3.エナオケ

 国の図書館に保管されていた邑南郡の歴史に関する本には、匣について触れているところが一切なかった。それはまるで隠蔽されているとか、陰謀論的な背景が見え隠れしているというものでもなく、ただ"無知の書"であることの分かる文章だった。


"佐山 康二先生へ"

そう私の携帯の画面に映る文字は、言うなれば助け舟のルビである。


————————————————


 僕が彼女からメールを受け取ったのは、十月も半ばとなった残暑の最中であった。私の教え子で、今はたたら製鉄の民俗学者であるという彼女からのメールだ。


「突然の連絡失礼しました、先生」

「いや構わないさ。」


 彼女は花見でもする時みたく、お重箱を包んだような風呂敷を持って私の部屋のソファに座った。


「それで、どうしたのかね。まあ大方予想はついているが。」

「突然お伺いしたのはきっと予想通りのことです。こちらの奇妙なものについて、先生の知恵をお借りしたくて・・・」


 彼女は風呂敷の固結びを解きながらその中身をゆっくりと現にしていく。そしてその姿の全てに光が当たったとき。私は瞬いた。それはいつも通りに、無意識的で瞬時に行われる。


匣だ。


それは和風な華やかさを兼ね合わせる、不思議な素晴らしい匣。その素晴らしさを味わう感覚器官に肥やしは要らず、ただ受動的な感動だけで良さを味わえるほどの美しさが、その匣にはあった。


「この匣は私がフィールドワークで訪れた邑南郡のとある村で、半ば強引に渡された代物です。受け取った当時、中にはまだ蛆がわく程度には比較的新しめの胎盤が入っていまして。すぐに匣をひっくり返して捨ててしまったので今は空ですが、これが何なのか知りたく・・・」

「なるほど。持ってみても?」

「もちろん構いません」


 差し出された匣は持った感触から概ね木材が使われているのが分かる。杉だろう。

保存状態は完璧に近く、というよりかは最近作られたようで、この匣の外面を覆うように描かれた種々の植物の画は、どれほど見ても飽きることのない意匠が凝らされている。

 そこでふと私は彼女の言う胎盤とこれらの断片的な情報から、ピンと何か思いつくものがあった。


「この匣の名前、譲り受けた時に言われたのかい?」

「いいえ何も。ですが直近の会話で『エノケ』という年頃の女子ならみんな作ったことがあるモノ、について話された際、私が理解できずにいるとこれを渡されまして」


 そこで私は、本棚から一つの本を探し出して机の上に広げた。

『産所縁記抄』と題されたそれは横長の古びた本であり、事実、大正四年に刊行された古本である。その中の三五頁から三七頁。崩字で「胞衣桶の号」と記された箇所を私は指差した。

 そこには松竹梅に鶴亀と、一般的に縁起の良いものとされるものらが描かれた『桶』が描かれてあり、さらにそれに関する話が殊更に述べられている。


「ホウイオケ、ですか?」

「これは胞衣桶えなおけという桶だ。胞衣は胎児を包む膜や胎盤のことで、昔は胞衣をこの桶に入れてかつては土中に埋めていたんだ。桶としての形態で埋納されたのがいつ頃からかは知らないが、少なくとも容器に入れて胞衣を埋納する文化が民間的に行われるようになったのは江戸時代頃だ。」


 私はさらに続けた。


「たしか君がフィールドワークで行っていたのは邑南郡だったね。あすこの成立は江戸時代頃だし、それに隔絶的な環境のために『あの神』といった独自の文化が展開されていることで少々知られている。『エノケ』というのも、きっと胞衣桶があの地で訛った結果の言葉なのかもしれない」

「つまりこの匣がエノケと?」

「恣意的な話に過ぎたことかもしれないがね」

「しかしならば何故、土中に埋めてあるべきものがこのように泥汚れ一つなく、そして私という赤の他人にあそこの住民が渡してきたのでしょう?」


 その問いに私は一拍置いて、茶を啜った。興奮して過剰に糖を消費したのだろうか、いつもより玄米茶が甘く感じる。


「それは・・・わからん。だが『あの神』が関連してるのは直感的に分かる」


 私はそう紡いで湯呑みを机の上に戻した。

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