6.これから先(終)

エピローグ これからのわたし 1/2

『私のお兄ちゃんはね、とっても優しくて、すっごくカッコイイのっ!』


 ──中学時代、笑顔で話すその子を見ながら『お兄ちゃん』に対する憧れと欲求を抱いたわたし。


 でもそれは、わたしの元ではすでに叶うはずのない空想の世界線であると分かりきっていて。


 だとしても、わたしは心のどこかで諦めきれずにいて、ずっとずっと理想の形を思い描き続けていて。


 思い描き続けたまま、一日、一週間、一ヶ月、数ヶ月、一年と月日だけが虚しく過ぎていって。


『は、早海千尋です。よろしくお願いします』


 ……理想が潰えようとしていたそんな時に、千尋くんはわたしの目の前に現れてくれた。


 その日から、千尋くんは常に、わたしの世界の中心に立っていた。


『相川さん……と、智香ちゃんって、呼んでもいいかな?』


 たった一人だけの、穏やかな声色。


『あ、俺と同じ高校受験するんだ? もちろんめっちゃ応援するよ! 良かったら一緒に勉強しよっか?』


 誰よりも輝かしい、素敵な笑顔。


『あけましておめでとう。今年もよろしくね』


 大きくてたくましい存在感。


『──受験合格おめでとう! ……これで、四月から俺と同じ高校に通えるね』


 何から何まで、あなたの全てがわたしの理想そのもので。


 ずっとずっと、願ってた。


 どうか、わたしがわたしでいられる、本物のおにいちゃんになってくれませんかって。




「……ん」


 おぼろげに目を開くと、新しい朝が訪れていた。


 部屋の中はまだ少し暗くて、


 カーテンの隙間からも朝日は差し込んでいなくて、


 昨日と同じように降り続けている断続的な雨。


 ……だけど、


「……おにいちゃん」


 すぐ目の前には、千尋くんがいる。


 わたしの……おにいちゃんが、いる。


「……えへ。おにいちゃーん〜……」


 おにいちゃんは瞼を閉じたまま、規則的で落ち着いた寝息を立てていた。


 いつ見ても整った顔立ち。キュンと胸が弾んで、感嘆のあまりについ口元がにやけてしまう。


 昨日までの身体の熱っぽさ、倦怠感まで嘘のように消え失せていて、


 すごく、心の中は晴れやかになっていた。


「……ああ、うう」


 おにいちゃんの開けた襟元から覗かせる、スウッと浮き上がった鎖骨から目が離せない。


 布団の中もじんわり温かくて、ほんの少し呼吸を強めるだけでおにいちゃんの……男の子の香りがして。


 それだけでわたしの胸は幸せでいっぱいになる。


「おにいちゃん……お、おにいちゃん~……ううう、うううー……ッ!」


 もっと触れ合いたい、体温を感じたい、密着して甘えたい。


 次から次へと溢れ出て止まらない身体的な欲求。


 わたしって、今までどうやって感情をコントロールしてたんだっけ?


 もう、分かんなくなっちゃった……。


「……まだ、六時半」


 枕元の目覚まし時計を見てボソリと呟くわたし。


 着替えて部屋を出るにはまだ少しだけ早い時間帯。


 そんなに焦って行く必要はない、とは思うし。


 それに、おにいちゃんとこんなに間近でいられるチャンス、今後あるかどうかも分からないし。


 ……あってほしいけど。


「ちょ、ちょっとだけ、ちょっとだけ……」


 そう呟きながら、わたしはおにいちゃんの胸元にキュッと控えめに縋り付いた。


 ──瞬間、わたしの中での幸せゲージがマックスを突き抜ける。


「──……あ、あああ……ッ、はうぅ……」


 波のように押し寄せる夢心地に呑まれながら、おにいちゃんの両腕に覆われてスッポリと収まるわたし。


(も、もうわたし、一生このままでいいかもぉ……)


 冗談抜きで本当に。


 もう、おにいちゃんさえ傍にいてくれたら、他なんてなんにもいらない……。


『俺は、智香ちゃんが好きだよ』


「……わたしも、おにいちゃんだいすき」


 ……。


 …………。


「…………?」


 おにいちゃんが、大好き?


 ……うん。


 わたしは、おにいちゃんが大好きなんだ。


 そのはず……なんだけど……?


「……」


 おにいちゃんの、千尋くんの唇にふと目がいく。


「……」


 ……柔らかそう。


「……」


 ……綺麗な形してる。


「……お、おにいちゃーん?」


 小さな声で呼びかけてみるわたし。でも、おにいちゃんから反応はない。


 すごく、ぐっすり眠っちゃってる。


「……っ」


 喉をゴクリと鳴らして、わたしはドキドキしながら右手の人差し指をおにいちゃんの唇に近付けていく。


 ──触りたい、触りたい、触りたい……ッ!


 わたしの欲求はついに限界を越して、正常ではいられなくなっていた。


「……ぁ……」


 プニッと唇に触れた途端、込み上げてくる思い。


 全部、おにいちゃんの全部をわたしのモノにしたい。


 他の誰にも渡したくない。


 ずっとずうっと、おにいちゃんを独り占めしたい。


 おにいちゃんに甘えていいのは、わたしだけ。


「……おにいちゃん、かわいい……かわいい……かわいいよぅ……えへへぇ」


 わたしの全身が熱く火照り始めてくる。


 もっと、色んなことしてみたいなぁ。


 お耳とか、お腹とか、おでことか……色んな部分をわたしのこの手で触れてみたい。


 二人きりで何分も、何十分も、何時間でも。


「ねえ、おにいちゃん。今日はもう学校休んじゃおうよぉー……なんて。えへ」


 今日が週末だったら良かったのに。心の底からそう思う。


 もし週末だったらこのままずっと、誰にも邪魔されずに堪能し放題なのに。


「ダメだよ、おにいちゃん。他の女の子と仲良くしちゃ、ダメ。わたしのことだけ、見て……?」


 指先で唇を優しくなぞりながらわたしは囁く。


 いつもなら言えないことも、寝ちゃってる今なら思う存分に吐き出せる。


 これまで溜め込んできた……本当のわたし。


「わたし、おにいちゃんにふさわしい女の子になりたくて、頑張ったんだよ? おにいちゃん好みの女の子なんだよ? ……だから、わたしだけでいいの」


『今みたいに恰好を気にしないありのままの智香ちゃんの方が……俺は、好きかな。あはは』


 おにいちゃんは、そう言ってくれたけど。


 でも、いい子で在ることをやめたわたしは……ね?


「わたしが、おにいちゃんの全部を受け止めてあげるから……わたしも、わたしの全部をおにいちゃんにあげるから……もう、どこにも行かないで……?」


 ──こんなに、ワガママで欲深いんだよ?


 こんなわたしでも、お兄ちゃんは好きだって言ってくれるんだ。


 ……えへへ、嬉しい。


「……んー……」


「ッ!」


 おにいちゃんが微かに声を漏らして、わたしは咄嗟に唇に触れていた指先をパッと離す。


「お、おにいちゃん?」


「……」


 だけど、まだ目を覚ましたわけではないらしい。


 ちょっとした寝言、だったのかな?


 ホッと胸を撫で下ろすわたし。いくら我慢しなくてもよくなったとはいえ、今のを見られちゃったらすごく恥ずかしかったし。


「……ふふっ」


 何だか可笑しく思えて笑みが零れる。


 同時に、少しだらしなく見えるおにいちゃんの寝顔がとても愛おしい。


 知れば知るほどおにいちゃんをどんどん好きになっていく。


 きっとこの先、どこまでも限りなく。


「もう少し、このまま……」


 わたしはもう一度おにいちゃんの体に身を寄せて、向かい合ってくっついたまま一緒に布団を被る。


 この夢のような時間を、数秒でも長く居られるように。


「わたしの……わたしの、おにいちゃんなんだもん」


 それだけで、わたしはこんなにも満たされるのだから。

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