一食千円のスイーツなど貧乏人は食べようとは思わない。
食事会が終わったのち、帰りの車の中。つい先刻まで上から眺めていた夜の明かりが今は目の前を流れていく。
すれ違う車のヘッドランプ、時折響くクラクション、カーブとブレーキのたびに感じる体の揺れ。夢から現実に戻ってきたことを否が応でも実感する。
「ありがとう、千佳」
「へ? なんのこと?」
車のエンジン音に混じって唐突に響いた宗徳の言葉に、千佳は小首をかしげた。
「明日香が気を使わなくて済むようにしてくれたんだろ?」
「あはは、ばれてたさぁ…… まあ宗徳の前じゃ隠し事なんて無理さぁ」
千佳は軽く頭をかく。それを八重樫が鋭い視線でとがめた。
「近衛家当主が目で合図したから止めなかったがな。一歩間違えれば大ごとだぞ」
千佳の顔から血の気が引いた。
「大ごとって……」
「クビとか、無礼打ちとか、そういったたぐいだな」
「マジさあ?」
「半分は冗談だろうけど…… ありえない話じゃないね」
宗徳のからかい交じりの口調にも関わらず、千佳は更に蒼くなった。
「お前も同罪だぞ。近衛家に対しあのような物言いをするとは…… 正直、千佳の時よりヤバいと思ったくらいだ」
「すみません…… つい熱くなって」
千佳に対する時よりもさらに鋭い声音。隣で聞いている彼女の方が蒼くなったほどだったが、宗徳はあの時のことを悪いと思わなかった。
報われるべき人が報われない、そんな社会は間違っている。宗徳は自分の信念を曲げるタイプではなかった。
一方、近衛家の車の中。
公安五課とは比べ物にならない豪奢なハイヤーの内装。熟睡できるほどに広々として柔らかなシート、茶から高級酒まで取り揃えられた備え付けの冷蔵庫。
その中でドレスに身を包んだ明日香は頬杖をついて、車窓から外を眺めていた。
心にあるのは昨日助け出され、今日食事を共にした少年。
助けられたのは初めてではないし、自分に言い寄ってくる男など星の数。
初めて誘拐され、助けられた男性はこの世で一番頼りになる男性と感じた。だが所作が粗野で言葉遣いが荒々しく、異性として意識はできなかった。
二番目に助けられた相手は相当な好青年で、所作も洗練されていた。だがあからさまに自分に色目を使うのが嫌で気持ち悪かった。美男子を好きになれなくなったのはあの時からだと思う。
近衛家に対し無礼な、という思いもあった。
でも。宗徳は今までに出会ったどの異性とも違っていた。
福祉施設で働く方が似合っていそうな、平凡だが穏やかな顔立ち。なのに刀を振るう姿はどこまでも凛々しく。
近衛家に対し口答えをするのも珍しかったが、どこか怒りより悲しみをたたえた視線。
何より、自分のことを見透かすような、理解しているような、受け止めてくれるような、あの……
生まれて初めて明日香の胸にともった恋のともしび。だが感情が顔に出ないよう訓練してきた賜物か、誰にも気づかれることはなかった。
「おはよう、明日香」
「おはよう」
「ごきげんよう。宗徳さん、千佳さん」
翌日から宗徳と千佳は明日香と行動を共にするようになった。黒塗りの車で寝起きする公安五課の寮の近くまで来てもらい、体調や予定など簡単な申し送りを運転手から受けて登校する。
登校中であっても、二人とも脇差を懐に隠し持ち陰から日向から明日香を見守っていた。
体育の着替えの際には更衣室でも千佳が張り付くようにガードしている。
歴史的にも源義朝はじめ、衣服を脱ぎ無防備になったところを暗殺された例は多い。
だが最初のうちは、近衛家令嬢と急に仲良くなった二人に嫉妬や陰口も多かった。
「なに、あいつら」
「カースト外にいるくせに……」
「明日香さんと釣り合ってないよね」
本人たちの前で堂々と悪口を言うことも珍しくなくなってきた。その中の筆頭が近衛家に次ぐ家柄である三井家の令嬢たちだった。
「明日香さん、あんな下賤の者と付き合わないほうがいいですわよ」
「そーそー、何があったか知らないけどうちらにすり寄るなんて、ゲスだよね」
「品性が下級だから下級国民、なんて言い方ができたんじゃね?」
「……そのような言い方は、品位を下げるかと」
数人で明日香を取り囲むように言っても、意見を曲げない明日香に対し語調が荒くなる。
「なんですの、その気取った言い方は」
「いい子ぶりたいの?」
「下級国民に慈悲の手を差し伸べるわたくしはサイコー、イケてる、って? そーいうのマジうざいんだけど」
千佳の手が懐の脇差に延びたが、宗徳はそれを目で制する。
反論の代わりに明日香がゆっくりと立ち上がる。輝くような黒髪が流水のように滑らかに流れ、宝石のようにつぶらな瞳がはっきりと見開かれた。
「二度と、わたくしの大切な方々の悪口を言わないでください。あなたたちを見ているだけで吐き気がします」
ぞっとするほど冷たい声に周囲から聞こえていた雑談がぴたりとやむ。教室内が水を打ったように静まり返った。
三井家令嬢らは驚きに目を見開き、次に何かを言いかける。
「……」
だが明日香の目に睨まれ、口が縫い付けられたかのように動きを止めた。
近衛家は可夢偉使いの家柄ではない。
だが彼女に流れる高貴な血、彼女自身の経験と見識。それらは近衛明日香の醸し出す空気に鋼のごとき重さと鋭さを与えていた。
「な、なにをえらそうに」
彼女たちはそう言うのが精いっぱいだった。もごもごとさせていた口を閉じ、きまり悪そうにその場を離れていく。
教室の扉が閉められたとたん、近衛明日香に対しわっと歓声が上がる。
「すごーい!」
「格好良かった、明日香さん! さっすが近衛家令嬢って感じ? 上級国民のオーラってやつがまるで違うね」
「あいつらいっつも人の陰口言っててさ。でも明日香さんがガツンと言ってくれてスカッとしたよ」
「家柄ばっかり鼻にかけてさ、ほんとやな奴!」
「ほら、但馬君も柳剛さんもおいで~」
宗徳と千佳も歓声の輪に加えられ、賑やかな時間を過ごす。
教室を出ていった三井家令嬢たちはその日一日戻ってくることはなかった。
彼ら以外にも陰口を言うクラスメイトはいた。だがこの日以降、明日香とは次第に疎遠になっていく。
宗徳や千佳が共にいても気にしない上流階級のクラスメイトたちだけが、明日香のそばにいるようになった。
「今日は、帰りにカフェに寄りませんか? 新作のフラペチーノが出たそうです」
「マジ? 外せないじゃん」
「でも私のお小遣いじゃ、無理かな」
「我が家の系列なので、ご心配なく」
上級国民ならではの交際費や人脈に目を白黒させながらも、宗徳と千佳は明日香と同じグループに溶け込んでいった。
交際費は経費の名目で、公安五課が持ってくれた。さもなくば一食千円のスイーツなど二人は食べようと思わなかっただろう。
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