「ひっくり返すの、私やってもいい?」


「……どうぞ」


 渡されたフライ返しを、生地とフライパンの間に差し込んでいく。

 軽くフライパンをゆすって、生地が離れたことを確認してから──「よっ」と、ひと息に裏返した。


「やたっ。見てよこれ、完璧じゃない?」


「はいはい、お見事でした」


 フライ返しを篠森に返す。

 篠森は裏面をさっと焼いて、きつね色のパンケーキをお皿に載せた。焼けた小麦粉の匂いと、砂糖の甘い香りがふわっと香る。

 篠森は間をおかず、すぐに二枚目を焼き始めた。


「今度は篠森がひっくり返していいよ」


「なんでちょっと上から目線なんですか」


 クリーム色をした生地に、ふつふつと穴が空いていく。

 篠森はフライパンを前後に揺さぶった後、手首にぐっと力を込めた。

 フライパンが跳ね上がり、パンケーキが空を舞う。

 そのまま半回転して、裏面を下にして着地。


「え、えっ。今の何⁉︎」


「何って、普通にひっくり返しただけですけど」


「えー、かっこいい……私もやりたい……」


「もう生地がないので、また今度で」


 二枚目のパンケーキも焼き上がる。

 一枚目の上に重ねて、カットしたバターを載せれば、いよいよ主役の登場だ。


「メイプルシロップです」


「これが……!」


 透明な硝子瓶に入った、琥珀色の液体。

 ラベルには赤い葉っぱのロゴがプリントされている。一種、紅葉モミジかと思ったけれど、これはカエデの葉だろう。メイプルシロップの原料は、カエデの樹液だ。

 樹液を煮詰めるとシロップになる。あらためて考えると、なんだかすごい話だ。生命の神秘を感じる。


「なんていうか、カエデってすごいよね」


「は⁉︎ い、いきなりなんですか先輩」


 何故か顔を赤くした篠森が、のけぞるように言った。


「え、だってすごくない? 樹液がシロップになるなんて、植物って不思議だよね」


「……そっちのカエデですか。……あー、もう、えらいびっくりしたやんか……」


「そっちの、って──あ」


 ようやく気づいた。

 篠森のフルネームは、篠森楓だ。

 つまり今、突然名前で呼んだと思われたのか。おおう。

 ……いや、別によくないか?

 そういえば、私は篠森をずっと名字で呼んでいる。別に拘る理由はないけれど、最初に名字で呼んで以来、なんとなくそうしてきた。

 ひょっとすると、名前で呼んでほしかったりするのだろうか?

 一応聞いてみることにする。


「これから篠森のこと、『楓』って呼んだほうがいい?」


「……篠森でいいです」


 篠森は横を向いたままエプロンを脱ぎ、シュシュを外した。

 メイプルシロップの瓶を手に取り、蓋を開けて、ちょっとやりすぎじゃない? ってくらいの量をパンケーキに回し掛ける。

 さらに彼女は、冷蔵庫から別の皿を持ってきた。

 ラップされた皿には、黄色いペーストがこんもりと盛られている。ところどころ、濃い緑色の部分もあった。


「それ、もしかしてかぼちゃ?」


「はい。ナッツとメイプルシロップを混ぜた、パンプキンサラダです。先輩が来る前に作りました」


「いいね」


 調理台に並べて、手を合わせる。

 パンプキンサラダも魅力的だけど、やっぱりまずはパンケーキから。

 手にしたフォークで、メイプルシロップがたっぷり染み込んだ生地を突き刺す。


「ふあぁ……」


 口に入れた瞬間、じゅわっと広がるシロップの甘みと、鼻から抜けていく木の香り。

 もちろん甘いんだけど、深い琥珀色の見た目から受ける印象よりずっとスッキリした甘さだ。篠森が「これでもか」という量を掛けていたのも、これなら頷ける。


「幸せの味がするぅ……」


「そ、そうですか」


 この反応。若干引いているな、篠森。仕方ないじゃないか。甘くて美味しいんだから。


「メイプルシロップって、やっぱりちょっと木の香りがするんだね」


「そうですね。サトウカエデの樹液を煮詰めたものですから、普通のシロップとはかなり印象が違います」


「楓って、こんなに良い匂いがするんだねえ」


「っ、ごほっ、けほっ」


「どしたの篠森」


「……わざとですか?」


 どうだろう。

 にやにやしていると、赤い顔でギロッと睨まれた。怖い怖い。

 パンプキンサラダをフォークで掬う。

 うん、こちらも美味しい。

 当然、パンケーキほどダイレクトにメイプルシロップの味はしないけれど、かぼちゃペーストの舌触りとカリッとしたナッツの食感、上品なシロップの甘さがマッチしている。サラダというか、スイートポテトみたいだ。


「こっちも美味しいよ、篠森」


「そうですか、よかったですね」


 からかわれたことを根に持っているのか、篠森の態度は素っ気ない。

 横を向いたまま、ぱくぱくとパンケーキを口に詰め込んでいく。


「ごめんって。機嫌直してよ。ね?」


「……お願いを聞いてくれたら、直してあげてもいいです」


 別にルールが決まっているわけではないけれど、食事の対価として、篠森は時々私に「お願い」をする。

 一緒にミスドへ行きたいとか、マックでポテトシェイクを食べたいとか、そういうのだ。

 別に毎回奢りとかじゃなく、各自で支払うことのほうが多い。

 つまり、基本的には一緒にお出かけするだけだ。

 別にそんな交換条件みたいにしなくても、全然付き合うのに。


「いいよ。どこ行きたいの? ミスド? マック? それともクレープとか」


「いえ、食べ物じゃなくて」


「え?」


「その。そろそろ夏服、買いたいんですけど。一人だと迷い過ぎちゃうので」

 

 ああ、そういうことか。

 私は深く考えずに頷いた。


「うん、いいよ」


「本当ですか?」


「服買いに行くんでしょ? 全然付き合うよ、そのくらい」


 しばらく土日の予定は空いてるし、そういう買い物は嫌いじゃない。


「今週末でいい?」


「はい。あ、いえ、やっぱり来週で」


「別にいいけど、なんで?」


 視線を逸らして、髪を一房摘んだ篠森が、赤い顔で呟いた。


「……着ていく服、買いに行くので」

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