第12話 私はあなたであなたは私?

 高台の真下を通る車道から短いクラクションが聞こえた。

「私はそのことをずっと聞こうとしていたけど、何となく先送りしていた。でもクミコさんの話をきちんと聞いて向き合おうと思う。もう・・ある程度のことはわかっているつもりだけど」

 私の前にボールが転がってくる。私はそのボールを拾い、追いかけてきた子供に渡してあげた。

「この世界は数えきれない可能性の重ね合わせ。あなたも理論くらいは聞いたことがあるかもしれないけど。その可能性のどこかに、父がいるはずの世界がある。意識の波長をあわせることによってその世界を捉えることができる。洗礼は、きっとその波長を合わせるお手伝いのようなことをする行為だと思っている。ごめんね、何かオカルトのように聞こえるかもしれないけど」

 私は小さく首を振る。

「それと洗礼の言葉には”世界”や”愛”、”選択”といった言葉が出てくるの。たぶん、母はきっと何かの重大な選択を迫られていたのだと思う。そして何かを選び取った。いえ、ひょっとしたら何かを選択するという行為そのものが不可能になったのかもしれない。その結果、特別な何かが消えた。そこから先は私の想像がまだ追いつかない。だけど・・たぶんこの世界には何か特別な運命を背負って生まれて来る人がいる。そのことと、クミコさんが言ってた調和や均衡とも何か関係している」

 彼女がこちらを見る。

「この高台であなたに出会ったとき、母の時と同じように残像が見えた。もしあなたが母と同じ類の人間なら、クミコさんの力であなたの願いを叶えることができるかもしれないと思った。そしてクミコさんがあなたを見た時の反応は想像通りだった。だけど、たぶん、クミコさんの強い決意を覆すことはできないと思う」

 私はずっと抱えていた疑問を反射的に口にした。

「レミさん、ありがとう。でも・・今日初めて会った私になぜそこまでしてくれたの?」

 私たちは互いに向き合ったまま、少しの沈黙ができる。

「・・・なんだかあなたを他人だと思えないの。初めてあなたを見た時から。自分にとって、とても大切な人なのかもしれないと。あと、あの猫ちゃんも・・ね」

 彼女が私と同じ感覚でいてくれたことに驚きと同時に嬉しさがこみ上げる。確かに、彼女とは何かの繋がりを感じる。

 その時だった。ごーんと低い、しかし空気を震わせるような鐘の音が鳴る。

 同時に大時計を見上げる。時計の針は定刻ではなく、誰も気に止めないような半端な時刻を指していた。彼女が私に振り向く。でも私が直後に発した言葉は、全く意に介さないものだった。

「シスター、なぜ・・泣いているのですか・・?」

 そう言ったあとでハッとする。

 ラムダを流れる時間、バッハのチェロ組曲。そしてクミコさんの涙・・

 これは・・何?

 私はひどく混乱する。

 彼女を見る。サングラス越しでも驚いている表情が読み取れた。

 そして、彼女は独り言のようにつぶやく。

「この距離なら私でも」

 何かを決意したように彼女は私を見る。

「あなたの大切な人がすぐ近くにいる」

 彼女は柵に掛けていた踵を地面につき、立ち姿で私と向き合う。

「大切な人がそばに居ること。それ以上の幸せは無い」

 サーっと一輪の風が吹き抜ける。彼女のスカートに着いたフリルがなびく。

「私はあなたに幸せになってほしい。心からそう願ってる。だから・・私を信じてほしい」

 それはとても短い時間のはずだった。しかし私の脳裏に一瞬にして無数のイメージが展開される。そして、そのイメージを基に様々な思考や感情が洪水のように溢れ出す。イメージの中に小さな女の子が現れる。その子の手を握る。とても温かい。そして懐かしさが込み上げてくる。あなたは・・

 次の瞬間、私は目の前の女性に強く宣言する。

「レミさん・・あなたのことを信じる」

 うなずく彼女。そしてサングラスを取る。私は思わず息を呑む。片目だけ色が違う。オッドアイ。そう呼ぶのだろうか。彼女の目から放たれる何らかの力で強制されるように、視界が固定される。彼女の目から視線を逸らせない。彼女の瞳の奥で、何かが揺らめいているような気がした。彼女は両腕を左右に軽く開き、まるで空から何かを受け取るようなポーズをとる。そして小声で何かをつぶやく。何をつぶやいたのかは全く聞き取れない。直後に私の視界はぐらつき、強い眩暈がした。

「あなたとはきっとまたどこかで逢える」

 彼女のその一言とともに、私の世界はぐるりと反転した。

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