの? 髪を拭きながら隣室に去っていく先生を、私は呆然と見つめるしかなかった。
あのときの私は王族の義務の重みに、絶望を感じていただけだった。王族としての庇護なく、一人で生きていける未来なんて考えられなかったから。
でも、今なら違う世界を想像できる。もしも看護師になれたなら、自分の力で自由に生きられる! 例え先生に愛されなくても、一緒に仕事ができる。
この指南で先生が教えてくれたのは、単なる閨の作法や手管じゃない。それは、愛する人と共に生きたいという願い。望む未来に近づく努力。そして、幸せな人生を得ることへの希望だった。
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