5 海は見ないで

  郵便局の駐車場にライトバンを停め、エンジンキーを回そうとしたが 、恭平は思い直してやめた 。エンジン音が消えたら 、樹里との間が持てない気がした。

 彼女は助手席から降りようとせず、背中をまげて前を睨んでいた。横顔は青白く、目の下には濃いくまができている。

 フロントガラス越しに「ぽすくま」の旗が揺れている。その奥には、海と、テトラポットと、堤防が曇り空のしたに佇んでいた。

「あの」

「え?」

「……その、ありがとうございました」

 ためらいがちに、樹里が目を合わせてきた。

「ああ、いえいえ! これくらい、アフターサービスの範囲内ですよ」

 樹里の眉間に皺が寄った。

 捨てられていたビニール袋が、フロントガラスを横切った。

 言葉、間違えた……。

 笑おうとしても、胃がせり上がって冷汗が出る。

 助けを求めるように外を見たら、ぽすくまの旗にプリントされたキャッチフレーズが、大きくはためいた。


『こころ 伝わる』


 思わず膝を叩いていた。

――そうか。これは罪悪感か!

 自覚したら、胸のつまりがするするとほどけていった。

 なんだ、どうやら俺は、知らず知らずのうちに後ろめたさを抱いていたようだ。

 恭平はみぞおちに手を置いた。

 そうだよ、俺だって好きで吉野邸の離婚問題に手を貸したわけじゃない。キャラバンの作業員として働いただけなんだから。

 そうは言いながら、多少の心咎めは残るのだが。しかし今までの比ではなく、恭平は自信を持って樹里を見た。

「あのね、君を車に乗せたのは、お礼が言いたかったからなんだ」

 樹里がきょとんとする。「ペットボトル、ありがとう。親御さんの引っ越しのとき差し入れしてくれたでしょ。他にもこっちが変に気を遣って、君も親御さんも怒らせてしまったようで、申し訳ありませんでした」

 帽子を取り、頭を下げた。

「……お礼なんて、いらない」

 頭の上から、低い声が落ちてきた。「あれは、母のためにやっただけ。あの日、作業してた人達みんな、きっと、母を嫌な奴だと思ってた」

 不意打ちに、なにも言えなかった。

「お母さんは、普段はあんな言い方する人じゃない。飲みものだって……うちは何回か引っ越してるけど、お母さんはいつも、業者の人たちにペットボトルをたくさん用意してた」

 樹里はスケッチバッグを抱きかかえた。「悪く思ってほしくなかったから、私が代わって用意しただけ。だから、お礼はいらない」

「……そう、だったんだ」

 泣きそうな目で、彼女は唇を結んだ。

 もっとなにか、話すことがあるような気がするのに、言葉にならない。

「じゃあ……」

 シートベルトを外し、ドアを開けようとする。「ありがとうございました」

 考えるより早く、口が動いていた。

「で、郵便局で用事を済ませたら、その後どうするの?」

 ドアノブにかけた彼女の指がぴくりと止まった。

「なんで、ですか?」

「――だって、郵便局の用事なんて、あっという間でしょ?」

 なに尋ねてんだよ、俺は!

 樹里は言いよどんだ。顔がほのかに赤くなっていく。

 また胃が痛くなってくる。察してはいたけれど、本当は郵便局に用事なんて、ないんだろ。

「……う」

「う?」嫌な予感がした。

「海を見ていようかな、って……」

「イタい!」

 樹里がびくりと肩を引いた。

 ほんっと、勘弁して!

「こっちとしては、けっこう危ない橋わたってここまで送って……なのに、降ろしたとたん道に迷ったノネコみたいになるって……ほんと困るんだけど!」

「な……そんな、どこに行くかなんて、こっちの勝手です」

「他に時間つぶすとこ、本当にないの?」

「だから! どこに行くかは……」

「そりゃそうだけど、こんな曇りの日に、海をずっと見てるなんて……」

 言い返してくるのを遮るように、恭平は両手で顔を隠した。「それだけはやめて欲しい。連れてきた身にもなってくれ」

「お、恩着せがましい!」

「学校、遅刻でもいいから行かないの?」

「……今日は行く気分じゃない」

「今日は、ねぇ」

「わ……私がいると、色んなものが壊れそうで……。怖くなる」

 絞り出すような声だった。

「……じゃあ、学校に行く気もなかったのに、なんで制服着てるの? せめて私服でぶらつけば、少なくとも学生には見えないし、補導されることもないだろ?」

「……制服で出ないと、お父さんが、心配する」

 なんだよ。その理由。

 顔を背ける樹里は、最初の印象とは全く違っていた。

 この子は存外、周りに気を遣い過ぎているのかも知れない。

「あの、もういいですか? 今日はその、ここまで送ってもらって、すみませんでした」

 開いたドアから潮風が車内に流れ込んできて、彼女の髪が猫のしっぽのように揺れた。

 

 がらんどうになったアトリエ。

 絵の具がはねたフローリング。

 水滴がついたビニール袋。勝手口から覗いた小さな手—―

 多分、これを逃したら、もう会えない。


「今日は!」

 恭平の声に樹里が硬直した。「あと数件、ダンボールを回収するため、俺は車を走らす予定。それが終われば営業所。2時からミーティン。最後は日報。書けば即帰宅」

 予期せず踏んでしまった下手なラップ。彼女が唖然としているうちに、閉まりかかっていた助手席のドアを、左手で押しとどめる。

「そうだなぁ、あと六時間くらいで家に帰れる」

「……そう、ですか」

「だから、俺が帰ってくるまで、うちで休んでていいよ」

 ぴりっと、空気が張り詰めた。「いや……俺としては、この方がよっぽど気が楽だから。君が海を眺めているより、ずっとね」

 樹里は唇を一文字に結んだままだ。

 やらかした。でも、もうしかたない。淫行だなんだと言われようが、ここでさよならすればいいだけだ。

 突然、左手の負荷が消えた。前のめりになって、恭平は慌ててバランスを取った。

 ドアを全開にして、樹里が恭平を見下ろしていた。

 彼女の肩がふっと下りた。瞳には、先ほどとは全く違う、安堵の色が浮かんでいる。

「……先に俺のマンションに寄るから、おいで」

 長い髪がたなびいた。

 彼女はすべりこむようにして、再び助手席に乗り込んだ。



「ただいま戻りました!」

 息をはずませて飛び込むと、営業所に残っていた作業員たちが「おかえり」「お疲れ」とめいめいに返事した。

「社用車、7番駐車場に戻しました」

 恭平は急いで事務員に報告した。

「はいご苦労様」

 ホワイトボードに貼ってある名札の横に、事務員は「13:15」と書いた。

 机に戻り、恭平はパソコンを立ち上げた。日報を手早く打ち込む。

 マウスの横から、クリームパンが現れた。

「水谷くん~、お昼たべないの?」

「浅野さん」

 浅野さんが椅子を引っ張ってきて、隣で弁当箱を開いた。

「パンはデザートですか?」

「欲しかったらあげるよ。250円ね」

 恭平は苦笑して、袋を開いた。

「今日は資材回収に時間かかってたみたいだね。やっぱり一人だと大変だった?」

「あー……いえ。ちょっと寄り道してただけなんで」

「あら」

 浅野さんはフォークを小刻みに振った。「なんだ、上手にさぼってるのね。おばちゃんは安心したよ」

 向こうで事務員が背伸びをする。

「変な言い方しないでくださいよ、……どうしようもなかったんですから」

「え、なになに。ちょっと気になる」

 浅野さんが弁当箱をずいっと差し出した。焦げ目のついたソーセージをもらう。

「実は……」

「うん」

「道路で弱ってたノネコを助けたんですよ」

「……あ。へー」

 すんと頷き、浅野さんは弁当を食べ続けた。恭平も苦笑しながらクリームパンをほおばった。浅野さんは、いい話には食いつきが悪い。


 ミーティングが始まると、窓に、ぽつぽつと水滴がつきはじめた。やがて音を立てて、透明な線が斜めに降り注いだ。

 定時でタイムカードを押し、恭平は営業所を出た。

 いつの間にか雨は止んでいて、駐車場の水たまりに夕日が映っていた。自家用車に乗り込み、恭平は小さく息をついた。

 さて、彼女はまだいるだろうか。

 夕暮れの街を走り抜ける。駅前の交差点で信号待ちしていたら、パティスリーの看板が目についた。

 そうだ、慌てていて、お茶も出してなかったな……。


 ケーキの箱を揺らしながら、マンションの階段を2段飛ばしに歩く。

 鍵を開くと、真っ暗だった。少しがっかりして目を伏せると、玄関の隅に揃えられていた彼女のローファーが共用廊下の明かりで黒光りしていた。

 恭平は、静かに廊下を進んだ。

 リビングの床に、倒れ込んだ人影が薄ぼんやりと見える。

 電気をつけると、リビングが一気に明るくなった。

 座布団を枕にして、樹里はラグの上で眠っていた。まぶしいのか、眉間に皺をよせて瞳を固く閉じている。

 何度か身体を丸めると、また寝息を立て始めた。

「……おーい、疲れてんなら、ベッドで寝なよ」

 隣にしゃがんで、ささやいてみた。彼女の瞼がかすかに震えた。

 やつれた顔してんな……。

 ブランケットをかけてやると、少し穏やかな表情になった。

 足音を立てないようにして、恭平は部屋を出た。




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