あなたは「虚」に溺れ、わたしは「実」に憧れた。

@takukoto57410

第1章 「人」と「女」

夜が明けたようだ。

小鳥の囀りと自動車の走行音。今日も開演を告げることなく二重奏が始まる。

カーテンの隙間から微かに差し込む木漏れ日がスポットライトとなり一人の青年を照らす。

今日が32歳の誕生日であるカタルは、粗末なシングルベッドの上で、汗と涎の染み込んだシーツに巻かれながら横たわっていた。


左右の大きさが微妙に違う目は、極度の近眼のためレンズの分厚い丸ぶち眼鏡に覆われている。

顔の真ん中には団子のように乗っかった鼻。

唇はカサついて一部赤い部分がなく、中途半端に散らかった髭に隠されている。

クセの強い髪の毛は一見豊富に見えるが、掻き毟った頭頂部だけがやや薄い。


両親と同居しているカタルは、6畳ばかりの一室を与えられている。

シングルベッドを置けば動き回れるスペースはほぼないが、カタルはベッドの上に寝そべって、ノートパソコンでゲームをしながら一日中を過ごすため支障はない。

朝も昼も夜も、常に部屋の照明は消したまま。

暗闇の中、ひたすらゲームを楽しんでいた。


一日の始まりは、いわゆる引きこもりのカタルにとっては特に意味を持つものではなかった。

だが、今朝のカタルは一つの行動目標に支配されており、ギラギラと醒めた目をしている。


人を殺そうとしていた。


誕生日に失恋をしていたからだ。


カタルの殺人願望は、実は長い年月をかけて熟成されていった。

「ハジカレタ」

最後に社会から拒絶された日から、カタルが今の生活を正当化する際の口癖となった。

もう8年になる。4番目に勤めた企業から人間失格の烙印を押され離職したのは。


大学卒業までのキャリアは人並み以上であった。

いや、人付き合いが下手だからこそ人並み以上になったというのが正確であろうか。


最初に勤めた会社はカタルには全く不釣り合いな接客業の大手企業だった。

学歴、大学での成績などのスペックが高いカタルは疑いもなく採用された。

就職活動におけるミスマッチを体現した格好であったか、言わずもがな役に立たず、1か月で退職した。


新卒の権利を1か月で放棄したカタルは、2社目に広告関係、3社目に貿易関係の企業の事務職を経験したが、周りと馴染めず退職。

そして4社目はIT企業であった。


パソコンが得意なカタルは、これまでよりは適応できる自信があったし、気持ちも昂ぶるものがあった。

だが、カタルの期待とは裏腹に、そこは人と人とのコミュニケーションが重んじられる業界であった。

社員の間には常に流暢な会話が飛び交う。

RPAを開発する彼らは、そうしなければ自らがロボットに取って代わられるという危機感に追われていた。

それができない人間は徹底的に排除されたのだ。


退職勧奨。

これまで自分から辞めてきたカタルが、辞めてくれと言われたのは初めてのことであった。

契約社員として入社したカタルが、有期契約の満了を待たずに見切りをつけられた。

周りも限界に来ていたのだ。

「人じゃない」

そう言われてハジカレタ日に、カタルの「虚」に溺れた生活が始まった。


同時に「実」の世界への破壊思想が生まれ、自分を排除した人間たちに危害を加えたい欲求で満たされていった。

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね・・・」

「sinesinesinesinesinesine・・・」

キーボードの4つのキーだけが擦り減り、禿げかけていた。

しかし、欲求を実行に移すことは決してなかった。


「人を殺してみたかった」「誰でもよかった」

そんな無差別な殺しが電波的に飛び交う現代、カタルはニュースを見ては、いつも思うことがあった。

「この犯人は人付き合いうまいな」


カタルが人を殺さない理由。

それは決して人道的な理由ではなかった。


人と関わりたくないから。

殺すということは、他人に積極的にアプローチすること。

他人の領域に踏み込み、自分を晒し、強固に触れ合い、血を共有すること。

それが耐えられないから人を殺さない。

ただそれだけのことであった。


だが、たった一つの愛情がカタルに一線を越えさせてしまう悲劇が起きた。

両親が誕生日プレゼントに新型のノートパソコンをくれたのだ。


キーボードの位置の微妙な変化。

暗闇の中で、タイプミスが起こった。


「そどyrち」

カタルの好きな恋愛ゲームで、勇気を出して二次元の彼女に告げた言葉がこうなった。

恋愛ゲームの女の子というのは、なぜ髪の色が原色の赤や青や緑でもこんなに可愛いのであろうか。

こんな髪の色をした人間が実際にいたらギョッとするだろうが、カタルは緑の髪の女の子にぞっこんであった。


大事な告白の言葉が意味を成さない文字列になり、彼女を憤慨させた。

「あなたなんか人じゃない」

そう言われてフラれた。

人でもない彼女にさえ、カタルは人と見なされなかった。

買ってもらったばかりのノートパソコンを叩き割って叫んだ。

「俺はこんなに「あ・い・し・て・る」のに」


「ころす」


こうしてカタルの殺人願望は完成を見た。

普段は鬱陶しいスポットライトである朝日を自ら浴び、深く深呼吸をする。

季節感のないポロシャツに、デザインというわけではない穴の開いたジーンズ。

埃の積もったリュックに何かを詰め、カタルの支度は完了する。

きっかけをくれた両親とは目も合わせず玄関に向かう。


ゲームで、「虚」の世界で、敵キャラを殺すのではない。

「実」の世界で人を殺すのだ。


「はじめます」


それは決意の日。

32歳の誕生日に、カタルは久しぶりに外に出る。

ハジカレタ日から8年。

カタルの復讐が始まる。

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