5.伝えたいこと、したいこと

第1話 本心 1/2

 リビングを出て玄関付近の階段を上がっていき、二階廊下の突き当たり。


 そこにある木製の扉には平仮名で『ともか』と記されたプレートが掛けられている。


 ……約一年間、お隣のご近所同士で仲良く付き合ってきた間柄とはいえ、こうして智香ちゃんの部屋の前まで足を運んだのは今日が初めてだった。


「鍵はいてるんで、ササッと入って起こしちゃってください。多分お兄ちゃん相手なら怒りはしないでしょうし」


「……」


「? どうしました? そんな顔して」


 横からヒョイっと顔を覗き込んでくる紗彩ちゃん。


 いや、だっていきなり、そうは言われましてもというか、心の準備というものが。


「……お、女の子の部屋に入るのって、初めてでさ」


「はい? なに言ってるんですか? 美乃里さんがいるじゃないですか?」


「そりゃ美乃里は妹だし……」


「お兄ちゃんからしたらお姉ちゃんも妹みたいなもんですよね?」


「いやいやいや……」


 確かに妹属性寄りだとは思うけど、それでも俺からしたら智香ちゃんは何の血の繋がりのない、立派に成長した一人の女の子なわけで。


 しかし、紗彩ちゃんは俺の腰を手でパンパンと促すように叩いてくる。


「はいはい、細かいことは考えなくていーですから早く入ってください。あたしは自分の部屋に戻ってるんで何かあればいつでもお声がけどーぞ」


「う、うん」


「はい。ではお姉ちゃんのこと、よろしくお願いします。お兄ちゃんの力でどうにか元気にしてあげてください。あ、お姉ちゃんがあんまりにも可愛いからってえっちぃことはしちゃダメですからね?」


「……」


 ……わざわざそう言うから意識してしまうわけでして。


 そうして、紗彩ちゃんは身を翻して反対側の突き当たりにある扉を開けると、最後に軽く手を振りながらそのままパタンと扉を閉じて、姿を消してしまった。


 取り残された俺は虚しさに包まれながらも息を吸って吐いて、意を決して扉のドアノブに手をかける。


(……よし)


 ──ガチャリ、と。


 前に扉を開くと、その先の光景が俺の目に映る。


 白とピンクを基調にしたシンプルなレイアウト。


 勉強机や椅子、棚にタンスなどといった基本的なインテリア一式が揃えられていて、他に余計な私物は一切見当たらないとても清潔感ある一室だった。


 あとこれは……アロマの香りだろうか? スッと鼻腔を通る刺激のない爽やかさ。緊張して固くなっていた身も、日に当てられた氷のように溶かされていく。


 だけど、代わりに何だか少し、胸の鼓動がトクトクと速まっていっているような気も……。


「……あ」


 ──部屋の隅に置かれたシングルベッドの上で、智香ちゃんは寝ていた。


 掛け布団を体に被せて、大きな枕の上に頭を乗せてスゥスゥと寝息を立てている。


 無防備に晒された、初めて目にする智香ちゃんの寝顔。


 ……俺は、一瞬にして心奪われる。


「……」


 引き寄せられるように歩み寄っていき、それでも目を開こうとしない智香ちゃんの寝顔をすぐ傍で、床に膝をついて俺はしばらく見続ける。


「……可愛い……」


 ふっくらとして綺麗な桜色の唇。


 淀みのない白い肌。


 長いまつ毛。


 細く整った鼻筋。


 ……分かりきったことではあるけども、智香ちゃんは本当に可愛い。顔のパーツに一切の無駄がない。


 そんな子の近くで、こうして寝顔を独り占めできるのは、俺だけ。


 なんて幸せな贅沢だろうか。


「……起こしたくないなぁ」


 この寝顔をずっと見ていたくなってしまう。


 智香ちゃんは向かい合うとすぐに目を逸らしてしまうから、こんな風にまじまじと見つめていられる機会があまりない。


 なので、すぐに起こしてしまうのはどうしても勿体なさを感じてしまうというか。


「……」


 少し魔が差して、俺は智香ちゃんの側頭部にそっと右手で触れる。


「──んぅ……」


 ピクッと反応を示して智香ちゃんが声を漏らす。だが、目を覚まそうとはしない。


 ふわっとした髪の質感。手の平に収まるほどに頭のサイズも小さくて、無性に庇護欲を駆り立てられる。


「ふあ……ぅ……あぅ……」


 起こさないように続けて撫でてみると、心地よさそうに声が上がる。


(……や、ヤバい、これ)


 触れ方を少し変える度に色んな反応を見せる智香ちゃんが堪らなく可愛くて、気付けば当初の目的はサッパリ忘れてずっと可愛がり続けている俺。


 だって、真面目で清楚な智香ちゃんがこんなに可愛らしい仕草を見せてきたら、誰だって我慢できなくなるに決まっている。


 というかほんとに、にやけが止まらない……ッ。


「……ちひろ、くん」


「ッ!」


 ──不意に名前を呼ばれて、俺は反射的に右手を引いた。


「と、智香ちゃん?」


「……」


 心臓をバクバクと鳴らしながら呼びかけてはみるも、智香ちゃんは目を閉じたまま寝息を立てている。


 じゃあ、無意識に俺の名前を?


 ……何か、夢でも見ていたのだろうか?


 そう思ったとき、


「……ちひろ、くん……」


 また、俺の名前を呼ぶ智香ちゃん。


 小さな口が僅かに開き、吐息混じりに呟く。


「……いっちゃ、やだ……おいて、かないで……」


 ──……。


「もっと、わたしも……」


「……」


「……いい子に、するからぁ」


 ──目尻に、薄く涙が浮かび上がっていた。


「……ッ」


 普段の姿からはとても想像がつかない、今にも消えて無くなってしまいそうな、弱り切った声。


 ただでさえ華奢で小さな身体が見えない何かに押し潰されて、埋もれていってしまうかのようで。


 ……俺は、智香ちゃんの頭部にもう一度右手で触れて、優しく撫で下ろす。


 一人で塞ぎ込んでしまわないよう、情を込めて。


「大丈夫。俺は、どこにも行かないよ」


「……」


「こんなに可愛くて、頑張り屋で、一生懸命で、優しくて、思いやりがあって……そんなたくさんの魅力が詰まった女の子を、置いていくわけないじゃん」


 目尻に溜まった涙を指先で拭ってあげて、俺は苦笑しながら、囁くように語りかける。


「何を、抱え込んでるの? 俺、そんな悲しそうな顔をした智香ちゃん、見たくないよ」


「……」


「いつもみたいに、さ。俺のことを、お兄さんって呼びながら……笑っててほしいよ」




『──おやすみなさい。また、あした』


 あの日、そう告げて背を向けた智香ちゃんを俺が呼び止めていれば、こんなことにはなっていなかったのだろうか。


 今さら後悔の念に駆られて、胸が苦しくなる。


「ごめんね、辛い気持ちに気付いてあげられなくて」


「……」


「こんなんじゃ、智香ちゃんのお兄さん失格だよね」


 智香ちゃんはいつだって、俺のことを全面的に信頼してくれる。


 そんな智香ちゃんを、もし知らない内に俺が傷つけていたのだとしたら。


 ……正確なことは聞かないと分からないが、もしそうだとしたら、ちゃんとこの口から謝りたい。


 頭を撫でながら、俺はそう──


「……お兄、さん?」


 ────ッ。


「……あ、え、そ、その……ど、どうして、なんで、ここに……?」


 瞼を開いた智香ちゃんは頬を赤くして、恥ずかしそうに布団の端をぎゅうっと握って口元を隠していた。

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