25:お疲れ様でした

 二人の頭上に蒼い水晶が浮かぶ。

 氷柱という名の凶器がギスラン様に降り注ぐ前に、私たちは死に物狂いで駆けつけた。


 ルーク様が炎の壁をドーム状に展開し、間一髪で氷柱の襲撃を防ぐ。


 炎の熱で辺り一帯の凍結が解けていく。

 ルーク様の苦しそうな呼吸音が聞こえる。

 強力な魔法を連発したせいで、ルーク様の顔面は蒼白だ。

 これ以上無理をすれば本当に死んでしまいかねない。


 これが最初で最後の浄化のチャンスだ。


 私は息を切らしてフィルディス様の傍に跪いたものの、逡巡した。


 神聖力は私の手のひらを中心として放射状に放たれる。


 自由を求めて暴れるフィルディス様を全力で抑え込み、左腕を噛ませているギスラン様を効果対象外にするなんて器用な真似はできない。


「ためらうな!! 俺ごと浄化しろ!!」

 切羽詰まった様子でギスラン様が怒鳴った。

 彼の左腕からは瘴気が立ち上り続けている。


 理性が根こそぎ消し飛んだフィルディス様はギスラン様の腕を容赦なく噛み砕こうとしているらしい。


 皮膚に浮かぶ醜い茨も、恐ろしい形相も、これ以上見たくなかった。

 フィルディス様を救えるのは私だけだ。


「……わかりました!」

 私は覚悟を決めて、両手をフィルディス様の身体にかざした。


 ――お願いです、どうか戻ってきて、フィルディス様!!

 瘴気よ、消え去れ!!


 強く念じると、両手が眩い金色の光を放った。

 風が沸き起こり、前髪がふわりと浮く。


「……っ!!」

 熱した石に水を浴びせると大量の湯気が出るように、金色の光を浴びたギスラン様から大量の瘴気が噴き出した。


 ギスラン様は俯き、身体を痙攣させている。

 彼にとって浄化の光は猛毒だ。

 もはや拷問、それこそ炎に炙られているに等しい苦痛だろう。


 ――ごめんなさい、ギスラン様。どうか耐えてください。

 早く、早く、お願い、早く!!

 

 ギスラン様のことが心配で堪らず、私は奥歯を噛み締め、全力で光を放った。


 金色の光は黒い瘴気を散らした。フィルディス様の皮膚を這いずり回る醜い紋様も消えていく。


 フィルディス様の瞳から狂気の光が失せた。

 赤かった瞳が元の青へと戻り、ギスラン様の首にかかっていた手が地面に落ちる。


 ギスラン様が傷だらけの左腕を引いた。ようやくフィルディス様が噛むのを止め、解放されたらしい。


「――――」

 ふっ、と。

 蝋燭の炎を吹き消すように、フィルディス様は気を失った。

 再びその身体から瘴気が立ち上る気配はない。皮膚も問題なく綺麗だ。


 もう大丈夫だろう。

 そうであることを祈りつつ、私は浄化を止めて手を下ろした。


 途端に、ギスラン様の身体が大きく傾いだ。


「ギスラン様!?」

 反射的に手を伸ばそうとして引っ込める。

 私が彼に触れては駄目だ。余計に苦しませてしまう。


「大丈夫か!?」

 慌ててルーク様が跪いた。

 濡れた大地にギスラン様が倒れ込む寸前で肩を掴み、その背中を支える。


「……なんとかな」

 ギスラン様は額に脂汗を滲ませ、掠れた声で言った。

 私が神聖力の放出を止めると同時に全身から噴き出していた瘴気は収まったものの、フィルディス様に噛まれていた左腕はまだ修復中らしく、瘴気が立ち上っている。


「……俺のことより……フィルディスは?」

「フィルディス様は……」


 フィルディス様は地面に仰向けに倒れている。

 まるで死んだように眠っているけれど、触れたその頬は温かかった。


「大丈夫です。眠ってます」

 言いながら、私はフィルディス様を抱き起こした。

 フィルディス様の髪や背中は泥だらけだが、そんなことはどうだっていい。構うものか。


「そうか……」

 ギスラン様は安堵したように目を閉じ、それからしばらく動かなかった。

 私たちの中で、ギスラン様一人だけが満身創痍だ。

 自己再生能力で怪我自体は治るとはいえ、心身に受けたダメージがゼロになるわけではない。


《全く、無茶をする》

 フェンリルが近づいてきてギスラン様を見下ろした。狼の表情はわかりにくいけれど、じっとギスラン様を見つめる瞳は心配そうだった。


「おい、起きて平気なのかよ。もうちょっと休んだほうがいいんじゃねーか? 無理するな」

 自分の手から離れ、自力で起き上がったギスラン様を見て、ルーク様は眉尻を下げた。


「大丈夫だ。もう動ける」

 ギスラン様は気だるげに頭を動かし、私の腕の中のフィルディス様を見た。

 そして、微かに笑う。


「……大変な目に遭ったが。とにかく、フィルディスが人間に戻れて良かった」

「……そうだな」

 一拍の間を置いて、ルーク様も笑った。


「もうほんと、マジで疲れたし、二度とごめんだけど。フィルが無事だったから何でもいいや」

「はい」

 私は微笑み、もう一度フィルディス様の頬に触れた。

 痛みもなく触れる。瘴気が完全に消えた証拠だ。


「もう大丈夫ですね。今度こそ……本当に、もう大丈夫」

 視界が滲み始めた。

 手の甲で涙を拭っていると、ルーク様が私の肩をポンと叩き、私の手からフィルディス様を取り上げた。


「とりあえず移動しようぜ。ここは寒すぎる」

 フィルディス様を背負い、ルーク様が言った。


「そうですね。ギスラン様、歩けますか?」

「ああ」

 多少ふらつきながらもギスラン様は立ち上がった。

 

「大丈夫か? そうだ、フェンリルに乗せてもらうか?」

 私とルーク様は揃ってフェンリルを見つめた。


《……まあ、お前たちはフィルディスを救ってくれたからな。感謝の印として、一度くらいなら運んでやっても良いぞ》


「いや、いい。歩ける」

 矜持プライドに関わるのか、ギスラン様はきっぱりと断った。

 彼の左腕から立ち上っていた瘴気はいつの間にか消えている。

 血と泥で汚れた服にはあちこち穴が開き、悲惨なことになっているが、その下の皮膚には傷一つ残っていない。驚くべき回復力だった。


「強がりだなー、オレなら絶対乗せてもらうのに。フェンリルってモフモフしてて気持ち良さそうだし。思う存分撫で回したい……」

 熱い眼差しで見つめられて身の危険を覚えたのか、フェンリルは姿を消した。

 エミリオ様の《蝶》と同じように、精霊王は人間の目から逃れることができるのだ。


「あ、逃げた」

 明確な拒絶を残念がることもなく、あっさり言ってルーク様は私に視線を転じた。


「エミリオと合流したら、予定を変更して近くの町に行こうぜ。みんな泥だらけだし、何より疲れ切ってるだろ。精神的にも、肉体的にもさ」

「はい、それが良いと思います。ロンターヌの街には明日行くとして、今日は宿でゆっくり休みましょう。皆さま本当に、お疲れ様でした」

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