第13話 Under the Archangel

 ロックダウンが始まった。主な変更は、外食ができなくなることと、世帯外の人と外であっても会えなくなることだった。食料品店やレストランなどの店は、持ち帰り限定で営業が可能だった。

 一人暮らしなど、世帯が小さい場合は、合計が六人以内になるように「バブル」というものを作ってよく、その間での交流は許されていた。僕のいた世帯の場合はこれはあまり関係がなかったが。

 イギリス出身の学生たち——といっても主にトーマスとジェイクの二人だが——はもう少し騒いでいたと思う。ロックダウンの少し前から、街の間の移動、つまり学生が実家に戻ることが禁止されていた。クリスマスはどうするんだ、という雰囲気だった。イギリスを含むヨーロッパではクリスマスは絶対のイベントで、家族と過ごすものと決まっている。時の首相ボリス・ジョンソンは「クリスマスに皆が集まれるようにするために、今ロックダウンをするんだ」と言っていた。

 ジョンソンは何かと世間を騒がせる首相だったので、ロックダウンに入る前にイギリス人たちがよく悪口を言っていたが、好意的な意見もあった。経済的なことはともかく、新型コロナに関連するこういった局面でのリーダーシップ、あるいは彼が自分で話す言葉には、異常事態においても妙な安心感を覚えていた。


 ロックダウンが始まって、少なくとも十二月の頭くらいまでは、忙しかったので不安になる暇もなく精神的な健康も維持されていたと思う。

 数学科のDPhilの学生は、博士論文を書く、あるいはその最終目的に繋がるいくつかの研究をする、ということが主たる業務になってくる。しかし、たとえば東大の博士でも講義による単位を少し取らないといけないように、完全に研究だけしていればいいとは限らない。オックスフォードのDPhilの場合は、研究以外に二つの要件があった。


 一つは、ティーチングだ。オックスフォードの数学の講義はPrelimsに始まりパートA、パートB、パートCと並び、基本的には順に一年目、二年目、三年目、四年目に受ける講義になっている。学部は三年間だが、修士まで一貫で四年間でとる人が多い。修士からオックスフォードに来た人はパートCのみを受講することになる。

 僕の分野で言えば、パートAに初等的な確率論の講義があり、二年目にそれを受けた上で三年目に測度論的な確率論の講義を受けることになる。PrelimsとパートAについては恐らく各カレッジが担当しており、数学科側でDPhilの学生が関わることはあまりないので詳しくないのだが、僕がいた頃はパートBあるいはパートCの演習授業をDPhilの間に最低三つ受け持つというのがティーチングに関する要件だった。

 まだオックスフォードに着いてすらいない頃にTA、ティーチング・アシスタントの担当希望調査みたいなものを埋めて提出し、僕は今年度は "Probability, Measure and Martingales" をマイケルマスに、"Continuous Martingales and Stochastic Calculus" をヒラリーに担当することになっていた。どちらもパートBで、前者は測度論的確率論を一からやって離散マルチンゲール論まで到達するコースで、後者は前者の内容を仮定して連続マルチンゲールから確率微分方程式のさわりまでやるものだ。

 特に僕がマイケルマスに担当した方は、測度論を知らない状態から停止時間やマルチンゲール収束定理まで扱うので学部三年生結構なスピードだったと思う。逆に僕は希望通り既知の範囲のTAになったので、いきなり問題を見て解いて生徒の答案を採点すればいいというので気楽だったが。

 以前言ったようにターム内の講義は全八回で、数学科の講義には基本的に別で二週間に一回ずつ計四回の演習授業が付随する。演習授業の内容は成績には反映されないので演習問題を解いたレポートを提出する必要はないのだが、提出や出席の状況をカレッジの人がチェックしていて、問題がありそうだとお小言が発生するらしい。

 TAがやるのは、講義の先生が出した全四回の演習問題について、レポートを採点・添削し、演習授業で一問以上の解説することだ。一問以上というのは、TA業務はチューターを育てるための過程だとされているからだ。二つ以上の授業でTAをやれば、チューターをする資格が得られる。


 TAとして採点をすることになり、英語の筆記体の読めなさにはかなり苦戦したが、慣れてくると文脈で単語が類推できるようになった。別に日本語でも答案の字が解読困難な人はよくいるのだ。僕は東大の学部生だった頃は二年間くらい大数——大学への数学という中高生向けの数学雑誌だ——の宿題コーナーの担当をしており、院生になってからは学部の授業のTAもしていた。だから、数学の答案をチェックすることには慣れている。

 オックスフォードの学部生の数学的な印象は、振れ幅が非常に大きいということだった。オブラートに包まずに言えば、ピンからキリまでいたということだ。学部の演習授業程度の内容で優秀かどうかは測れないので、どちらにが多いかということは語れないだろうが、あくまで講義の演習問題をきちんと解けるかという最低ラインでいうと東大の方がかなり手堅いという印象だった。数学オリンピックでもアジアは圧倒的に強いので、ペーパーテストに対しては東アジアの科挙文化が、だとか後付けの説明はいくらでも付けられると思うが、これは単なる僕の印象だ、という風にとどめておくのが良いだろう。

 僕がTAする上で一番緊張したのはリモートでオンラインのホワイトボードでさらに英語で……という解説のところだったが、そこはやってみればなんとかなった。初めて解説授業を終えた日はどっと疲れてしまったが。


 ティーチングについての話が長くなったが、もう一つの卒業要件はブローデニングと呼ばれるものだ。これは英語ではbroadeningで、broadenというのは広げるという意味である。専門性をために、DPhilの間に修士向けの講義を三つとってその講義についての十ページ程度のレポートを作成せよ、というものだった。そのうち二つは自分の専門分野外のものでなければならない。

 僕はこういうのは最初のうちに終わらせようと思い、マイケルマス中にこのうち二つに取り組むことにした。僕が選んだのは微分幾何学の授業と偏微分方程式の授業で、僕の専門に繋がりそうなところのレポートを書いた。前者ではリー群とリー代数の対応についての理論(リーの第三定理)について、後者では分数階ソボレフ空間について調べて僕の中で再構築してレポートにした。

 これらを二つやったのは結構大変で、TA業務が一息ついた十二月の頭に、研究を中断して十日くらいかけて一気に終わらせた。に囚われないでいい数学をやることは良い息抜きになったと思う。


 ロックダウンに入り、奨学金やカレッジの集まりで少し出来た繋がりもいとも簡単に失われ、ほぼ自室内で完結するルーティーンに入ってしまっていたと思う。天気がいいときは世帯内の誰かが思い立ったように「散歩に行かないか」とWhatsAppグループに投下し、小一時間外を歩いたりもしていた。とはいっても、秋分から冬至に至る日々につれて急速に日は短くなり、温度は下がり、そして天気は相変わらず曇り時々雨だった。

 雨がちの日々が続き、十二月に入ったある日、窓の外を見ると寮の裏手に見える牧草地が水の下に沈んでいた。頭だけ出した鉄棒や遊具を鮮明に覚えている。

 炊飯器を寮で使うのは禁止されていて、近くのアジア食品店で買ったパックご飯をチンして食べていた。インスタント味噌汁に冷凍餃子、冷凍ハンバーグ、冷凍韓国のよくわからない蒸し物、みたいな生活が続いていた。共有キッチンは五人には狭く、冷凍食品エリアは僕が多めに使っていたが、逆に野菜などはあまり僕が買ったものを入れるスペースがなかった。時々プチトマトを食べていた。最初は野菜と思ってキムチを食べていたが、しばらくして自分にとっては辛過ぎるのを我慢していることに気づき、食べるのをやめた。アジア食品店の名前は・プラザだった。

 オンラインでの交流は多少あった。日本の友達と時々通話をしていたが、時差のせいで向こうは全員夜、こっちは一人だけ昼という時間帯が基本であまり頻繁にはできなかった。ただでさえ大きかった時差はいつしかサマータイムを終えて九時間に開いていた。

 イギリス側での日本人会のオンライン通話のようなものが一、二ヶ月に一回くらい開かれていたと思う。オックスフォードとケンブリッジの日本人会がメインだった。オンラインゲームのAmong Usなんかがその頃流行っていて、何回かやったのだが、一回日本人のやつだと思って行ったらイギリスの人もいて会話が全部英語になったことがある。各々が早口で推理をしていて、本当に何を言っているかついていけず、息抜きに遊んでいるのに惨めな思いをする羽目になった。

 実際、ロックダウンの間は英語力は一切向上しなかったと思う。世帯の人やミーティングで話す指導教員の英語には慣れてきていたが、それはただのであり、翌年の春に会った人々の英語などは最初少しの訛りが気になって全然聞き取れなかった。

 もちろん、英語力が向上しないことなど大した問題ではなかったのだが。

 

 

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