1Bのお化け屋敷は、かなり凝った内装になっていた。これは相当、頑張って準備したんだろう。本当なら、椿でも連れて遊びにきたいくらいだ。

 でも今は、申し訳ないけど、楽しむ余裕はない。

 最初の謎解き中に私を脅かしにきた子を捕まえて、私は篠森の居場所を尋ねた。「こういうの困りますよう……」と不満そうな顔をしていたけれど、私が名乗ると態度が変わった。こういうとき、生徒会副会長という立場が活きる。

 ゾンビのコスプレをした彼女が指差した場所は、積み上げられた机の影だった。順路を無視して、私はそこへ直行する。


「篠森」


 小声で呼びかけると、もぞりと動く白い塊が見えた。

 誰かが、赤い返り血がついたシーツを頭から被っている。

 私は布地の端を掴み、ばさっと捲り上げた。


「──見つけた」


 篠森が何かを言う前に、私はシーツの中に潜り込んだ。

 スマホのスリープモードを解除する。画面が光り、ほのかな灯りが篠森の輪郭を照らした。

 下から光を浴びた篠森は、ちょっとだけおどろおどろしくて、笑いそうになってしまう。

 彼女は口をぱくぱくさせて、「な、な、」と言った。

 私は片手を上げて挨拶をする。


「やっほ」


「──なんばしょっと⁉︎」


「お、久々に聞いた。篠森の博多弁」


「~~~っ、なんの用ですか、先輩……!」


 声を殺して篠森が叫ぶ。


「篠森に謝りたくて」


「別に、謝る必要なんてありません。先輩が辞めたいなら、辞めればいいじゃないですか!」


 声を押し殺したまま、器用に叫ぶ。私は首を左右に振った。


「それもだけど、それだけじゃなくて。私、ずっと篠森に同情してたんだ。自分の気持ちを満たすために、身勝手に篠森の存在を利用してた」


 二人きりの闇の中で、黒目がちの瞳が丸く見開いた。


「……先輩が何を言ってるのか、よくわかりません」


「わからなくていいよ。これは私の、一方的な懺悔だから。それから、同好会辞めるって言ったことだけど」


 篠森の顔色が変わる。


「あれも撤回する」


「……鶴ヶ谷先輩と一緒に、料理教室に通うんじゃないんですか」


「よくよく考えたら、私が好きなのは食べることであって、別に作るのは好きじゃないし」


 私の言葉に、篠森が呆れた顔をした。


「理由、最低なんですけど」


「えっ、そうかな? いや、確かにそうかも……」


「そこは嘘でも、鶴ヶ谷先輩より──」


「青葉先輩より?」


「……なんでもないです。先輩のばかちん」


 篠森の額が、私の鎖骨に落ちてきた。丸い額の感触が、ブラウス越しに伝わる。

 少しだけ硬い髪を撫でながら、私は言った。


「私の話はこれでお終い。次は篠森の番ね」


「わたしの?」


「今、生徒会室に双葉さんが来てる」


 双眸が大きく見開いた。黒い瞳が左右に揺れる。わかっていたことだけど、私は改めて確信した。


「あの人が、篠森の義理のお母さん、だよね」


「……はい」


「私には、そんなに悪い人には見えなかった。もちろん、家でどんな風なのかはわからないけど。少なくとも、篠森に料理を禁止するような人には見えなかった」


「…………何が言いたいんですか?」


「篠森が料理研究同好会を立ち上げた理由。家じゃ料理ができないから、って言ってたけど。違うんじゃないかと思って」


 篠森は何も言わない。桜色の唇を引き結んで、押し黙っている。

 少しだけ迷ってから、私はさらに一歩、踏み込むことを決めた。 


「逆なんじゃないか、って思ったの。『料理を作りたいから』じゃなくて、『双葉さんの料理を食べたくないから』じゃないか、って」


 華奢な身体が、冬空に裸で放りだされたみたいに身震いした。


「双葉さんも、青葉先輩と同じ料理教室に通ってた。でも、全然料理下手じゃなくて、むしろ上手いくらいだった。なら、どうして教室に通ってるのか」


「……。」


「それは──身近に、自分の料理を食べてくれない人がいるから。違う?」


 私の言葉に。

 ややあってから、篠森は、小さくこくんと頷いた。


 †


「初めてあの人の──双葉さんの料理を食べたとき、思ったんです。ああ、美味しいなって」


 ぽつぽつと、篠森は胸の内を話し始めた。


「美味しくて……だから、嫌だったんです。お母さんが作ってくれた料理の味が、上書きされていくみたいで」


 確か以前、篠森は、母親の料理を再現するために料理を始めたといっていた。


「お母さんは九州の──仰るとおり、博多の人です。でも、双葉さんは東京の生まれで。だからってわけじゃないですけど、卵焼きも、親子丼も、唐揚げも、肉じゃがもハンバーグも、全部、違う味なんです」


「……うん」


「お母さんの味がじゃないのに、なのに美味しくて。どんどん、お母さんの作ってくれた料理の味が思い出せなくなって。それが怖かったんです。お母さんが、どこにもいなくなっちゃうのが」


 篠森の目尻に、透明な涙が浮かぶ。


「わたしは、わたしだけは、お母さんのご飯の味を覚えておかなきゃって、思って。だってそうしなきゃ、お母さんが、いなかったことになっちゃうじゃないですか」


 それが、篠森が同好会を立ち上げた理由。

 双葉さんの料理ではなく、亡くなった母親から教わった料理を作って食べるために。 

 あの家庭科室は、そのために彼女が作り上げた居場所だった。


「だから、わたし、わたしは、」


 私は彼女の薄い身体に腕を回して、背中をそっと抱き寄せた。びくり、と怯えたように身体が震える。


「いなくならないよ」


 腕の中で、篠森が小さく身じろぎをした。


「私が覚えてるから。たとえ篠森が忘れちゃっても。これまで篠森が作ってくれたご飯の味は、私が全部、全部覚えておくから」


 背中に回した手に力を込める。

 篠森は、顔を私の首すじに押し付けたまま、小さくしゃくりあげはじめた。

 幼い子供みたいな彼女の泣き声が聞こえなくなるまで、私はずっと、その背中を撫でていた。 


  †


 どのくらい、闇の中でそうしていたのだろうか。

 お化け屋敷に入ってきたお客さんが、「きゃああああ!」とお手本みたいな悲鳴を上げた。それを聞いて我に返った私たちは、なんとなく気まずい感じで身体を離した。めっちゃ恥ずかしいことを言った気がする。気のせいであってほしい。

 シーツを出た私は、そのまま篠森の手を引いて生徒会室へ向かった。

 店内にいた双葉さんは、もうナポリタンをすっかり食べ終えていた。彼女は篠森の姿を見つけて瞠目し、私のほうへと会釈した。

 篠森が、双葉さんの向かいへと腰掛ける。

 そして、静かに問いかけた。

 

「ナポリタン、美味しかったですか」


 予想外の質問だったのだろう。双葉さんは面食らったように瞬きをして、手元の紙皿を見下ろし、それから訥々と言った。


「え、ええ。美味しかったわ。なんだか懐かしい感じがして……」


 篠森もまた、ひと言ひと言を区切るように、小さな声で続けた。


「この店のレシピは、私が決めました。あのナポリタンは、わたしのお母さんの味です」


「──そうだったの」


 頷く双葉さんの瞳には、どこか諦観と痛みのようなものがあった。

 けれど。


「今度、作り方を教えますから。だから、双葉さんのレシピも教えてください」


「……え?」


 がばっと双葉さんが顔を上げた。

 下を向いて視線を逸らしたまま、篠森が続ける。


「わたしは、お母さんの作る料理が好きでした。この味を、忘れたくないと思ってます。でも、本当は、双葉さんの作る料理も、そんなに嫌いじゃないです。ううん、」


 ゆっくりと、深く息を吐き出すように言う。


「美味しいと、思ってます」


 そこまで言い終えてから、篠森はゆっくりと頭を下げた。


「我が儘を言ってごめんなさい」


 双葉さんの両目に涙の膜が張る。彼女は両手で顔を覆って、いいの、と言った。

 もういいのよ、と。

 さて。

 無言でコーヒーを飲み交わす二人を見ながら、私もまた、部屋の隅で苦いブラックコーヒーを飲んでいた。

 青葉先輩が選んだマンダリンは、香りは甘いけどほろ苦い。

 正直にいえば、ちょっとばかり複雑な気分だった。

 ……嘘だ。本当は、ちょっとじゃない。全然、ちょっとなんかじゃない。

 放課後の家庭科室は、篠森にとってシェルターだった。

 友達がおらず、双葉さんとの折り合いも悪かった彼女が自身の心を守るために作り上げた、避難場所だったはずだ。

 けれど、もはや嵐は過ぎ去ってしまった。ひとりぼっちだった、寄る辺なき少女はもういない。

 今の篠森には、ちゃんと居場所がある。学校にも、多分、家にも。

 だから。

 きっとあの場所は、役目を終え、なくなるのだと思う。

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