そのひと言に、思わず私は食いついてしまった。


「えっ、いいの?」


「少し待ってもらえれば」


 空の丼を流しに置いた篠森が、エプロンを取り出した。

 飾り気のないシンプルなデザインだけど、裾に青い鳥のワンポイントが入っている。

 浅葱色の生地が、彼女の肌によく映えていた。


「っ、と」


 水色のシュシュで髪をまとめ、ブラウスのうえからエプロンを羽織る。

 やけに颯爽とした足取りで冷蔵庫へ向かった彼女が持ってきたのは、卵と玉ねぎ、それからボウルに入った豚肉だ。

 私はまったく料理をしないから、豚肉の種類(部位?)はよくわからない。精々、薄切りだなあ、というくらいだ。

 それでもこの材料を見れば、さっき篠森が口にした言葉の意味は理解できる。


「そっか、豚と卵だから他人丼」


 鶏肉と卵で作るから親子丼。豚肉と卵で作るから他人丼、か。

 なるほど。


「それ、自分で買ったの?」


「店の冷蔵庫から持ってきました。私の家、定食屋なので」


 店の名前を聞いてみたいと思ったが、今の感じだと教えてくれそうにない。

 代わりに、気になったことを尋ねてみた。


「お店のもの持ち出して、怒られない?」


「賞味期限切れ前のですから。捨てるよりマシでしょ」


 つっけどんに答えて、篠森は更に醤油と味醂、砂糖に顆粒出汁、料理酒まで持ちだしてくる。

 まだ入学して一月ちょっとなのに、家庭科室のヌシみたいな風格だ。


「調味料って、賞味期限ないんじゃない? よく知らないけど」


「ありますし、これは自腹です」


 まじか。

 お小遣いで調味料を買う高校生を初めて見た。

 篠森は玉ねぎの皮を剥き、無骨な包丁を手に取った。ストン、と二つに割って細切りにしていく。


「包丁、上手いね……」


 思わずそう呟いてしまうくらい、堂に入った手つきだった。

 一個の四分の一くらいを切ったあたりで手を止めて、ガスコンロに火を点ける。

 篠森は厚底のフライパンに胡麻油を敷いて、玉ねぎを炒め始めた。

 しばらく弱火で炒めたあと、薄切りの豚肉を投入。並行して、ボウルに卵を割って溶いていく。


「篠森って、普段お店の手伝いとかしてるの?」


「別に。ただの趣味です」


 素っ気ない態度とは裏腹に、フライパンを見つめる篠森の目つきは真剣だ。

 豚肉の色が変わり始めたあたりで、彼女は料理酒に砂糖、味醂に顆粒出汁、醤油を次々に投入した。

 琥珀色の汁はすぐに煮立って、ふつふつと泡を浮かべる。


「……そろそろかな」


 篠森は二回に分けて円を描くように卵液を流し入れ、キッとフライパンを睨みつけた。

 居合抜きの達人が、刀の柄に手を掛けた瞬間みたいな謎の迫力がある。

 ただよう緊張感に、隣で見ているだけの私も、ごくりと息を呑んでしまう。


「……今!」


 篠森の右手が閃き、素早くコンロの火を落とした。それから素早くフライパンに蓋をして、1分ほど待機。

 蓋を外すと、ふわっと湯気が立ち昇った。

 フライパンの中身を見て、私は思わず「おお」と感嘆した。

 すごい。完璧な半熟具合だ。なんというか、「ふわっ、トロッ」という感じ。

 火が通り過ぎるのを防ぐためだろうか。篠森はフライパンを濡れ布巾に載せて、丼を手に取った。


「そういえば、ご飯は?」


「あそこです」


 細い指が部屋の隅を指し示す。棚の上に、数台の炊飯器が並んで置かれていた。

 気づかなかった。あんなものまであったのか、うちの家庭科室は。


「ご飯もここで炊いてるんだね」


「ここの炊飯器、早炊き機能があって便利なので」


 炊飯器の前に移動した篠森が、丼に白米を盛り付けた。

 最後にフライパンの中身を載せれば、他人丼の完成だ。


「どうぞ」


 無愛想な態度で、篠森は丼を私の前に置いた。


「い、いただきます」


 食欲はすでに限界を超えている。箸を引っ掴んで、遠慮なく頂くことにした。

 まずはひと口。ご飯に具を載せて、ぱくりと食べる。


「──美味しい!」


 思わず声が出てしまった。

 篠森が、びっくりした猫みたく肩を震わせる。驚かせてしまって申し訳ない。

 だけど篠森の丼は、つい声が出てしまうくらい美味しかった。

 くたくたに煮えた玉ねぎの甘さと、しっとり煮えた豚肉の力強い旨み。その二つをまとめあげる、ふわふわの卵の食感。

 ご飯に染みた汁の味もいい。適度に甘じょっぱくて、どんどん箸が進む。

 全然食べ飽きないのに、どこか懐かしくて、ほっと安心する味だ。


「……なんやこの人、めっちゃ美味そうに食べよる……」


 ぼそっと呟く声に、顔を上げる。

 篠森が、ハッとしたように両手で口元を押さえていた。

 今のは方言かだろうか。地方の出身とは気づかなかった。

 訛り、隠さなくていいのに。

 でも、本人が隠したいなら、気づかなかったふりをするのが正しい振舞いかもしれない。

 

「篠森、これ美味しい。めちゃくちゃ美味しいよ」


「そうですか。よかったですね」

 

 つんと篠森が横を向く。髪の隙間から見える耳が赤くなっていた。

 なんだ。褒められて赤くなるなんて、可愛いところもあるじゃないか。


「私さ。ちょっと事情があって、藤乃ちゃん──叔母さんと住んでるんだ。でも、私も叔母さんもさっぱり自炊できないから、家では冷凍食品ばっかりなんだよね。それかコンビニ弁当」


 篠森が、横目で私を見た。


「美味しいじゃないですか。ニチレイの冷凍本格炒め炒飯」


 予想外に具体的な商品名が出てきた。いや知ってるけど。


「あれ美味しいよね。じゃなくて。美味しいんだけど、さすがに飽きるっていうか。特に一人で食べてると、どうしてもさ」


「そうですか」


「うん。だからかな。すごく満たされる感じがする」


「……そうですか」


 夢中になっていたせいか、あっという間に完食してしまった。久々に食べる誰かの手料理は、なんというか、沁みる味がした。

 空の丼に両手を合わせて、「ごちそうさまでした」と声に出す。

 そういえば、ちゃんと「ごちそうさま」を口にしたのはいつぶりだろう?


「美味しかったよ。料理、上手なんだね」


「これくらい、普通です。父のほうがずっと上手いですし」


 それはまあ、プロと比べたら分が悪いだろうけど。それでも手際の良さは際立っていた。


「すごいって。ほんと尊敬する。私、料理できないし」


「先輩は大袈裟な人ですね」


 ふと思い出したように、篠森が険しい顔に戻った。


「──で。結局、わたしに何のご用ですか」


 そうだった。

 ポケットの中にある申請書のことを思い出す。

 私は別に、お腹を満たすためにここへ来たわけじゃない。

 生徒会副会長として、ひとり同好会である料理研究会を廃止するよう、説得に来たのだ。


「……えっと……」


 ご馳走になった手前、ものすごく切り出しにくい。大人の世界に「接待」という文化がある理由を身をもって知ってしまった。


「し、篠森は、どうして家庭科室で料理してるの?」


「話を逸らさないでください」


 篠森が、大きな目で私を睨めつける。見惚れてしまうほど澄んだ、勝気な目だった。

 けれど、すぐに彼女の双眸は力を失った。華奢な肩から力が抜けて、すとんと落ちる。


「……やっぱり、廃止ですか。同好会」


「……知ってたんだ」


「噂になってましたから。少人数の同好会が、一律廃止になるって。だから、そのうち生徒会の人が来ると思ってました」


 出会い頭の頑なな態度は、それが理由か。

 どこから情報が漏れたのだろう。生徒会のメンバーでなければ、部活動の顧問たちが口を滑らせたのか。

 篠森が身を乗り出した。


「あの、予算なら要りません。だから、同好会を続けさせて貰えませんか」


「それは……でも、ひとりだけ特別ってわけには」


「お願いします。わたしには、ここが必要なんです」


 私は目を見張った。

 篠森が、深く頭を下げている。

 ここに来てからずっと、気の強い態度を見せ続けていたのに。


「どうしてそこまで、同好会にこだわるの? 篠森はまだ入学したばかりだし、どの部活に入ってもすぐ馴染めるよ。料理なら、家でもできるだろうし」

 

 再び沈黙の帷が降りる。

 ややあってから、篠森は呟くように言った。


「年明けに、父が再婚したんです」


「……そうなんだ」


「だから正直、家に居づらくて。あの人がキッチンにいるから、料理もできないし」


 あの人。

 それが義理の母を指していることはわかる。けれど、そう言い捨てた篠森の声の冷たさに、私は動揺した。

 かろうじて「そっか」とだけ言って、視線を外す。

 赤と臙脂のチェックスカートの中で、かさりと申請書が音を立てる。

 同好会が廃止になれば、篠森は家庭科室を自由に使う権利を失う。

 放課後は別の部活なり同好会に入って過ごすか、あるいは気まずい家に帰るしかない。せめて、付き合ってくれる友達がいれば話は別だろうけど。

 ただ、篠森からは濃密な孤独の匂いがした。

 雨に打たれてびしょ濡れになった、野良猫の匂いだ。

 この匂いには心当たりがある。


「ここで料理するの、好きなんです。広いし、道具も揃ってるし。何を作っても、誰にも何も言われないし。高校も、ほんとは調理科のある所に行きたかったんですけど、ダメだって反対されて」


 俯いた顔に隠し切れない切実さを滲ませながら、篠森はスカートの裾を指で擦った。


「だから、わたしが料理をできる場所は、もう、ここしか……」


「……。」


 私は否応なく理解した。

 この家庭科室こそが、篠森にとって、ただ一つの居場所なのだ。

 海浜高校には、他に料理をする部活動は存在しない。ここを失えば、篠森は行き場を失う。もしかしたら、料理さえ辞めてしまうかもしれない。

 打ちひしがれたみたいに肩を落とす篠森の姿が、いつかの自分に重なった。

 教室から逃げ出し、埃塗れの階段で、ひとりぼっちでお弁当箱を広げていた、中学二年生の自分に。

 あの頃の自分は、ずっと誰かに助けを求めていた。

 声のない声で、自分を見つけてくれる人を祈っていた。

 そのとき差し伸べられた手があったから、私は高校で生徒会に入ったのだ。


「わかった」


 と、私は言った。


「私がなんとかする」


 篠森が目を見開く。長い睫毛が、僅かに濡れていた。


「なんとかって、なんですか」


「まあ、こう見えて副会長だからね。同好会のひとつやふたつ、どうとでもなるって」


 正直、これは虚勢だ。

 本当は、そこまで容易いことじゃない。顧問の先生方を説得して、納得させなくてはいけない。余計な仕事だ。やる必要のないことだ。

 それでも、こういうときのために、私は副会長に立候補したはずだ。

 あの人のように、誰かの居場所を守れる人になりたかったから。

 あやうく忘れてしまうところだった。


「ここ、篠森の大切な場所なんでしょ。そういう場所はさ、手放しちゃだめだよ」


 手を伸ばして、篠森の頭に触れる。

 艶やかな髪は少しだけ硬質で、なんだか野良猫を撫でている気分だ。セットを崩されないよう、そっと指を動かす。黒髪が、指の合間を滑っていく。

 生徒会室の掛け軸には、海浜高校の標語が揮毫されている。

 曰く、自律。自主。そして、自由。

 ありふれた綺麗事のお題目でも、生徒を守るのが生徒会役員の本質だと、私はもう知っている。

 憧れの先輩を真似て、私は言った。


「生徒の居場所を守るのが、生徒会の役目だからね。大船に乗ったつもりで、任せておいて」

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