第1章 消えるべき記憶
二人は手を繋ぎ、湖岸の女王専用飛行艇まで歩いた。飛行艇はヴィザーツの乗り物で、アナザーアメリカンはようやく小さな飛行機を試作中だ。
女王は優雅な仕草で指を少年に向け、文言を唱えた。
「Ranft.qillai.suifenyang(ラント・チーライ・スフェンヤン)」
少年の全身をかすかに風が包み、泥と汚れが消えた。彼は驚いた。
「女王さま、誕生呪と違う呪文があるのですね」
女王の眼が光った。
「そなた、今、何と言った」
彼は自らの失態にハッとした。
「僕は余計なことを言いました。」
「その通り。呪の違いが分かる耳を持つなら、迂闊に口にしてはならぬ。そなた、誕生呪をどこのヴィザーツ屋敷で聴いた」
「アナザーアメリカンはヴィザーツ屋敷に入れません。ミセンキッタ領国のパラマリヌ山麓の産院です」
「産院併設の外れ屋敷か。一度引き締めねばならぬか」
女王は少年を飛行艇の補助席に座らせた。
胡桃入りパンを割って彼の口に入れてやる間、彼女は微笑んでいた。少年の眼はずっと女王に向けられていた。
陽の光が離陸する飛行艇を包んだ。最初の丘陵を越えると、浮き船が近づいて来るのが見えた。
「わざわざ迎えに来るとは。」
彼女は通信回線を開いた。
「こちらはマリラ・ヴォー。第一管制室に告ぐ。女王専用飛行艇はガーランド一時の方向より接近中、高度一七三〇。着艦はせぬ。船体に沿って一周する。復唱せよ」
通信器の向こうから復唱が戻ってきた。マリラは誇らしく促した。
「ご覧、カレナード。浮き船ガーランドだ」
「はあっ!」
少年は歓声を上げ、壮麗なガーランドに見入った。飛行艇はガーランドの上をゆっくり飛んだ。細長い楔形の船体は朝陽を受け、影が地上に落ちる。楔の両側二層に長く伸びた四本の甲板は銀色に輝いた。花型の大窓が連なり伸びて、宝石の如く煌めくさまは、まるで花冠のようだ。
「マリラさま、窓の中に草花があります」
「良い眼だ。あれは栽培プラント、ガーランド・ヴィザーツの野菜と薬草畑だ」
甲板に挟まれた船体中央に、なだらかで透明な大天蓋が二つあった。どちらの天蓋の下にも緑の絨毯を思わせる緑地と林があり、さらに建物の列が優美な幾何学模様を作っていた。この世のものならざる威容、天空の都市だった。
後方の大天蓋にひときわ美しい建物があった。カレナードは女王に体を寄せて「あれは何です」と聞いた。
「調停完了式を行う大宮殿だ。屋根に白と金と青のドームがあるだろう。あの天窓から光が射せば、内部は虹色に輝くのだ」
通信が入った。
「マリラ・ヴォーさま!」とそれは叫んだ。
「ワレル・エーリフ、同乗者をオルシニ鉱山街に降ろすゆえ待機せよ。」
「同乗者とは何者でありますか!」
「知らずともよい。しばらく静かにしておれ」
通信が沈黙したのちも女王はぶつくさ言った。
「新任艦長は心配症か。」
マリラは膝に暖かい重みを感じた。少年は女王にもたれ、うとうとしていた。
「度胸があって耳聡いカレナード。そなたはいっそヴィザーツになるか?
が、アナザーアメリカンを調停完了祭以外で浮き船に迎えるは我らが律法に反する。忍びないがお別れだ。この記憶は春分に消える。それまで私を支えてくれるだろう。そなたも忘れる方が良い。ヴィザーツの女王に関わると苛烈に生きることになる」
ヒューゴ・レブラントは遭難現場近くに埋葬された。墓標は鉱山の男たちが積んだケルンだった。
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