第3話 なんだか、最低ですね

「おお、おおおお!」


 老人は女からの緑の石を嬉々として噛み砕きます。女はやはり冷徹な表情で、笑うことも顔を曇らせることもありません。


「おお、おお……なんという力だろうか!」


 老人はいよいよ興奮して叫びました。


「いかがでしょうか……」

「凄い、これは素晴らしい……素晴らしい、うわああああああああああああああ!」


 その瞬間でした、老人のヘドロの身体が前後左右に大きく膨れ上がったかと思いきや、そのまま弾け飛ぶように、跡形もなく弾け飛んでしまったのです。背後にいたわたしの頬にも、老人の残骸である灰色のヘドロが飛びついてきます。女に至っては、その灰色の泥を全身に浴びております。部屋は途端に静かになってしまいました。灰色の泥をかぶりながら、女はわたしの方をじっと見つめます。


「むごたらしい場面を見せてしまい、誠に申し訳ありません。」


 女はわたしに話しかけてくれました。


「赤猪子から話は聞いております。ここを訪れる人間にしては珍しく、美しい娘がやってきたと。ふふふ、初めまして。私は香具姫かぐひめと言います。以後お見知りおきを。」

「は、初めまして。」


 その圧倒的な雰囲気に、女性なのに見惚れてしまいます。姫が右手を払うと、不思議なことに、灰色のヘドロの残骸が徐々に蒸発し、最終的には空間から消えてしまいました。そうして、先ほどの出来事が何もなかったように。もっと言えば、老人の存在すらまるでなかったかのように、部屋はもとの状態に戻ってしまいました。


 姫はじっと目を据えて、言いました。


「これが人間です。わたしはあの老人に、もし心が穢れていれば、あなたの病気は治らないと言いました。ええ、治らないのです。治らないから、破滅してしまいました。そもそも、あの者は元からもう生きる気力を失い、半透明になり果てておりました。決して肝臓のがんが、あの者の身体をむしばみ尽くした訳ではございません。がんのせいではありません。それ以前の問題なのです。あの者の低俗な意識ががんを生み、破滅を生んだのです。あの者は、自らの意識によって、自らの身を滅ぼしたにすぎないのです。それがあの者のやまいそのものです。悲しきかな、最近は患者さまが増えてきました。神ならばきっと病気を治してくれる。まるで神さまのことを、全知全能の何かだと勘違いしていらっしゃいます。だから自分は何もしない。自分は何も悪くなく、ただ自分の身体を蝕む病気が悪い。そのようになった運命が悪いと、そう口々におっしゃいます。人間界でもそうでしょう? お医者さまは必ずしも全知全能ではないのです。しかし患者さまはみんな、お医者さまだから必ず何とかしてくれると言って、自分では何もなさらない。自分の身体を、自分で労わってあげようとはしません。自分と向き合うこと、自分を律することをそもそも諦めて、他責なってしまっているのです。」

「確かにそうかもしれません。でも全員がそうでは、ありません。」

「ええそうですね。でもそういう人間は増えています。そして、それはどんな病気よりも重い、意識の低下という不治の病なのです。だから、少々手荒な真似をすることも、私は仕方がないと思います。生きることも、死ぬこともできない哀れな人間には、これで良かったのかもしれません。」


 姫の語り口は穏やかでありますが、わたしには少し怖く思えました。目の前で老人を滅ぼした姫と相対し、どうして恐れずにいることができましょう。しかし姫はとても優しく、柔らかい笑みを浮かべております。


「姫さまは、いったい何をなさったのですか?」


 わたしが言うと、姫はとても優しい口調で答えてくださいます。


「この世界の中心にいらっしゃいます、大神の答えを尋ねました。この者を生かすか、殺すか。それが儀式の正体です。そして結果は見ての通りです。大神は、あの者を殺すことを選びました。」

「だとすれば……大神とは残酷な存在なのですね。わたしなら、あの老人を助けていたと思います。もし神さまが優しければ、きっとそういたします。」

「ふふふ、そうかもしれません。しかしそれが世の中のことわりであり、神の世界の真実なのですよ。」

「……あまり意味が分かりません。」

「そうですね。例えば新陳代謝しんちんたいしゃとてそうです。古い細胞は捨てられ、新しい細胞が作り出され、そうして私たちの身体は維持されていますね。生と死もそう。死して生まれる。このサイクルの繰り返しが、世界を保っているのです。そうして不要になったものは滅び、新しく生まれ変わる。それが世界の真実なのです。そして、大神のご意向なのです。あの老人はこの世の中にとって、ただ不要なものだったにすぎないのです。不要なものは生まれ変わる。それが世界の真実です。だからあの老人が死して、生まれ変わるよう、大神が仕向けたのです。」

「なんだか、最低ですね。」


 口をついたように、そんな言葉が出てしまいました。あの老人のように、私もきっと消されてしまうかもしれない。そう覚悟しましたが、意外にも姫は穏やかな様子で、こう語りかけてくださいました。

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