お品書き 一 『あんみつ』銀の光に導かれて【2】


* * *



「ん……」



 いつの間にか眠っていたようで、居間の片隅で瞼を開いた私は、目尻に違和感を覚える。

 半身を起こしながら目元に触れると、乾いた涙のザラザラとした感触が指の腹に伝わってきた。

 洗面台で顔を洗い、冷蔵庫を開ける。



「あ、そっか……」



 ライトに照らされたそこは、当たり前のように空っぽだった。

 私が来る時はいつも、冷蔵庫がパンパンになるほどの料理が用意されていたことが、もう随分と昔のことのように思える。

 私の好物ばかり並べてくれることが嬉しくて、お腹がはちきれそうになっても欲張って食べた。

 そんな私を見て嬉しそうにするおばあちゃんにまた喜びを感じて、さらに無理をしてしまって……。帰宅後はいつも必死にダイエットをしていたけれど、そんなことも幸せだったのだと気づく。



 再び滲み始めた視界が、見慣れた居間の風景を歪めていく。

 自ら望んで足を踏み入れる前からこうなることはわかっていたのに、それでもここに来なくてはいけないような気持ちになったのはどうしてだろう。

 その答えを見つけられないまま、心細さを振り払うようにおばあちゃんの家を出て、大通りに向かった。

 悲しくても心細くても、なにもない家に泊まるためには数日分の生活用品を調達しなければいけないから。



 大通りには、コンビニやドラッグストアが並んでいる。

 ほとんどのスーパーが閉まり始めるような午後九時前、Tシャツにデニムという軽装の私が持っているのは、差している傘と財布とスマホだけ。

 観光客とは明らかに違う格好は浮いているようにも思えたけれど、青く光る看板を目指す。

 目的地は、もうすぐそこ。という時、バスから降りてくる人たちの会話が耳に飛び込んできた。



「明日は、金沢城やね! 楽しみやわー!」


「二十一世紀美術館もやろ?」


「ホテルに戻ったら行き方調べなあかんね」



 ゾロゾロとバスから降りてくる乗客は何人もいるのに、ひと際声が響いていたのは二十代後半くらいのふたり組の関西弁の女性。

 弾けるような笑顔は、今の私の心の中とは正反対で、思わず目を逸らしたくなってしまう。



「やっぱり、ひがし茶屋街にも行かへん? ここまで来たら、行くべきやと思うねん」


「うーん、帰りの新幹線の時間もあるから……」


「金箔ソフトは食べておきたいやん!」


「そういえば、食べたいって言ってたもんね。ほんなら、行こうか!」



 力説する女性に、友人らしいもうひとりの女性が賛成している。

 その楽しそうな姿を見て、ふと思い出したのは、おばあちゃんと最後に遊びに行ったのがひがし茶屋街だったこと。



 今年の春休みにも金沢に来た私は、おばあちゃんのリクエストで新しくできたという和カフェに行こうということになって、ひがし茶屋街に繰り出した。

 なんでも、ぜんざいとシフォンケーキが絶品らしくて、食べてみたいと誘われた。

 だけど、お店の名前も曖昧で、場所もきちんとわからない。

 そんな情報しかなかったせいで、SNSで検索してもよくわからず、そんなに広くはない茶屋街の中にあるはずのお店を見つけられないまま時間だけが過ぎていき、結局は以前に立ち寄った古民家カフェで抹茶のロールケーキを食べることになったのだ。



 おばあちゃんは、あの和カフェに行けたのだろうか。

 もう会えなくなるのなら、なんとしてでも連れて行ってあげればよかった。

 雨が降りそうだったとか、散々歩き回っていたからとか……。断念した理由は色々あったけれど、ひとりで歩き回ってでも探してあげればよかった。

 そうすればもっと、おばあちゃんは嬉しそうに笑ってくれたはずなのに……。



 あの時、どうして諦めてしまったのだろう……。

 抹茶のロールケーキを食べながら『おいしいわね』と笑っていたはずのおばあちゃんの笑顔を、上手く思い出せない。

 おばあちゃんは、本当にちゃんと笑っていたのだろうか……。



『扉が閉まります』



 不意に車内から聞こえてきた、アナウンス。それを耳にした途端、抱え切れない後悔とともにバスに飛び乗っていた――。




 ひがし茶屋街に来たことは、何度もあった。

 時代劇で目にするような情緒溢れる古い街並みは、道行く人たちとはアンバランスで、その景観だけが切り取られたように〝古き良き美しさ〟を醸し出している。



 おばあちゃんは、ここが好きだと言っていた。

 おじいちゃんも好きだった場所のようで、おばあちゃんとここに来ると、決まっておじいちゃんとふたりで来た時のことを話してくれた。

 なんてことはない他愛のない話だったけれど、お茶屋街の中にいながら聞く昔話から想像を膨らませるのは、なんだか胸が弾むような気がした。

 独特の古い街並みを眺め、お茶やスイーツを楽しみ、昔話に耳を傾けることは、金沢に来る楽しみのひとつでもあった。



(でも、夜ってこんなに雰囲気が違うんだ……)



 何度も見たことがある格子戸の連なる景色は、夜の帳が下りているというだけでまったく違うものに見える。

 いっそ、初めて来たような気さえして、また心細さが蘇ってきた。



 雨に濡れる石畳は街灯に照らされて光り、花街の名残を色濃く残していることを語る代わりにどこからか三味線の音が聞こえてくる。

 あてもなく歩きながら、その音色をぼんやりと聞いていた。

 お店の前にいる芸子さんやお客さんたちは笑っていて、まるで私とは住む世界が違うみたい。笑い合う姿はとても幸せそうで、ひとりぼっちで歩いている私だけが孤独を抱えているように見えた。

 楽しそうな姿を視界から消すように、人通りの少ない方へと足が向く。

 気がつけば、知らない路地に入ってしまっていた。



 オレンジ色の街灯が一気に減り、人通りもほとんどない。心細さは膨らんでいくばかりなのに、足は止まらない。

 なにを目的にしているのかも、どこに向かっているのかも……。自分自身でもよくわからなかったけれど、なぜか引き返す気にはなれなかった。



「たぁた、きまっし」


「え?」



 不意に聞こえてきたのは、子どものような高い声。

 思わず小さな声を上げて辺りをキョロキョロと見回したけれど、子どもどころか人の姿もない。



(空耳……だよね?)



 それにしては、やけに鮮明だった。そのことに気づいた時、心細さを押し退けるようにして芽生えたのは恐怖心。

 さっきまでは怖くなんてなかったのに、まったく人通りのない狭い路地にひとりでいるのだと自覚した途端、途方もないほどの不安が押し寄せてきた。

 慌てて踵を返そうとしたけれど、そもそも今来た道をよく覚えていない。

 暗い路地をやみくもに戻るのは不安を煽ってしまいそうで、スマホでマップを確認しようとした時。

 少し先に明るい光があることに気づき、そこで視線が止まった。



 悩んだのは、恐らく数秒だけ。

 デニムのポケットから出したばかりのスマホの画面よりも、数十メートル先にある白い光を頼ることにした。

 足早に歩くと、肌にじっとりと纏わりついていた空気が落ちていく感覚を覚え、同時にその分だけ体が軽くなったような錯覚を抱き、ますます足が速くなった。

 暗く狭い路地裏の道に煽られていく不安も一緒に落としたくて、気づいた時には走っていた。



 ゆらり、光が揺れる。

 待って! と口にできないほど必死に走っていたことを自覚した直後、目指していた光まで十メートルを切り、三秒後にはその正体が明らかになった。



 風に揺れているのは、まるで銀糸。

 闇に浮かぶ銀は束になったような髪だと確信した時には、私の目の前には着物姿の男性が立っていた。

 彼までの距離は、わずか二メートル。

 夜風に揺れる銀髪に目を奪われていると、形の綺麗な唇がおもむろに開かれた。



「娘、ここでなにをしている」



 疑問形のようでいて、どこか違う。

 不思議な気持ちを抱きながらどう答えようかと悩みつつ、射るように私を捕らえている双眸に見入ってしまいそうになっていた。



 灰色の着物に、深い灰色をした瞳。

 男性は、どこか中性的な顔立ちをしているように見え、暗闇の中にいるはずなのにその相貌はやけに鮮明だった。


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