エナちゃん

雨湯うゆ🐋𓈒𓏸

1.エノケ

 私が是れを知った所以は、とある神——ここではその名を口にする事が憚られるため、以降は『あの神』と呼称しますが——これについてフィールドワークで島根県と広島県の県境、つまるところの邑南郡南部の方に訪れたのがきっかけです。


 邑南郡南部は散居村という形態の集落が広がっており、事前に案内を頼んでいた住民の方を先導に歩いている中、私は富山の砺波となみ平野を思い出していました。こちらの散居村も砺波平野よろしく藩の概念が強い時代にできているため、どの家々も屋敷と広い水田を有しており、季節的な高温乾燥の強風による被害を防ぐ巨大な屋敷林が一定の方角に向かって立ち並んでいました。正に散居村の代表格という土地ゆえに、その見慣れない光景は印象的でした。


 ここで、私が調べていた神というのは、この散居村で特に根強く信仰されていたとされる鍛冶場、火、もしくは鉄の神でして。この神が強く信仰されていたというのは、石見地方で明治時代に行われた「神社取調」の調査結果である『神社縁記抄』や『邑南郡書上帳』にも統計的にこの地域の名が頻出していることが、一つの拠でしょう。


「着きました」


 そう言葉を口にして、案内を頼んだ住民が指差した先には、彼の家であるお屋敷がありました。

 私が案内を頼んだ彼は、系譜としてこの地の神職を多く担ってきた家系であり、そのためにここらの地誌を有していた彼とは正に必然的な出会いでした。


 屋敷前に並ぶ屋敷林から差す木漏れ日はあまりなく、加えてクチクラ層の発達した葉を持つ木や針葉樹、さらには果樹まで、種々の木々が密に生えていました。彼が言うには、それは先述の強風から逃れるための防風林でもあり、この辺りの因習でもあるといいます。


「因習、ですか」

「まあそんなところです。

屋敷林には桃・竹・松・千両の少なくとも四つは植えるべしと言う伝えでして。お金持ちさんはこれら4つに加えて六種植えるとか。それで、新しく年を迎えた際は、これらの木の枝をそれぞれ折って火にくべ、その火を使って鉄を作るんです。木の種類が多いほど、その年は良いとか。まあ今は信じている者もそんなにいませんがね。」

「初めて聞きました、なぜそのような事を?」

「この地に伝わる数へ歌ですよ。ですがなぜ数へ歌が由来しているかは知りませんが。ただ『あの神』の霊魂を沈めるため、と聞いたことはあります。まあよくわかりません。ここはあまりに他と隔絶されていて関わりもできませんし」


隔絶。

 言われてみれば確かにそうでした。四方が山に囲まれていて、周りは水田だらけ。それにこの周辺には村もない。

 隔絶環境というのはとても興味深く、幻想的に謎めく文化や説話が多いというのは有名な話です。インディへニスモという言葉がある通り、それはスペイン人が最もよく知っていることでしょう。

 この地の「数へ歌」なるものも上述の謎めいた説話に近いのでしょう。


「まあ話は部屋で致しましょう。家内もおらず寂しい家ですが、どうぞお入り下さい」


 そう言われ、玄関から中に入ると、正直なところ私は、ひどく後悔しました。屋敷の中を支配する異臭が私の粘膜という粘膜に芳しい刺激を与えてきて。酸性の臭い、腐臭に近いのかもしれない。とかく気持ちの悪い臭いでした。

 私が鼻に手を当てていることに気がついた彼は、何もおかしなことが無いかのような顔で言います。


「何か、においますか」


 いえ、とえらく仕上がった人間ならそう言うのかもしれませんが、耐えかねて私はええ、と言葉を始めるに至りました。


「失礼ですが、少々。腐肉のような匂いが」

「ああ。さいですか。」


 わけを言うでもなく、ただ肯定するだけの彼は私と会って初めて訛った言葉を放ちました。それが私の髄から液にまで神経を伝達するよりも早い、どこか異様な恐怖を流し込むように感じて仕方ありませんでした。


「  」


 彼はしばらく無言を貫いて、そして笑いました。皺にまみれて溺れるような顔で、けたたましく緩やかに歪めて笑いました。


「あんたの仰るそれは、きっとエノケでしょうな。」

「エノケとは?」

「エノケはエノケですよ。あんたもお作りになったことがお有りでしょう?少なくとも年頃の女ならみんなあるはずだ」


 私は精一杯の理解を脳に指示しましたが、どこの記憶領域にもエノケという年頃の女の子が作るモノは存在しませんでした。

それがきっと顔に出ていたのでしょう。目の前の彼は途端に顔色から笑みが消えていき、足早に奥の間へ入ったかと思うと、一つのはこを抱えて帰って来ました。そしてそれを強引に私へ突き出してこう言います。


「これ持ってはよ帰れ」


 彼の顔に怒りはない、ただ一つの焦燥感だけが顔に燻んでいる。まるで何かに追われているような。

 屋敷の外へ彼に手を引かれるがまま放り出されました。あの時の私は当然意味もわからず、ただ何か粗相でもしたのかと思い、すみませんと連呼だけしていました。側から見れば親がいい歳した娘を捨てているように見えたことでしょう。

しかし彼は黙って私を敷地外に連れた後、そそくさと部屋に閉じこもってしまいました。


 残された私は匣を見つめるしかありませんでした。匣は外側に赤い実が蜘蛛の目のようになる千両や、松に竹、そして立派な桃の実る木が描かれていました。死んだ赤子が一人入るくらいの大きさでずっしりと重く、そして一杯の腐臭がする。

自然的に私の手は匣の蓋に伸びていました。怒らせてしまってゴミを渡された、だがどんなものか。そんな半ば抑えきれない中身への好奇心がその蓋を開ける理由でした。そう、最初はそんな気持ちでした。

 蓋の中の蛆虫は私の変化する顔をしっかりとそのあるかもわからない目で捉えたことでしょう。


 匣の真ん中に大きく大地のような、いや、大きなベッドと表した方が良いのでしょう。

中にはなまじ黒く染まった胎盤がありました。

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