私と彼女と、家庭科室の逢引ごはん。

深水紅茶(リプトン)

プロローグ-背徳ガーリック炒飯-

 県立海浜高等学校の生徒会は忙しい。

 自律、自主、自由。そんなモットーを掲げてあるだけあって、公立校ながら生徒の裁量権が大きいからだ。

 まして副会長となれば尚更で、放課後はほとんど毎日、生徒会室へ足を運ぶことになる。

 そういうわけで、本日の仕事がひと段落したのは、十七時を過ぎた頃だった。


「この後、駅前のサイゼ行くやついるかー?」


 神楽坂会長の呼びかけに、ぱらぱらと何人かが手を挙げた。我が校始まって以来の傑物と名高い彼女は、人望だって厚い。

 切れ長の目が、手を下ろしたままの私を捉えた。


「桜ちゃんは? 行かねーの」


「すみません、今日はちょっと」


「おー」


 何かと奔放な人だけど、誘いを断られたくらいで嫌な顔を見せたりしない。

 ただ、下級生をからかうのは大好きだ。

 にたぁ、と妖怪みたいに笑って言う。


「さては逢引か」


「会長って昭和の生まれでしたっけ」


 そんなのじゃないですよ、と否定して席を立つ。

 生徒会室を出た私は、スカートからスマホを取り出してメッセージを送信した。


『これから向かうから』


 廊下に連なる窓から、真っ赤な夕陽が差し込んでいる。

 足早に廊下を歩く。リノリウムの床に靴底が擦れて、きゅっと音を立てた。

 弾む心は、なんだか本当に、逢引──デートへ向かうみたいだ。


「そんなんじゃないって」


 誰も聞いていないのに、口に出して否定する。

 実際、これから待っているのは恋とか愛とか、そういう柑橘系の甘酸っぱさじゃない。

 どちらかといえばもっとこう、ガッツリ系だ。

 家庭科室に着く。ふわっと漏れてきた胡麻油の香りに、思わずごくりと喉が鳴った。

 引き戸を開ける。

 じゅわあ、と油の跳ねる音がした。

 夕日に照らされ、赫赫と燃えるステンレスの調理台。そこへ設置されたガスコンロの前に、入り口に背を向けた女の子が一人、ぽつんと立っている。

 小柄で、華奢な女の子だ。

 学校指定のブラウスの上から、浅葱色のエプロンをつけている。水色のシュシュでくくられた濡れ羽色の髪は長く艶やかで、垣間見える首は雪のように白い。


「篠森」


 名前を呼んであげたのに、彼女はこちらを振り返らない。

 コンロに向き合ったまま、じっと大きな中華鍋を見下ろしている。

 返事を待たずに、私は続けた。


「今日のメニュー、なに?」


「炒飯です」


「うわっ、大好き。一番好き」


「そうですか」


 ようやく篠森が、肩越しに振り返った。

 黒目がちの双眸が、からかうように私を見ている。


「あーあ」


 桜色をした唇が、どこか楽しげにゆがんだ。


「成績優秀で容姿端麗。憧れの蘇芳副会長の好物が炒飯だって知ったら、クラスのみんなはガッカリするだろうな」


「ちょっと、言いふらさないでよ」


「誰にも言いませんよ。わたし、友達いないので」


 人より恵まれた容姿をしているのに、篠森は私の他に友達がいない。

 まだ一年の五月ということを差し引いても、原因はおそらく彼女自身にある。クールなうえに、人一倍警戒心が強いのだ。

 縄張り意識の強い猫に似ているな、と私は思う。


「でも、黙っていてもバレちゃうかもしれませんね」


 篠森が、なにか不思議な形の器具を握った。ステンレス製のハサミのような、あるいはハンドグリップのような。

 彼女がグッと持ち手を握ると、器具の先端から白っぽい色の半固体が押し出された。


「なにしろ今日の炒飯は、ただの炒飯じゃありません。ニンニクたっぷりの、ガーリック炒飯ですから」


 ぶわっ。

 そうとしか表現できない勢いで、鍋からニンニク臭が立ち昇った。

 そうか。さっきの器具は、ニンニクを潰すための道具だったのか。

 私はブレザーを脱いで、臭いがつかないよう部屋の隅の椅子に掛けた。


「具材は冷凍しておいた刻み万能ネギと、この前炊飯器で作った叉焼の残り。脂身は刻んで胡麻油に混ぜました。こうすると、コクが出るんですよね」


「へ、へえー……そうなんだ……」


 やばい。

 話を聞いているだけなのに、舌の後ろからじゅわっと唾液が湧いてくる。

 ただの炒飯じゃない。篠森の作る炒飯だ。彼女の料理の腕前は、この高校で私が一番よく知っている。


「一応聞きますけど、食べますか? ガーリック炒飯」


 篠森が鉄鍋に溶き卵を注いだ。心地よい焼き音が鼓膜を震わせる。

 炒飯。周囲の目。ニンニク臭をまき散らすリスク。炒飯。篠森のご飯。

 すべてを天秤にかけて、私は覚悟を決めた。


「食べる」


「それでこそ先輩です」


 お玉の動きが加速する。

 底が固まった黄金色の卵に、真っ白なご飯が投入された。顆粒状の鶏ガラを振りかけて、固まりかけの卵と混ぜ合わせながら、カツカツとご飯のダマを崩していく。

 油を吸ったご飯が崩れて、パラリとほどけたところに醤油をさっとひと回し。

 ツンと尖った匂いが立ち上がり、すぐに香ばしさに変わる。

 みぞおちの辺りが鳴きださないようお腹を撫でながら、私は篠森に尋ねた。


「ほんとにお金、払わなくていいの? 材料費とか」


「気にしないでください。店の余り物ですから」


「でも」


「……そこまで言うなら」


 お玉を動かす手を止めないまま、篠森はちらりと私を見た。


「わたし、ミスドの新作が食べたいです。抹茶のやつ」


 咄嗟に、毎月藤乃ちゃん経由で受け取っている生活費の日割り金額と、限定ドーナツ一個の値段を脳内で比較する。

 全然、問題ない。むしろお得なくらいだ。


「わかった。いいよ」


「取引成立ですね」


 カンと鍋の縁を叩いて、お玉が止まった。

 ガスコンロの火が落ちる。ふわりと白い湯気が立ち上った。焦げた醤油とニンニクの匂いが、食欲をこれでもかと煽り立てる。

 家庭科室備え付けの皿に盛られた炒飯は、きっちり二人分だ。

 初めから、私が断るなんて考えてもいなかったらしい。

 見透かされているようで腹が立つけど、食欲の前に全部がどうでもよくなる。皿に銀色のスプーンを載せて、篠森が言った。


「レンゲがないので、スプーンで」


「いいよ、何でも。早く食べよう」


「先輩って、全然食欲を我慢できない人ですよね」

 

「うるさい」


 調理台を囲む丸椅子に腰かける。

 白磁の平皿にこんもり盛られた黄金色の炒飯。具は、端の焦げた刻み葱と、角刈りの煮豚。ところどころにある炒り卵だけ。

 でも、そのシンプルさがいい。

 香ばしい匂いを肺いっぱいに吸い込んで、私は髪の毛をヘアゴムでさっと纏めた。

 両手をぱちんと打ち合わせる。


「いただきます」


 スプーンを差し込むと、はらりとご飯が湯気を立てて崩れた。たっぷり掬って、口の中へ放り込む。


「んんっ」


 うおっ、って感じだ。

 口に入れた瞬間、潰しニンニクが想像を超えるパワーで襲ってきた。ガツンとくる強烈な風味が、ふわっと鼻から抜けていく。

 同時に、口いっぱいに広がる旨味と塩気。ラードと鶏ガラの旨味をたっぷり吸ったご飯に、叉焼の甘じょっぱさと卵のふんわり食感がコラボして、怒涛のような幸福感が押し寄せる。

 あ、これ駄目なやつだ。

 美味すぎて駄目なやつ。

 食べているのに何故かどんどんお腹が空いて、スプーンが止まらない。


「先輩、先輩」


「な、なに?」


「いいモノ、ありますよ」


 対面で同じように炒飯を食べていた篠森が、小さな瓶を私へ差し出した。

 ルビーを溶かしたような真っ赤な液体に、謎の粉末とガーリックスライスが沈んだそれは──食べるラー油だ。

 私は心の底から戦慄した。こいつ何考えてやがる。


「篠森、さすがにそれは駄目でしょ……?」


「なにが駄目なんですか、先輩」


「学校でガーリック炒飯食べて、その上に『食べるラー油』掛けるなんて、女子高生がやっていいわけなくない? やめよ? 今ならまだ引き返せるから」


「声、震えてますよ」


「鼻がテカテカしちゃうって。駄目駄目、ぜったい駄目」


「底に溜まってる粉をよーく混ぜて、と」


「やめようよ。ぜったい駄目だって。炒飯に食べるラー油は校則違反だから」


「そんな校則ありませんよ」


「あるもん。だって副会長が言ってるんだよ?」


「先輩って、ご飯食べてるときだけ知能指数が下がりますよね」


 たぱぁ。

 小匙一杯のラー油が、篠森の炒飯に降りかかった。

 ちゃちゃっとスプーンで混ぜて、赤く照らついた炒飯が篠森のちっちゃな口へと吸い込まれていく。

 カリッ。

 小さな音がした。カリカリに揚がったフライドガーリックが砕ける音だ。同時に、私の理性が破壊される音でもあった。

 あああああああ。

 気づけば私は、「食べるラー油」を炒飯に掛けて口いっぱいに頬張っていた。


「うっっっま」


 ただでさえ絶品の篠森特製炒飯に、食べるラー油の旨辛成分が加わって、もはや暴力を感じるほどの美味さだ。

 スプーンが加速する。

 あっという間にお皿の上が空になった。早食いが駄目なのは分かっているのに、理性が全然働かなかった。

 篠森の作る料理を前にすると、いつもこうだ。夢中で食べてしまう。


「美味しかった……」


「それはどうも」


 ポケットティッシュで口元を拭う。強烈な満足感が、みぞおちのあたりから湧いてくる。

 そして。


「ああああ、やっちゃったぁ……」


 罪悪感も襲ってくる。

 私は手で口を覆って、おそるおそる息を吐きだした。鼻で吸って、思わず顔をしかめる。


「ニンニク臭っ」


 案の定だ。

 自分で嗅いでこれなら、他人からしたらもっと強烈だろう。

 困った。校舎には、まだ多くの生徒が残っている。すれ違いざまに気づかれるリスクはゼロじゃない。このままだと、クラスメイトや後輩たちにドン引きされてしまう。

 頭を抱える私に、篠森が皿を差し出した。


「先輩、デザートです」


「え?」


 皿を見下ろす。

 赤い皮に白い果肉。八等分され、芯の部分を切り取った、お馴染みの果物だ。


「林檎?」


「林檎の皮に含まれているリンゴポリフェノールは、ニンニクのアリシンを変質させて匂いを抑える働きがあります。あとはブレスケア飲んで、歯磨きすれば大丈夫かと」


 林檎にそんな効果が。初耳だった。

 こと食べ物に関して、篠森は幅広い知識を持っている。


「さ、早く食べてください。下校時刻になる前に」


 二人で一緒に、皿の上の林檎を摘む。爽やかな酸味が、口の中の油をさっぱりと洗い流していく。

 篠森も両手で林檎を持って、ハムスターみたいに齧り始めた。

 小動物みたいな仕草に、思わずまじまじと見てしまう。


「……あの、なんですか? ちょっと食べにくいんですけど」


「や、別に。今日も篠森は可愛いなぁ、と思って」


 篠森は半目になって、ついと横を向いた。


「そういう冗談、やめてください」


 もちろん冗談なんかじゃない。

 艶やかな黒髪と、白い肌。すらりと伸びた手足と、小柄で華奢な体躯。

 言うまでもなく、篠森は美少女だ。

 ただし、頭に「孤高の」がつくタイプの。

 甘い砂糖菓子で作られたような容姿と、他を寄せ付けないクールな性格で、若干クラスで浮いている──らしい。

 直接見たわけではないけれど。

 だけど、私は知っている。

 可憐な見た目も強気な態度も、彼女のほんの一面でしかない。

 本当の篠森楓は、無類の料理好きで、意外と食い意地が張っていて、放課後の家庭科室でニンニクたっぷりの炒飯を作ってしまうような女の子だ。


 さて。

 私、蘇芳桜と。

 彼女、篠森楓が。

 こうして、放課後の家庭科室でご飯を食べるようになったのは、今から二週間前のことだった。

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