第四話その2「これはただの家族愛、柔道愛だから!」

 さて。今日は四月二八日、わたしの三二歳の誕生日! ……いや、そんな話はどうでもいいんです。今日は四月の平日の最終日で明日からゴールデンウイーク。三〇日土曜日や二日月曜日も振替で休みとなっている(私学だからその辺は柔軟なのだ)。ちょうど一週間の連休だけど、


「柔道部は特別強化週間! 朝から晩まで柔道漬けだよ!」


 わたしの宣言に部員のみんなは、明日からの地獄を想像してうんざりした顔となっている。まあ、ここまでは想像通り。わたしは満面の笑みを真顔へと戻した。


「さて、ここで重大発表です。インターハイ予選に向けて、まずは団体戦メンバーを発表します」


 わたしが一之谷君を筆頭に五人の名前を列挙する。三年四人、二年一人のそのメンバーは全員軽くても九〇キロ超。選んだのは萬田先生だけどわたしが見ても順当な人選で、部員のみんなからしてもそれは同じのようだった。


「続いて個人戦ですが――今、ここでは決めません。出場希望者全員、同階級で総当たり戦をやって、一番勝ち星を獲った人が出場です! それじゃ、個人戦に出たい人!」


 真っ先に手を上げたのはゆうくんで、続いて三年二年が、最後に一年の何人かが手を上げた。


「一年坊主が公式戦に出る気かよ」


 吐き捨てるように言うのは二年の二村ふたむら君。ゆうくんが八一キロに下げたことによって同階級となり、ゆうくんの公式戦出場において最大のライバルとなる相手だった。それは二村君にとっても同じことで、八一キロの枠はこの二人で争われると言っていい。


「学年は関係ねーです」


 ゆうくんは前を見ながら独り言のように言う。


「強い奴が出場する、それだけのことでしょ」


「思い知らせてやるよ、身の程を」


「はい、そこ! 無駄口を叩かない!」


 わたしの注意に二村君は舌打ちをして前を向いた。


「選抜戦はゴールデンウイーク明け、五月七日土曜日に実施します! 選抜戦に出る人はそのつもりで、そこで勝つためにこの一週間を使ってください!」


 そして始まるゴールデンウイークの特別強化週間。でもやることは普段と何も変わらず、基礎トレーニング・乱取り・基礎トレーニング・乱取りの無限ループだ。普段と違うとするなら、平日は長くても三時間だけどこの一週間だけその倍になることか。基礎トレーニングを倍にしてもオーバーワークになってしまうので増えるのは主に乱取りである。あと七熊先生は一回だけしか来てくれず、この一週間はずっと萬田先生の独壇場だった。わたしもほとんど口出ししなかったし。


「どうした、メダリスト! この程度でへたばるか!」


 その中でゆうくんは集中的にしごかれている。ただ自分が乱取りで相手をすると投げられてしまう恐れがあるので、乱取り相手は二村君を中心とした二年だった。集中的にしごかれて体力を消耗した上で二年に狙われ、さすがのゆうくんも分が悪く、乱取りではいいように投げられている。


「はっ! おめーがオリンピックなら俺はなんだ? ノーベル柔道賞か?」


 ゆうくんをぶん投げた二村君がそう嘲笑。ゆうくんはふらふらになりながらも立ち上がり掴みかかり、足を払われてきれいに倒された。

 そうやって、ひたすらいじめられて一週間。五月五日の夕方、特別強化週間が終了した。


「ありがとうございました!!」


 他の部員が唱和し礼をする中、力尽きたゆうくんはぶっ倒れたままである。


「どうしたメダリスト、礼もできんのか!」


 萬田先生はそう言って舌打ちし、


「後片付けと掃除、一人でやっておけよ」


「判りました、わたしが監督してやらせます」


 萬田先生は「ふん」と鼻を鳴らし、面白くなさそうな顔をして去っていく。武道場にはわたしと、大の字でぶっ倒れたままのゆうくんが残された。

 ……それからどのくらいの時間が流れたのだろうか。他の部員が全員帰ったのを見計らい、わたしは後片付けと掃除を始めようとし、


「ももちゃん先生! 手伝います!」


「待てい! お前だけに任せておけるか!」


 山武君と一之谷君が戻ってきて、わたしは目を丸くした。


「ああ、うん。ありがとう。すごく助かる」


「いえいえそんな! 俺とこいつの仲ですから!」


 そう言いつつも山武君は足でゆうくんのお腹をぐりぐりとしていて、その足をゆうくんの手が掴んだ。


「いらん、帰れ。……くそ、せっかくいい雰囲気で二人だけになったのに」


「ばーか、だから戻ってきたんだろうが」


「動けるのならさっさと起きろ。とっとと終わらせるぞ」


 一之谷君の号令にゆうくんが「押忍」と返答。三人が掃除を開始し、当然わたしもそれに加わった。


「しかしまー、地獄のような一週間だった。毎年こんなもんなんですか?」


「量が少し減ったくらいで密度は今年の方が重いかも……でも萬田先生がかなり自制していたからその点ではすごく気が楽だったな」


 つくづくと、感慨深げにそう言う一之谷君に山武君は「マジすか」と唖然とする。


「あれで自制してたって、その前は」


「知らない方が幸せだ」


「萬田先生も決して無能な指導者じゃないんだけどね。鉄拳制裁と感情的に怒鳴り散らすのと、えこひいきをしがちな点さえなければ」


「それ、指導者としてかなり致命的なんじゃ……?」


「うん。だからその辺はわたしが抑え込んで、使えるところだけ上手く使おうって思っている。実際この強化週間はいい感じに使えていたんじゃないかな」


 わたしのその所感に一之谷君と山武君は同意しがたい様子だった。


「でも善那が狙われてしごかれてたじゃん」


「二村をひいきしていると言うよりは善那を潰すために二村を使っている感じだったが」


「でもせっかくの強化週間なんだしこのくらいの方がちょうどよくね?」


 ゆうくんがあっけらかんとそう言い放ち、二人は開いた口が塞がらない顔となった。


「萬田先生も二村先輩も他の二年も、寄ってたかって俺の練習相手になってくれたようなもんじゃん。二村先輩にはこの一週間の成果をしっかりと見てもらいますよ――土曜日に」


 そう言ってゆうくんは静かに闘志を燃やしていて……あれ? ゆうくん、というかわたしってこんなキャラだったっけ? わたしのときにもしこんな風に狙い撃ちされていじめられたらきっと根に持って、やり返す機会を……ああ、それが土曜日か。でも何かが違うような……


「ももちゃん先生? どうかしたの?」


「ああいや、なんでもない。せっかくだからこの後みんなでご飯食べに行こうか?」


 イヤッフー!!と奇声を上げる山武君と一之谷君。ゆうくんは何故か忌々しげに舌打ちしている。


「すぐに終わらせるぞ! 即終わらせるぞ!」


「そしてももちゃん先生とディナー! ホテルの最上階で夜景を見ながら!」


「せいぜい八番ラーメンじゃねえの?」


 山武君と一之谷君が張り切って掃除と後片付けを速攻で終わらせ、わたし達四人は駅前に移動。適当なラーメン屋でお腹を膨らませ、他愛のない話で笑い合った。

 うんうん、可愛い女の子とのラブコメは不可欠だけど、こういう男の子同士の付き合いだって青春だよねぇ。わたしのときは山武君はいなかったし、一之谷君とも学年を超えて親しくしたわけじゃない。そもそも柔道部の中にあまり仲の良い人がいなかった……いかん、ちょっと悲しくなってきた。

 ゆうくんは以前のわたしそのままじゃない。以前のわたしと同じ時間をくり返しているわけじゃなく、違う道を歩んでいる。その事実はわたしにとって、何よりの救いとなることだった。






 そして五月七日、土曜日なので授業は午前中だけで午後はたっぷりと部活に使える日だ。練習メニューは普段と変わらず、前半はみっちりと基礎トレーニング。後半の乱取りの代わりとしてインターハイ個人戦出場者選抜戦をやるのである――それなのに。


「ゆうく……善那君は?」


「あいつ、数学の課題が未提出とかで居残りです」


 何してるのよ、とわめきたくなるのをぐっと堪える。萬田先生と二村君が「してやったり」みたいな顔をしていたからで、こいつ等が何か仕組んだことをわたしの直感が確信した。ここでわたしまでうろたえたらこいつ等を図に乗らせるだけなので懸命に焦燥を抑え込で無表情を装い、善後策を検討する。まずエイラに連絡して、ゆうくんをできるだけ早く解放してもらえるよう手を回して、最悪校長先生を動かしてでも――


「すみません、遅れました!」


 そこに飛び込んでくるゆうくん。萬田先生は「早すぎる」と言いたげな顔で舌打ちをするけど、


「何をしていた、皆はもうランニングに行っているぞ! お前だけ倍回ってこい!」


「――押忍!」


 反論を呑み込んで走り出すゆうくん。口を挟む間もなかったわたしにできるのは、歯噛みをしながらゆうくんを見守ることだけだった。


「お母さん」


「百佳さん」


 そこにやってくる、ちーちゃん・彩羽ちゃん・ラーナちゃんの三人組。さらにその後ろには、クラスメイトの八尾唯月やお・いつき君。唯月君は女の子のように可愛らしい顔立ちで……ああもう、その辺の説明は後回しだ。わたしは武道場の外に出て彼等と向き合った。


「あいつはどうなった?」


「ついさっきからトレーニングに参加してる。遅刻の罰でランニング倍だけど」


 ちーちゃんは強く舌打ちし、他の面々も腹立たしげな顔である。


「何かあったの? 課題未提出で遅刻って」


「ゆうくん課題のシート、誰かに捨てられてて提出できなかったんです」


「みんなで探してて、唯月君が見つけてくれたの!」


「いやなんであの子ゆうくんの机を探っているんだろうって……そのとき注意すればよかったのに」


 大殊勲なのに申し訳なさそうな顔の唯月君にわたしは、


「ううん、本当にありがとう」


 と満腔の感謝を述べた。

 話を整理すると、クラスの女子の一人がゆうくんの机を何やら探っていて、唯月君は不審に思って様子をうかがっていた。で、ゆうくんの課題がなくなっていて、ゆうくんが居残りを命じられる中でちーちゃん達が課題のシートを探し、唯月君の証言によってゴミ箱の中からそれを見つけることができた。それを提出し、ゆうくんは思いのほか早く部活に参加することができた――ということらしい。

 それで課題を隠したその女子だけど、聞き覚えのない名前だった。彩羽ちゃんが言うには陽キャグループの一員で、その中には二村君シンパの柔道部員も属しているという。軽い気持ちでちょっとした嫌がらせに協力する、くらいはあり得なくはない……でも証拠はなかった。唯月君の証言だけでは弱く、証言させても唯月君がいじめや嫌がらせのターゲットになるかもしれず、無理をさせることはできなかった。


「課題のシートから指紋が検出できるかもしれません。手配しましょうか」


 そんな提案をするのは遅れて現れたエイラである。でもわたしが何か指示する前に「いや」とちーちゃんが首を横に振った。


「あいつはそこまでやりたがらないわよ。それよりお願いしたいことがあるんだけど」


 ちーちゃんの依頼を受けてエイラは「了解しました」と頷き、ラーナちゃんを伴い校舎へと戻っていく。それを見送ったわたし達はグラウンドが見える場所へと移動した。柔道部員はグラウンド外周をランニング中で、ゆうくんはその一団から大分遅れて走っている。柔道部員が全員武道場に戻ってきてもゆうくんはランニングを続けていて、戻ってきたのは十何分も経ってからだった。

 そして始まる筋トレ等の基礎トレーニング。ゆうくんは普段の倍走った上でのトレーニングで、その量は他のみんなと変わらず、


「どうしたメダリスト! そんなのろまなことでオリンピックに行けるのか!」


 さらには萬田先生がゆうくんを急かし、短時間で同量のトレーニングを無理強いし……自分のペースを乱されたゆうくんは普段の倍くらい消耗したことだろう。基礎トレーニングが終わる頃にはゆうくんはふらふらになっていた。


「ようし! 今から個人戦選抜戦を――」


 そのときスピーカーから鳴り響く鐘の音、そしてラーナちゃんの声。


『全校生徒のみなさーん! 今から柔道部のインターハイ個人戦出場者選抜戦が始まります! みんなのクラスのあの人が! インターハイに出場できる、かも! 柔道部ではみんなの応援・声援を待っています! 興味のある人は今すぐ武道場へ!』


 その放送がリピートされ、唖然としていた萬田先生が噛みつきそうな顔をわたしへと向けた。


「姫宮先生!」


「せっかくの選抜戦なんだし盛り上げなきゃもったいないでしょう? 学校のみんなには柔道部を応援してほしいですし。それとも、外部の目があると何か不都合なことが?」


「あるわけないだろうが!」


 わたしのにやにや笑いに萬田先生は苦虫を嚙み潰したような顔になるけど、それ以上文句は言わなかった。そして放送を待っていたかのように、大勢の生徒が武道場へと集まってくる。土曜日の放課後に、ラーナちゃんの放送だけでこんな人数がすぐに集まるはずもなく、これはエイラが校内を巡って残っている生徒に片っ端から声をかけて回った成果である。保健室の主たるエイラは男子生徒・女子生徒双方からの人気が非常に高く、人望もまた厚いのだった。

 集まった観客・野次馬はざっと四〇人くらい、時間稼ぎも限界だろう。


「今からインターハイ個人戦出場者選抜戦を始める! まずは一番人数の多い八一キロ級から!」


「露骨すぎていっそ感心するくらいね」


 ちーちゃんの呟きに彩羽ちゃんやラーナちゃんが頷いて同意する。八一キロ級の出場希望者は全部で五名、総当たり戦だと一〇回もの試合が必要だ。柔道の試合時間は最長でも四分なんだけど、それでも一〇試合もやれば一時間近くかかるかもしれない。だから萬田先生の判断にも一理はあるんだけど……やっぱりわたしもちーちゃんと同意見だった。


「ま、あんたはまだ一年なんだし、別にインターハイに出れなくてもよくない?」


 ちーちゃんがゆうくんを慰めるように言う。


「あんたの最終目標はオリンピックでしょ? その本番はまだまだずっと先のこと。たかだか高校一年の地方予選、出れなくても影響なくない?」


 その言葉は間違いというわけじゃなく、インターハイに出るのは二年からでも充分だけど――


「今は本番じゃない、なんて言っている奴に本番は回ってこねーよ。いつまで待ったって」


 ゆうくんの真っ直ぐな、真剣な眼差しが対戦相手の三年を見据えている……いや、見つめているのはその子じゃない。きっとずっとその先の、オリンピックのまだ見ぬ強敵だ。


「毎回毎回これが本番だって思って真剣に戦って勝ち抜いて、それでようやく『本当の本番』が回ってくるんだろ」


 たとえこのインターハイで全国まで勝ち上がっても、日本一となるのはさすがに厳しいだろう。でも全国で戦った経験はきっとゆうくんの糧となる。それを元に、来年こそ日本一!


「高校で全部勝って、大学でも勝って、全日本強化選手に選ばれて……こんなところで負けてらんねーよ」


「ゆうくん」


「はい?」


「大好き、愛してる」


 思わず愛が溢れてしまったわたしの言葉にゆうくんは大いにうろたえ、トマトみたいに赤面している。ちーちゃんの機嫌が急速に傾げていって、


「ごめんね他意はないよ! これはただの家族愛、柔道愛だから!」


 わたしがそう言い訳してもそれはそう簡単に復元しようとはしなかった。


「いつまでくっちゃべっている!」


「すみません!」


 萬田先生に叱責されてゆうくんが試合場の真ん中へと進んでいく。ちょっと身体がふらついているけど、その理由は疲労だけじゃないみたいだった。


「……ったく、お母さんがそんなだからあいつだっていつまで経っても未練たらたらなんじゃない」


「何か言った?」


「何でもない! あいつの試合が始まるわよ」


 ちーちゃんがぶつぶつと何やら文句を言っていたように思えて気になったけど、優先するべきはゆうくんの試合の方だった。


「意地を張るのがいい男、それを見守るのがいい女、ってね。今は見守って、しっかり応援しよう?」


 第一試合はゆうくんと三年生。なお審判は七熊先生で、この人の審判に難癖を付けられる人がこの場にいるはずもなかった。私情はどうあれこの人が不誠実な審判をするはずがなく、ゆうくんが特別有利になるわけじゃないし。


「はじめ!」


 七熊先生の号令によって試合が開始され、ゆうくんと三年が組もうとし――次の瞬間には三年が畳の上で大の字となっていた。


「一本!」


 ゆうくんが軽く手を挙げてガッツポーズ。あっけにとられていた場内が大きくどよめく。ゆうくんはわたし達のところへとやっていて、力尽きたようにして座り込んだ。


「はい、お疲れさま」


「さんきゅ」


 甲斐甲斐しくスポーツドリンクを差し出す唯月君と、それを受け取るゆうくん。……それはちーちゃんの役目じゃないのか! いや、この子がそんなことやるわけないんだけど!


「えーっと、今のは背負い投げ? 早すぎてよく判らなかったけど」


「ただの背負い投げじゃない」


 彩羽ちゃんの問いにゆうくんは不敵に笑い、


「あまりに早すぎて相手は何をされたのか、いつ投げられたのかも判らない。故にその名は――『ザ・ワールド背負い』!」


「ダサい。語呂が悪い」


 ちーちゃんが「ザ・ワールド背負い」よりも速く酷評し、ゆうくんは「むう」と唸っている。なお小学生の頃の柔道教室で一緒だった誰かの命名であってゆうくんが自分で名付けたわけじゃないんだけど……わたしのときもそうだったけど、やっぱり気に入ってたんだね、この技名。


「それじゃ『キング・クリムゾン背負い』、略してキンクリ背負いとか?」


「ジョジョから離れた方がよくない?」


「下手に凝るよりもシンプルに『マッハ背負い』とかは」


「さらにシンプルに『ゆうくんスペシャル』!」


 なおわたしの提案はかなりの不評だった。そんなにだめかな? 「ゆうくんスペシャル」。

 そんな話をしているうちにゆうくんの番が回ってきて、ゆうくんは武道場の真ん中へと走っていった。その対戦相手は二年生の一人。速攻を警戒したため試合時間はかなり長引いたけど、それでも背負い投げで一本を決めるゆうくん。三人目の対戦相手も似たような展開となったけどやっぱり背負い投げ一本で勝ち上がった。

 でも、二人連続で時間目いっぱいまで粘られてゆうくんはかなり消耗している。基礎トレーニングの時点で他の子よりも消耗させられていたのだからなおさらだ。


「こんなのフェアじゃないです」


 とぷりぷりするラーナちゃん。


「他の人達が結託してゆうくんを潰そうとしているんじゃないの?」


 と彩羽ちゃんは疑うけど、多分それは考え過ぎだろう。柔道部員である以上誰だって個人戦に出たいに決まっている。二村君を出場させるために我が身を犠牲にするなんて、いくらなんでも二村君にそこまで人望があるとも思えなかった。実際今、二村君は二年相手に苦戦中である。勝ちはしたけどかなり消耗したようだった――それでも決して、ゆうくんほどじゃない。

 分厚い柔道着は大量の汗を吸い、絞れば水が滴るのではないかと思われた。体育座りのゆうくんは膝に顔を埋め、ひたすら体力の回復に努めている。そんなゆうくんに二村君や萬田先生は「計算通り」と言わんばかりの嫌な笑いを浮かべていた。二人にちらりと視線を送ったゆうくんは――


「……笑ってるの? あんた」


 ゆうくんの顔を覗き込んでちーちゃんがそう問う。顔を上げたゆうくんは不敵に笑い、


「ああ、うん。今ちょっと楽しくなってきた」


「楽しい?」


「こういう卑怯な妨害工作を仕掛けられて、でもその困難を乗り越えて敵に勝つ! なんか俺、漫画の主人公ヒーローみたいじゃん」


 ゆうくんはそう言って熱く闘志を燃やしていて――わたしはめちゃくちゃ混乱している! わたしのときは絶対にこんな考え方をしなかった! これは本気で言っているのか?! それともただの強がり? 一体どっちなんだ、仮にも自分のことだっていうのに……!

 七熊先生に呼ばれてゆうくんが立ち上がり、試合場へと進んでいく。呆然としたままのわたしはただその背中を見つめるだけだった。

 そして八一キロ級の最終試合、ゆうくんと二村君の一本勝負が間もなく始まろうとしていた。両者とも全勝中で、ゆうくんは全部一本勝ち。二村君は判定勝ちが含まれているけど今回内容は問題じゃない。競うべきは勝ち星の数。どちらが勝つか、どちらが個人戦に出られるかはこの勝負で決まるのだ。


「はじめ!」


 七熊先生が号令をかけ、二人が同時に動いた。


「身の程を教えてやるよ、メダリスト!」


 組み手争いを制したのは二村君で、そのままゆうくんを内股で投げようとし――でも、決まらない。二村君はさらに技を仕掛けるけどゆうくんはそれを全て受け切った。果敢な姿勢は評価できるけど、それだけだ。一方的に攻めているのにポイントは何一つ取れていない。動きすぎて疲れたのか二村君の動きが止まり、


「で、何を教えてくれるんでしたっけ」


「てめえ!」


 ゆうくんの挑発に二村君は簡単に乗せられ、雑に仕掛けて逆に燕返しをかけられてしまった。技ありを取られ、二村君は歯軋りをする。


「この野郎!」


 後のない二村君が積極的に、ほとんど自棄のなったかのように攻めるけどその全てがゆうくんに通用しない。技のタイミングがことごとく外されている。まるで二村君の技が完全に見切られているかのように。


「くそ、どうして?! 連休中は散々投げてやったのに――」


「わざわざ相手になってくれたんだから、そりゃタイミングくらい覚えるでしょ」


「お、お前まさかずっと三味線ひいてたっていうのか?!」


 ゆうくんはそれに答えず、でも「今頃判ったのか」という顔で笑っている――ただのはったりである、半分は。特別強化週間中は消耗しきっていて乱取りでは勝負にならなかった。だから無理に相手を投げようとはせず、相手の技を覚えることに専念していたのだ。でも二村君にそこまで判るわけがなく、ゆうくんの作戦にハメられたと思い込んで大きく動揺している。そしてゆうくんがその隙を逃すはずがなく――目にも止まらないくらいの、超高速の背負い投げ。間隙を突かれた二村君は自分がいつ投げられたのかも判らないかもしれなかった。


「決まった! マッハ背負い!」


「ゆうくんスペシャルでしょ!」


 豪快な背負い投げの一本に場内は大歓声。彩羽ちゃんやラーナちゃんも大騒ぎで、わたしも喜びを抑えられなかった。ちーちゃんは喜びを隠して「ま、こんなものよね」という顔を装っている――でもそれだけじゃない、何か複雑な思いがそこにあるような……気のせいかな?

 大一番の勝負を終えたゆうくんがわたし達の下にやってきて、崩れるように座り込んだ。


「おめでとう! すごかったよ!」


「格好良かったです!」


 彩羽ちゃんとラーナちゃんの賞賛にゆうくんが首だけで振り返って笑顔で「さんきゅ」と言い、その顔が急に真顔となった。ゆうくんの視線を追うと、その先にいるのは二村君だ。試合場を挟んで向かいにいる彼は跪座(爪先を立てた、正座に似た座り方)となり、唇をかみしめ、悔し涙を流している。卑怯で姑息な手段を使ってきた彼が屈辱にまみれているわけだけど、だからってゆうくんは嬉しいわけではないようだった。二村君だってこの柔道部で、理不尽と言われるしごきに一年間耐えてきたのだ。その努力を一年坊主にあっさりと乗り越えられて――あっさりと乗り越えたゆうくんの方が何だかすまなさそうに思っているみたい。

 でもね、ゆうくん。ゆうくんはその恵まれた才能で凡人の努力を蹂躙してさらに上へと昇っていくんだよ? これからもずっと。路傍の石一つ一つに気を取られていちゃ先になんか進めない。ゆうくんが目指しているのはオリンピック。脇目も振らずにがむしゃらに走り続けて、それでもたどり着けるか判らない場所なんだから。


「とりあえず、オリンピックへの第一歩かな?」


「いや、ようやくスタートラインに立ったただけでしょ」


 確かにそうだね、今日は公式戦への出場資格を得ただけなんだから。


「予選もインターハイも、全部勝つ。こんなところでもたもたしてらんねー」


 ゆうくんの真剣な、鋼鉄のような輝きを放つ瞳がずっと未来を見つめていて――


「ゆうくん」


「はい?」


「……ああいや、何でもない。がんばろうね!」


 危うくまた柔道愛が溢れるところだったよ! ちーちゃんが刺すような目で牽制してきたから口にするのはぎりぎりで回避したよ! でもゆうくんにちょっかい出されるのをそんなに嫌がるくらいなら自分でもっとアプローチするべきじゃないかな! やっぱりツンデレなのかな? この子。

 ゆうくんのオリンピックへの道は遥かに遼遠だけど、着実に前へと進んでいる。一方わたしの「二人にラブコメな青春を送らせる」という野望は、その道程は、オリンピックと同じくらいに遠く険しいように思われた。

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