1.3. 少女は走る
午後の授業はまったく身に入らなかった。
教師も気を遣って、午前中のように皮肉は言わなかった。
「いっそ、帰ってもいいんだぞ」
そんな気遣いの言葉を、弱々しい返事で断る。
マオカには、やるべきことがあった。
放課後の鐘がなる。
クラスメイトたちは部活や帰宅で帰り支度をする。
色のない瞳で、マオカはそれを眺めていた。
彼女だけではない、クラスメイトは全体的に元気がないようだった。
(勝手に逃げたくせに)
なんて八つ当たりをしようとも思ったが、マオカにはそんな元気もなかった。
誰の居なくなった教室の中で、時間を待つ。
窓から夕暮れの日差しが差し込むころ、ようやくマオカは席から立ちあがる。
「……告白できなくなったこと、伝えないと」
恋文に記されていた時間はもう間近に迫っていた。
重い足取りで硬い廊下を歩く。
待ち合わせの場所――体育館の裏にいくまで、マオカは表情を一切変えなかった。
昇降口を出ると、部活動の掛け声が聞こえてくる。
活発な生徒たちに背を向けて、体育館の裏へ。
少しずつ、近づいてくる。
思わず、現実逃避の言葉が漏れた。
「いっそのこと、先輩がすっぽかしてくれたらのならいいのに……」
そんあ後ろ向きな希望は、あっさりと打ち砕かれる。
姿あった。
整った顔のサラサラ髪の少年。サッカー部の先輩で、マナの想い人。
律儀には数十分前から待機している美少年の姿は、確かにカッコよくて親友が惚れるのだ、とマオカは納得してしまう。
「あれ、君は?」
マオカの姿を見つけると、怪訝そうに眉を顰める。
先輩はどこか腑に落ちないといった様子であった。
「あの、実はアタシは――」
「いや、僕の勘違いなら申し訳ないけど……この手紙を出してくれたのは君といつも一緒にいる子――鍵宮マナだと思ったんだが」
数時間ぶりに、マオカの眉が動いた。
「はい、そうです。その手紙の主はマナで、実は――」
――『ありがとう。先輩には、マオカちゃんから断っておいてね』
去り際に聞こえて来た言葉を伝えようとして、マオは歯をきつく噛みしめる。
「――実は、ちょっと事情があって来れなくなりました」
「そっか、それは……残念だね」
爽やかに笑うけれど、明らかに気落ちしているのはマオカには分かった。
だから、自分の中の希望を託してマオカは口を開く。
「でも、それは一時的なことなんです。絶対にマナは来ます! 連れてきます! だから!」
少年は、ただ微笑んで応えた。
「うん。分かった。僕も待ってるよ」
その言葉に、燻っていたマオカの感情に火が点いた。
「ええ、絶対に!」
踵を返して走り出す。頑張ってね、と言う言葉が遠くから聞こえてくる。
少女は走る。校門を飛び出して、走り続ける。
マオカには分からない。どこに向かえばいい? 何をすればいい? そんなことはまだ分からないけれど、やるべきことは明確に分かっている。
(『迷宮病』が心の迷いから発生するのなら、心残りがあってはいけないじゃない!)
教室を去る時に見た親友の顔を思い出す。
納得はしているけど、消化しきれない感情を抱えている顔。
「いや、ダメでしょ。せめて告白の返事は聞かないと」
その行為が自分の勝手な感情から湧き上がっているのは分かっている。
だけど、やらないといけない。
心の迷いが病であると言うのなら、その迷いを前にして逃げ出してはいけない。
「絶対に告白させてやるっ!」
もう、心は走り出していた。
◆◆◆
夜の街をマオカは駆けていた。夕方に学校を飛び出してから、ずっと走り続けていた。
病院であれば、どんな小さなところでも押しかけて、マナが運び込まれてこなかったかを確認する。
制服のまま夜の街をうろつく彼女は奇異の目で周囲から見られているが、そんなものは気にすることではない。
突然の来訪者をぞんざいにあつかう人もいた。けれど、必死に訴える彼女の姿を見ると、最後には『頑張れ』と言葉を駆けて送り出した。
そうして、深夜とも言える頃――
「疲れた」
夜の公園。もう誰も居ないベンチの上で、うなだれる。
月は煌々と輝いていて、星は数えきれない程浮かんでいた。
繁華街の灯りは遠く、少しずつ消え始めている。
周囲の喧騒も収まりはじめ、街も寝ようとしていた。
けれど、そんな頃合いになってもマオカはマナについて何一つとして情報を掴めていなかった。
「はあ……どうしよう」
疲れからか、弱音を吐き出しそうになってしまう。
動かないといけない、そう思ってもマオカの足は重く動かなかった。
お腹が鳴る。マオカは夕飯も食べていないない。それどころか、昼食にも手をつけていない。
「どうしよう」
膝を抱えてうずまる。
そんな彼女の耳に、足音が届いた。誰だろう、顔を上げると、そこには見知った人の顔がある。
「まったく。こんな時間まで連絡なしに外出する不良妹はだれかね」
その声を聞いたのは、朝以来だった。
「ははっ、そんな悪い子ならアニキもきっとロクでもない顔なんだろうね」
目の前に立っていた男はニヤリと笑う。手に持ったコンビニの袋を雑に投げ渡す。
「いやあ、案外イケメンかもしれないよ」
少し大きめの赤いジャケットを羽織った男性。マオカの兄――鏡峰ユウキは何も言わずに妹の隣に座った。
「まったく……父さんたちからマオカの面倒を見ろって頼まれてるんだから、心配させるなよ」
鏡峰家は現在ユウキとマオカの二人暮らし。大学生の兄と高校生の妹はもう十分に自立できると判断した両親に海外出張の留守番を任されていた。
家を出る時、両親から言われた言葉は三つ。
兄弟で協力すること。
妹は兄を支えること。
兄は妹を助けること。
勢い任せの妹と、負けず劣らずの兄。それでいて人情家の二人はそれなりに仲良くやれている。
「……ごめん」
「はい。何か困ったことがあったらすぐにアニキに頼れ。父さんたちにも言われてただろ」
「うん」
まだ覇気の戻らないマオカの顔を見て、ユウキは深刻であることを理解した。
「何かあったか、メシ食いながらでいいから言えよ」
マオカは兄から受け取った袋に入っていたパンを食べながらゆっくりと話始める。
友人が『迷宮病』と診断されたこと。そんな彼女にはやらないといけないことがあったこと。
何が何でも、連れ戻さないといけないこと。
「そっか。それじゃあお前は絶対に諦めないな」
兄は止めることを選ばない。それが無駄な行動であることを知っているから。
「うん」
「ならトコトンまでやるしかない」
「うん」
だからこそ、やるべきことを理解していた。
「でも一人じゃ無理だ。でも一人じゃない。ここに最強無敵のイケメンが居る」
強く胸を叩くと、過剰ともいえるくらい明るい声で話しかける。
見上げる兄の顔は力強く、マオカの心にも力を与えてくれる。
「それじゃあ、アニキ」
「手伝うよ。妹は納得出来ないことには徹底的に立ち向かう奴だって分かってるからさ」
その言葉を聞いた時、マオカは身体から疲れが消えていくようだった。
ようやく手に入れた味方。事態は何一つ好転していない、それでも」
「うん。アニキと一緒ならなんとかなる気がしてきたよ!」
本当に、その言葉の通りに心が軽くなっていた。
同時に、携帯電話が鳴った。メールの通知だった。
「えっと……これは」
送信主はクラスメイトの一人。
――マオカ、お前が夜の街を走り回ってるってみんなが見つけたよ。
――マオカのことだから、アテもなく探してるんだろうけど。
「お前、クラスメイトによく理解されてるな」
「アニキ黙ってて」
――少しくらい、私たちを頼って……なんて都合がいいか。
――でも、手伝いくらいはさせてもらうよ。
添付されたファイルを開くと、誠とマオの目撃情報がまとめられていた。
――クラスのみんなで集めたんだ。
――だから許してくれ、なんて言わないけど。
――あとで、謝らせてくれよ。
もちろん、と返事をした。
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