第五話その2「だってあのゆうくんだよ?」

「ちーちゃん、漫画で行き詰まっているんだよね? そういうときは誰かに相談するといいんじゃないかな。具体的には身近なプロの漫画家とか!」


 日曜の夜、蓮ちゃんがちーちゃんにそんな声をかけた。蓮ちゃんが愛する娘の役に立つべく張り切っているのに対し、ちーちゃんは白けた顔をするだけだ。


「お父さんに相談しても仕方ない」


「そんなことないんじゃないの?」


 と愛する夫のために口添えをするわたし。


「蓮ちゃんはあんたと同じ歳で商業デビューして二〇年以上のキャリアがあるのよ。アニメ化もしている大ヒット漫画家で」


「もちろんそこはすごいと思っているし、技術的なことなら色々相談している」


「そうだね。でも最近はその相談もないし……前のようにコミケ直前でばたばたしないように今から手助けできることはするべきじゃないかなと」


「蓮ちゃんはちーちゃんに甘すぎるのよ」


 わたしのため息を蓮ちゃんは笑ってごまかそうとした。


「いやー、愛する娘が修羅場で大変ならそれを手助けするのも父親の義務じゃないかなと」


「それで自分の原稿落としてたら意味ないじゃないの!」


 そう、去年の冬コミでちーちゃんが原稿を落としそうになって蓮ちゃんに泣きつき、張り切った蓮ちゃんがプロの技を見せてちーちゃんは何とか間に合わせたんだけど、そのせいで自分の正月進行の原稿を落としちゃったのである、この人は。


「体調不良で休載とか書いているけど本当は冬コミの同人誌を描いていたせいだ」


 とネットでは叩かれていたけどその憶測が正解で、しかも自分の同人誌じゃなく娘のそれだとは誰も思いはしないだろうなぁ……。


「正直すまんかったと思っている」


 とさすがに気まずそうな顔のちーちゃん。


「今度は修羅場にならないよう今から色々考えているから」


 うん、良い心がけだね。でも蓮ちゃんも毎回同じことを言っていて、それでも修羅場になるんだよね。


「あと、行き詰まっているのは内容の方で、それは相談しても仕方ない。特に、本当に表現したいものが別にあるのに商業主義に膝を屈して売らんかなの漫画を描いているお父さんには」


「いやー、それは……」


 娘の酷評に蓮ちゃんは苦笑い。


「あんたね、その売らんかなの漫画で食べさせてもらっている分際で」


「娘としてはちゃんと感謝しているつもり。でも漫画家としては別」


「あんたごときが何を偉そうに……あんたなんて漫画家としてまだ卵ですらない、受精卵ですらないじゃない」


 感情的になりかけていたわたしを蓮ちゃんが「まーまー」と抑える。おかげでわたしも冷静になり、「あんたコミケで何部売ったのよ」と禁句を口にせずに済んだ。でもその気持ちは伝わったみたいで、気分を害したちーちゃんが自分の部屋に逃げていく。わたしは苛立ちながらそれを見送るしかなかった。


「まったくあの子はもう……」


「でもちーちゃんの言うことにも一理はあるんだよね。売らんかなの漫画を描いている、っていうのはまさしくその通りだし」


 ――逆行したわたしのために本来の歴史とは違う道を歩むこととなった人間が何人いるか判らないけど、蓮ちゃんは間違いなくその最大の影響を受けた一人である。本来の歴史では二〇〇〇年頃に「乙姫さまとひらめ君」という作品を連載し、速攻で打ち切り。その後に起死回生の異能バトル漫画「殲滅戦線グルヴェイグ」を連載し大ヒットを飛ばすわけだけど、この時間軸で二〇〇〇年頃から連載開始したのは「海巫女ひめこの大予言」。「予知能力を持った巫女の少女とその幼なじみの少年の、少し不思議な青春ラブコメ」で、「大歳の巫女」であるわたしをモチーフとしたのは自明というものだった。

 この漫画は少しは長続きしたんだけどやっぱりあまり人気が出ず、打ち切りを食らいそうになってしまう。以前の蓮ちゃんならそれを受け入れて次でヒットを飛ばそうと考えたんだろうけど、そのときの蓮ちゃんにはわたしとちーちゃんがいた。愛する妻と娘が誇れる漫画家でいたい、連載をなくしたくない、無職になりたくないと蓮ちゃんは土壇場でふんばり、「海巫女~」の大胆な方向転換を図ったのだ。日常の延長の他愛のないラブコメが続く漫画だったのに、少女の予知能力を狙う「組織」が出てきて、普通の田舎の少年も「異能」に目覚めてバトルが始まり、それがどんどんとスケールアップして――一六年経った今でも連載中なんだけど、今は敵の「黄金の黄昏騎士団」と味方の「十二神将」が死闘をくり広げるクライマックスの真っ只中だった(もう二年以上)。

 異能バトル漫画となって人気が急上昇して何百万部も売れてアニメ化も実現したわけで、蓮ちゃんはラブコメよりバトル物の方が向いた漫画家なんだろうと思う。本人の趣味志向や本当に描きたいものはまた別として。

 あと、「海巫女ひめこの大予言」はあまりに大胆な路線変更と、それが成功した稀有な例としてネット上で話題となり、またネタとなり玩具となっている漫画だった。蓮ちゃんもネット上では散々に書かれていて、ちーちゃんに言われたことくらいは何百万回書かれたか判らない。

 さらにあと、ちーちゃんは「海巫女~」の異能バトル路線に批判的ではあるけど、だからって蓮ちゃんのラブコメが好きってわけでもないのだった。批判的なのは「表現者としての姿勢」に対してであって、蓮ちゃんが異能バトル物を描きたくて描いているのならそれで納得するのだろう。


「わたしは蓮ちゃんのバトル物、すごく面白いと思うよ。蓮ちゃんの漫画は全部好き。でも一番好きなのはラブコメだけど」


「バトル物を嫌々描いているわけじゃないんだけど、ラブコメにはいずれ再挑戦したいと思っている。でもろくすっぽ売れないからなぁ……」


「いいじゃん、連載がなくなっても。わたしが養ってあげるから」


「気持ちは嬉しいけど、連載はなくしたくないな。絶対に」


 うーむ。昔エイラに「無職」と罵られたことがトラウマになっているんだろうか。連載がなくなることを必要以上に怖がっているように思えてしまう。でもその辺の感覚は同業者でもなければきっと判らないんだろう。わたしとしては愛する夫が無理なく仕事を続けられるよう手助けをするだけである……と、蓮ちゃんのことはともかくとして。


「ちーちゃんにアドバイスはないの? 蓮ちゃんも読んでるでしょ」


「うん、僕が感じたことは前に全部伝えている。ももちゃんはちーちゃんの漫画を読んでどう思った?」


「よく判らなかった」


 わたしの即答に蓮ちゃんが苦笑する。


「なんか長い連載漫画の一話だけ切り取って読まされたような……」


「ああ、まさしくそんな感じだったね。多分ちーちゃんの中ではキャラの関係とかこれまでの出来事とか全部きっちり決まっていて、それに基づいて話を進めているんだろう。でも読者の方には未開示の情報だから置いてきぼりになってしまって何も伝わらない」


「だめじゃん」


「ちーちゃんその辺はニュアンスや雰囲気で伝えればいいって考えているみたいなんだけど……台詞じゃなくキャラの表情だとか背景だとか、絵全体で。でも技量がそこまで届かない。そんなことができる漫画家はプロの中でも何人いるのか、って話ではあるんだけどね」


「だめじゃん」


 蓮ちゃんが身内贔屓を抜きにして評するなら、ちーちゃんはプロとしてやっていけるだけの絵の技術をもう持っているという。でも漫画家である以上絵は描けて当たり前。ストーリーを考えてキャラを生き生きと動かして面白い話を展開して、それが全部できて初めて漫画家と言えるのだ。そういう意味でちーちゃんは漫画家にはまだまだ程遠かった。自分の技量を顧みずに無謀な挑戦を続け、独りよがりな話を描いているうちはなおさらだ。商業デビューどころか、何度コミケに参加したってろくすっぽ売れないに違いない。

 ちーちゃんは聡明で利発な子だ、蓮ちゃんの忠告を理解できないわけがない。でもそれ以上に頑固で意地っ張りで、自分がこうと決めたことは絶対に動かさない。今描こうとしている漫画も、判りやすくしようなんて考えもしない。それよりニュアンスだけでちゃんと伝えられるよう技量を上げることを優先させるはずだ。ゆうくんと唯月君を実地でからませようとしたのもその一環だと思われた。想像だけじゃなく実際の表情を見たいと考えたから……二人にとっては迷惑の極みだったろうけど。


「正直言って今のちーちゃんは迷走しているとしか思えない。でも、それもいい経験だよ。自分の技量っていう現実と折り合いをつけて、ちゃんと伝わる話を描けるようになけばきっとそこそこの漫画家が一人生まれる。理想に手が届くまでに技量を引き上げるっていう力技で現実を突破できるなら、きっと一人の芸術家が生まれるだろう」


「その両方ができなかったら?」


「一人の売れない同人作家がくすぶり続けるだけ……かな」


「でもそれもまた人生、か」


 蓮ちゃんの突き放すような態度は冷たいように思えるかもしれないけど、漫画家になりたいという夢自体が無謀なものなのだ。ちょっと突き放されたくらいでくじけるようなら最初から諦めた方がいい……あの子がそれで夢を捨てるなんて、絶対にあり得ないことだけど。親としてはできるだけのサポートをして、辛抱強く見守っていくしかなかった。






 インターハイ予選は六月初め、あとわずか半月だ。個人戦に出場するゆうくんは脇目も振らずに柔道に集中……のはずなんだけど。


「今日も来ているな、許嫁が」


「許嫁じゃねえっす」


 三年にからかわれてゆうくんが憮然と反論する。先日の個人戦出場者選抜戦から柔道部の練習を見物しに来る人が増えているんだけど、今週からその中にちーちゃんが加わるようになったのだ。ゆうくんとちーちゃんの仲は学内なら誰でも知っている話なので、ちーちゃんはいい場所を譲ってもらって見物をしている。またちーちゃんには彩羽ちゃんとラーナちゃんが付き合うのも恒例で、二人はフリーだからいいところを見せようと柔道部員も張り切り、練習には一層の熱が入るのだった。

 ちーちゃんは柔道に関心がなく、ゆうくんの練習や公式戦だってこれまで見に来たことはほとんどなく(わたしが付き合わせた分を除けば)、急に毎日見に来るようになってゆうくんは戸惑い、調子を狂わされたようだった。でもそれも最初のうちだけで、今では全く気にせずに練習に打ち込んでいる。

 乱取りでゆうくんが三年の、一回り大きい相手をマッハ背負いでぶん投げて、


「ゆうくーん!」


 女子生徒の黄色い声援が飛んできて、ゆうくんが無茶苦茶戸惑っている。あ、今度は一之谷君が相手か……なんか一之谷君、血涙を流さんばかりなんだけど。なお声援を送っているのは彩羽ちゃんやラーナちゃんではなく別の集まりだ。わたしはちーちゃん達に近寄った。


「あの子達は何? クラスも違うし、ゆうくんとつながりがあるとは思えないけど」


「ただのミーハーだと思います。ゆうくん、柔道部の中じゃ一番見栄えが良いから」


 え、と絶句してしまうわたし。彩羽ちゃんはそんなわたしにこそ戸惑ったようだった。


「あくまで柔道部の中では、ですけど。でも一年の中では一番強くて技も派手だし、人気が出てもそんなに不思議はないんじゃ?」


「えぇぇえ……」


 ……いや、確かにわたしとエイラの血のにじむような努力によって少しは見た目がまともになったけど! 柔道もわたしのときよりも大分強くなっているけど!


「いやでもそんなのあり得るはずが……だってあのゆうくんだよ?」


「どんだけ評価低いんですか?」


「身近にいるからかえって判りにくいことだってあるかも? 柔道しているときは、ゆうくん格好いいって思うよ?」


 とラーナちゃん。ちょっとゆうくんどうするの?! 未来の人気声優にまで格好いいって言われちゃったよ! もしかしてちーちゃんにライバル出現?!


「ちっ、あんなに動き回られたらスケッチなんてできないじゃない」


 そのちーちゃんは、落書きノートを持って舌打ち。……ああ、うん。君はそういう子だよね。急に練習を見に来たのだって、取材だとか表現力を高めるための一環とかなんだろうね。


「とりあえず背負い投げの姿勢で止まってほしいんだけど」


「無茶言わないで。スマートフォンで撮影して、それを見ながら描くことにしなさい」


 そんなのでいい絵が描けるわけが、とか文句を言いつつも練習風景を撮影するちーちゃん。撮影に熱中するあまりに試合場に入ろうとするちーちゃんを、わたしと彩羽ちゃんは何度も止めなければならなかった。

 なお、ちーちゃんの取材は柔道部だけじゃなく学生生活全般にわたり続けられたらしい。


「……何見てんだよ」


「何でもいいでしょ。気にせずに食べなさい」


「食べにくいだろうが」


 後で聞いた話だけど、お昼休みにお弁当を食べるゆうくんにちーちゃんが貼り付き、じーっと見続けていたんだとか。クラスメイトも馬に蹴られないよう生温かく見守るだけである。

 うーむ。ちーちゃんが一生懸命なのは判るんだけど、その努力の方向性はそれで正しいんだろうか? でもわたしは何も言わない。絵や漫画のことは何も判らないし、何よりこれこそ青春でラブコメだから! これがきっかけでちーちゃんが恋に目覚めてくれれば言うことなし! クラスのみんなは「ようやくくっ付いたか」みたいに思っているそうで、外堀は順調に埋まっている!

 その中で唯月君がおそるおそる遠慮がちに、


「あの……姫、僕の取材は……」


「あんたはいいのよ」


「え、でも」


「大体判っているから」


 多分唯月君的には東尋坊から飛び降りるくらいの一大決心をした申し出だったんだろうけどちーちゃんはそれを「無用」と断じ、素っ気ないその態度に唯月君もすごすごと引き下がるしかなかったんだとか。

 ……判らない! ちーちゃんが何を考えているのか判らない! 普通逆じゃないの? ゆうくんのことなんて生まれたときからずっと一緒にいて、知らないことなんかないくらいのはずなのに。ゆうくんと比べれば唯月君のことなんて何も知らないも同然のはずなのに。

 で、そんなことを思いながら夕食を食べていたんだけど。わたしのお向かいではちーちゃんがハムスターみたくちびちびとご飯を口に運び、その横ではゆうくんが怒濤のどとくに鯨飲馬食している。


「……何?」


 わたしの視線に気付いたのかちーちゃんが煩わしげにそう問う。


「ああ、ちーちゃんが何を考えているのか判らないなぁって」


「わたしもお母さんが何を考えて生きているのか判らないわ」


「もしかしてわたし、最愛の娘に罵倒されてる?」


 首を傾げるわたしを無視し、ちーちゃんがゆうくんを肘でつついた。


「ねえ、背負い投げしているところをちゃんとスケッチしたいんだけど」


「いいけどよ」


 ちーちゃんはご飯を中断してスケッチを始めようとしたんだけどさすがそれは止めさせて、晩ご飯とその片付けが終わった後。わたし達三人は居間の真ん中で突っ立って向き合っている。


「……で、どうするんだ。ポーズを取ればいいのか?」


「一人じゃ意味ないじゃない。ちゃんと相手がいないと」


「それじゃわたしが」


 と手を挙げるけど「それはだめ」とちーちゃんが即座に却下。


「なんでよ」


「こんなエロゴリラとお母さんを組ませるわけないでしょ」


「誰がエロゴリラだ、こら」


 気にすることないのに、とわたしは言うけどちーちゃんは頑として認めず、ゆうくんも残念そうではあるけどそれ以上の文句は言わなかった。


「でもそれじゃどうするの?」


「……おじいちゃんを呼んでくるかおじいちゃんの家に行くか」


 姫宮一動さんも三代さんもちーちゃんのことは可愛くて仕方ないからその程度のお願いは喜んで聞いてくれるだろうけど、


「もう時間も遅いから明日にしなさい」


 ちょっと不満そうな顔をするちーちゃんだったけど「仕方ないわね」とスケッチは明日にしてくれるようだった。この子の前ではちゃんと取り繕っているつもりではあったけど、わたしが姫宮夫妻に抱いているわだかまりをこの子なりに感じ取っているのかもしれなかった。

 で、翌日の学校。時刻は昼休み。わたしがちーちゃん達の教室に様子をうかがいに行くと、


「じゃあ行くぞ」


「初めてなの、優しくしてね?」


 教室の後ろに場所を作って、ゆうくんが山武君に背負い投げをかけようとしていて、それをちーちゃんがスケッチして彩羽ちゃんがスマートフォンで撮影しているところだった。ゆうくんは山武君を背負った姿勢で静止していて、


「……結構きついな、これ」


「それじゃそのまま投げてみて」


「いや、コンクリの上は洒落にならないから」


 ちーちゃんはゆうくんをその姿勢のまま何分も硬直させて、ようやく解放したときにはゆうくんも大分疲れたようだった。


「さすがに上手いな」


 ちーちゃんのラフ画を見た山武君がそう言うけどちーちゃんは絵の出来に不満そうな顔である。撮影された動画と自分の絵を見比べていて、ゆうくんがそのスマートフォンの画面を横からのぞき込んだ。


「……」


「どうした?」


「山武、もう一回。時任は撮影頼む」


 ゆうくんは山武君と組んで背負い投げのフォームに入った。今回はゆっくりでなく打ち込みの連中と変わらないスピードだ。何度もくり返されるそれを彩羽ちゃんが撮影。その動画をリプレイし、スマートフォンの小さな画面を顔を寄せ合ってのぞき込む四人。


「山武、もう一回」


 そして同じことは昼休みが終わるまで続けられた。どうやら久々に客観的に自分のフォームを確認して思うところがあったらしい。その日の部活ではゆうくんは散々に投げられて、


「どうした、調子を崩したのか」


 と一之谷君に心配されるくらいだったんだけど、その翌日。


「――」


 それを見ていた誰もが目を見張った。わたしや七熊先生も含めてだ。乱取りの稽古で組んでいた三年の米一君を、ゆうくんが投げ飛ばしたのだ。米一君は体重が一四〇キロを超える巨漢で、理尽最大最重の選手だ。それを背負い投げで投げて、しかも誰もが文句をつけようのない完璧な一本。


「どうやら調子を取り戻したようだな。次は俺が」


「いいえ、ワタシが相手をしましょう」


 と一之谷君の前に割り込んできたのは七熊先生だ。驚くゆうくんだけど、


「押忍!」


 喜び勇んで挑みかかっていく。頑張れ!と内心で声援を送るわたしだけど当然七熊先生に勝てるわけがなく、投げようとして簡単に返されちゃっている。でも、前回挑んだときと比べれば投げられる回数が少なくなったように思われた。


「どうでしたか?」


 乱取りを終えて壁際に戻ってきた七熊先生にわたしが問う。七熊先生はタオルで汗を拭っているけどゆうくんが汗でずぶ濡れなのは当然で、さらにずたぼろでふらふらだった。


「面白いネ」


 七熊先生はそう言ってにやりと笑う。


「子供の成長は早い。驚くネ」


「全くです」


 自分のフォームを見直した結果がたったの一日二日で現れている。ゆうくんは必殺のマッハ背負いに磨きをかけて、一歩も二歩も前へと進んだようだった。すごいよゆうくん! これならもしかしたら、インターハイで日本一になっちゃうかも!

 ところで今の会心の一本はちーちゃんも目の当たりにしていて、彩羽ちゃんが撮影もしていて、ちーちゃんはそれを絵に仕上げた。ゆうくんが巨漢を投げ飛ばすその絵は躍動感が溢れていて、そのまま雑誌に載っていても何の不思議もない出来栄えだ。ゆうくんの一本にも負けないくらいの見事な絵だと思う。


「すごいねちーちゃん!」


 わたしが満面の笑みで褒め、ゆうくんも「すごいな」とその絵に驚きを隠せない様子だった。


「どこがよ」


 でもちーちゃんは何だかとっても不機嫌で、わたしとゆうくんは顔を見合わせてしまう。


「いや、プロにも負けてないだろ。これならすぐに柔道漫画の連載だって」


「わたしはそんなもんを描きたいわけじゃない!」


 噛みつくように言うちーちゃんにゆうくんは、


「じゃあこの一週間何のために柔道のスケッチを」


「あああ! どうしてわたしはこんな無駄な時間を!」


 ちーちゃんはそう言って頭を抱えていて、頭を掻き毟らんばかりだった。でもそれはやめようね? ただでさえ放っておいたら鳥の巣になっちゃうんだから。

 でも「描きたいものとは外れていた」かもしれないけどこの一週間でちーちゃんの画力も向上したんじゃないかな? あと、ちーちゃんの献身でゆうくんが全国制覇とオリンピックに一歩近付いたんだから、今はその内助の功を素直に喜んでおこう! あと、この一週間で二人の距離も少しは縮まって……


「返せ! わたしの一週間を返せ!」


「知らんがな」


 ……いるとお母さん嬉しいなぁ。

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